音のない足音
◇ ◇ ◇
耳に届く音は、あまりにも物々しく聞き慣れないものだった。まるで目覚まし時計の鳴り止まぬ狂ったアラームが如く、切迫感が込み上げてくる。
吹き荒れる風と頭に響く不快な高音に叩き起こされたロキは、瞼を震わせながら薄目を開いた。
掠れる視界の中で、ロキは辛うじて状況を認識する。
どれくらい意識を失っていたのかも定かではないが、今もまだ戦闘が続いていることだけは確かなようだった。
こうして意識を取り戻せたのは偶然と幸運によるものだった。
気を失う直前、懐に忍ばせていた【簡易式治癒魔法】が刻まれた紙片を腹部に貼っておいたのだ。それが僅かながらも再び目を開くに至れた理由だった。結局のところ自己治癒能力を促進させる程度しかなく、こうして意識を戻すことができたのはありがたい。
本当に貼れていたのかも定かではなかったが、いずれにせよ間一髪間に合ったようだ。
それでも首をもたげるだけで全身に激痛が駆け巡る。
なんとか今起こっていることを把握しよう試みるロキの目に映ったのは……ここ一年と少しの間、傍で見てきたアルスとは別人のような彼の姿だった。
縦横無尽に旋回する円盤の魔法から逃げるだけで精一杯のアルスは結果的に攻め切れていない。何より、アルスの身体はボロボロになっており、いたるところに血が滲んでいる。
傷など気にせず、アルスは神経を研ぎ澄ましていた。今も一瞬の隙をついて懐に飛び込む。
が、急旋回する円盤型の魔法によってギリギリ阻まれてしまう。機を窺うべく距離を取るが、間一髪の回避劇は刻々と生々しい傷を刻んでいく。こんな先の見えている消耗戦をアルスはずっと繰り返していた。
額に張り付く黒髪に、無感情なアルスの冷たい顔。
(アル……)
しかし、その目は誰も見ていないし、映ってはいなかった。人形ですらない瞳の異様さにロキは危機感のような物を抱く。
己の負傷を顧みない、尋常ならざる状況に打ち震えた。
生き死にの戦いは常に己の生命を天秤に乗せて初めて成立するものだ。外界ではその危機感を見失うことはあっても、忘れることはない。感覚が麻痺していようと人の身である以上、身体は正直に恐怖を宿すものだ。
逃れることも屈することも許されず、ただ向き合うことでのみ生を繋ぎ止めることができる。
だが、今のアルスは何かが決定的に欠けていた。
魔物だろうと、人間だろうと、生死を賭けた戦いにおいて彼はその対価を差し出していない。
傍で見てきたロキには、その異様な光景があまりにも受け入れがたい違和感に思えた。
圧倒的実力差があろうとアルスは、常に“生”と“死”について考え続けてきたはずだ。だから、彼は今日まで生命を繋ぎ止められている。最強の称号を得ても、変わらぬのが人の身の脆弱性だ。
幾度となく死地から帰って来られたのだ。どれほどに強かろうと、人の身であれば差し出す対価は確実に存在する。
(何かがおかし、い。アルの不調は魔力の置換に異常があるのだと言っていた……なのに)
魔法師が外界で陥りやすい精神疾患の中で最も恐れているのは、魔力の暴走だ。特に今回のように仲間との死別は大きな心神喪失の引き金になる。つまり魔力の暴走へと直結する。
しかし、今のアルスは不完全ながらも魔力を駆使して戦っていた。
アルスの不調の源は魔力にあり、それが身体的な機能にまで僅かながら及んでいる状態。この症状はテスフィアとアリスを連れて行った外界からだ。精神的なストレス、というよりも精神的負荷によるところが大きい。だからこそ、魔物に取り込まれてしまった姿をアルスに見せるのは避けたかったのだ。
(今のアルは普通じゃない、でも魔力が暴走しているわけでもない)
得も言われぬ恐怖がロキの中で膨れ上がっていた。
一方的な蹂躙、そんな不条理な生殺与奪の前触れが、音もなく近づいている。
ロキの瞳に映ったアルスは、幼少期の彼でもなく、軍でボロ雑巾のように使われ続けた彼でもなく……そして学院での彼でもなかった。
そう思えば、ロキが目覚めるまでの時間、自分が五体満足だったことはアルスに守られていたからではなく、ただの偶然なのではと寒気を呼びこむ考えが胸裏を過る。
