異能の代償
「うっ……」
生まれたての子羊のようにファノンはガクガクと身体を震わせ、胃の中の物を吐き出した。
身体が拒むかのように大量の水分を吐き出す。今のファノンは嘔吐感を自らでは抑えきれず、激しい錯乱状態にあった。
「ファノン様ッ!?」
この代償――いや副作用は理解していたはずだ。
駆け寄ったエクセレスはまずは折れた腕の状態を見て、これ以上悪化させないために己の服を破いて強引に押さえつけて固定する。
目の端に涙を溜め、苦しそうにするファノンは腕のことなど意識にすら上らないだろう。それどころではないのだ。折れた腕の痛みを感じることなく、彼女は何度も咽せては嘔吐する。
治癒魔法師を待機させておき、容態が落ち着くまでエクセレスは背中を擦った。
腕はともかく、これは治癒魔法師でもどうすることもできない症状。
「拒絶反応ですね。ゆっくり呼吸を落ち着けてください。できれば戻し過ぎないように……」
【不自由な痣】の移植はファノンだからこそ可能なのだが、それは無条件で行えるものではない。ましてや何の代償もなくできる芸当でもない。そもそも異能というものは術者の身体に適応しているだけで、魔力同様他者と共有できないのが原則。
当然考えられるのは拒絶反応だ。本来は自殺行為に等しい。
前回の時は、脳を掻き回されたような気分だとファノンは言っていた。
三半規管はもちろんのこと、焦点さえ定まらない。強烈な嘔吐感は抗うことなどできないものだ。
加えて急激な全身の底冷えは、身体の自由をも奪ってしまう。こうして座っていられるだけでも不思議な程で、彼女は必死に抗っている。
「うぅ~エクセレスぅぅ…………苦しい」
「はい」
「気持ち悪い……寒い」
目の端に涙を溜め、震えた声は高熱に喘ぐ子供のように弱々しいものだった。
言葉を交わしたことで、エクセレスは少し安堵した。
「はい。大丈夫ですよ。すぐに良くなります。それまで傍にいますから」
母のように優しく介抱するエクセレスは穏やかな口調で、背中を擦る。
幸いにして拒絶反応としては軽度だ。昔使った時はだいたい二十分程続き肝を冷やしたものだが、その時は座ることは疎か、腕で身体を支えることさえできなかった。
あの時と比べれば、喋れるだけ良いのかもしれない。
「頑張ってください」
そんな言葉しか紡げないのが、心苦しい。短時間とはいえ、本人にとっては苦しいものだ。それでも絶大な力の代償としては安いのかもしれない。しれないが、自分の異能が原因では仕方ないとすんなり受け入れることはエクセレスには難しかった。
申し訳ない、そんな面持ちになってしまうのは避けられなかった。
だから傍で彼女が回復するまで寄り添い、声を掛け続けるのだ。
肩代わりなどできないと知りつつ、こんなに弱ってしまうファノンを見るのは苦しかった。
五分程介抱し、エクセレスの肩を背凭れにして、足を投げ出したファノンは何度も吸っては吐いて、ゆっくりと息を整える。
安静になってきたところで、腕の治癒も始めることができた。
まだ焦点が定まっていないのか、目を瞑ったり色々試しているため、快復にはもう少し掛かりそうではあるが。
少し経った後、不気味な静寂の中で、突如として思わぬ声音が飛び込んできた。
「ほほぉーもう終わってたか。加勢に来たのだが、計算違いだったか? 小娘にしては上々……なるほどぉ、手こずったか」
斥候に出していた隊員達に付き添われながら、その少女――イリイスはニンマリと皮肉っぽい笑みを浮かべていた。
誰の目からも明らかな程、浮かれ調子のイリイスにファノンは目もくれず。
「小娘が小娘ってどういう頭してんのよ……で?」
弱ったところを見せたくないのか、強がった言葉を返すもののそこに力はない。しかし、ここでの不毛なやり取りはファノンの一方的な負担になるだけ。
本題に入るべく彼女はさっそく続きを促した。
「下は終わったぞ……が、ガキどもはいなかった」
「今度はガキね。どんな基準で使い分けてんのよ。ということは」
「まっ、下はある程度洗ったが、目ぼしい痕跡は見つからなかった。お前さんの探知で一度確認するためにも戻ってきたが、私の予想では十中八九この階にいるだろうよ。面倒なことになっていなきゃいいが」
水を向けられたエクセレスはまず自分の身体に痣が戻ってきていることを確認した。それと同時にイリイスの全身を軽く視界に収めた。
多少ローブに汚れは付着しているものの、戦闘の痕跡を彼女から見つけるのは難しかった。
ともかく探知はすぐにでも行うつもりだが、地下二階層フロアの調査はまだ降りてきた巨大部屋のみ。
普通に考えれば、地下二階層にレアメア姉妹がいる可能性は高い。もっといえばどこかで階層間を繋ぐ通路があった場合、ここにもう一人の遭難者――フェリネラ・ソカレントがいる可能性だってある。
この階層にもう一体【餓猿鬼】と同等レベルの魔物がいることも確か。
(いえ、少し違う)
もう一体の高レートの魔物。鉱床の外で探知を試みた際に感じたものに今は少し訝しみが湧き上がってくる。
【不自由な痣】の探知では脅威度としては同等レベルという感覚が強い。魔力の総量というよりも質。それも異様