直後、四方からの挟撃にアルスは回避ではなく魔法による防御を行使しようとしていた。回避は不可能と反射的判断が優先された結果、行動に移行するまでの迷いは一切ない。
しかし、絶妙なタイミングでの挟撃が四つ同時であることから、そう仕向けられたのは火を見るより明らか。回避を余儀なくされ続けた先にあるのは、詰めの一手であった。
アルスが瞬時に判断した対処法は数ある中から、選ばされたといっても過言ではない。強引な回避か、防御か……それは悪手と悪手の二択であり、違いなどあってないようなものだ。
直感とも言うべき瞬時の判断でアルスは防御を選択した。数手先を読んだ末に、今のアルスにそれを防ぐだけの魔法は紡げないとわかった上で、魔法での防御を試みようとしたのだ。
誰が見ても無謀な賭けに他ならなかった。勝つための戦術ではなく、負傷を最小限にしようという消極的な選択。
普段ならば全身が否応なく怖気立つロキだったが、この時ばかりは何故か冷やりともせず見ていられた。
圧倒的に不利なのはアルス、にも拘わらず先程からロキが抱く生殺与奪の応酬は傷だらけの彼の手の中にあるような気がしてならなかったのだ。
だからだろうか、ロキの目の前に落ちていた鎖の輪に微かに魔力が通ったのを見ても動じない自分がいた。
アルスの手から離れ、分離した鎖の輪、一つ一つが目に見えない糸で繋がれているかのように、アルスの魔力を通わせている。
だが、それでも……ロキの中にある別の恐怖心は次第に膨張していく。
アルス自身が壊れてしまう、と危惧することに対する恐怖だ。何がどう壊れるのか、今となってはそれが精神的なものかすら定かではない。
強烈な嫌な予感という物が、無視できない大きさにまで膨れ上がっていた。
一つ言えることは学院で過ごした短い時間、その全てが無かったことになるような気がしてならなかった。そう思わせるのは、やはり今のアルスがロキの見たこともない彼だからに違いない。
アルスの手の中にあるAWRは今や頼りなさそうに肝心要の鎖を断たれている。
そんな不安を跳ね除けるように、AWRへと凄まじい量の魔力が注がれ、共鳴するかのように散らばった鎖も反応を示す。アルスが放出した無尽蔵を思わせる膨大な魔力は、勢いよく周囲を満たしていく。
冷気とは違う寒気を伴った、禍々しき魔力。殺意といった感情を一切感じさせないただただ不気味な魔力であった。
魔力の流れは取り留めもなく、時折不自然な動きすら見せる――まるで生きているかのように。
今や彼の身体が瘴気のように立ち込める魔力は、身体すらも覆い隠す程濃く、どんよりとした黒い霧となる。煙のような魔力に包み込まれたアルス目掛け、円盤は一斉に内部へと侵入。
そのまま交差して濃い魔力の渦を反対側へと抜けていく。防ぐ時間すら与えられなかったのか、円盤は綺麗にアルスのいた場所を抜けていった。
濃い魔力だけを残し、四つに切断されたかのようにロキには見えた。
だが、直後彼女の視界の端で、突如現れたアルスに大きく目を開く。現象に対してロキは、アルスしか使えない魔法【2点間情報相互移転】をすぐに思い浮かべた。しかし、この魔法は対象物との位置情報をアルス自身と入れ替えるというもの。
今、アルスに起こった事象は自分だけを移動させるというもの。奇しくも【背反の忌み子】が使った魔法と同じである。
二点の位置情報を入れ替える【2点間情報相互移転】でさえ人間が扱える領域を大きく越えているものだ。この技術を応用した【転移門】でさえ実のところ核心部はブラックボックスに等しい。当たり前のように日常で使われているものだが、複雑怪奇な術式システムはそれを起動させる高性能な機器が必要になる。
武具としてのAWRとは違ったベクトルの機材が必要であり、それが魔法として成立しない理由であったりもする。
不可能だと拒みつつも、ロキだからこそわからなくもないところがある。アルスを良く知るものならば辛うじて理解できそうな気がする。
何せ【転移門】はアルスの研究によって生み出されたものなのだから。
ただ、それでさえ大掛かりな装置を用いたもの。
それよりも更に数段困難と思われる個人の位置情報を転移させるというのは……。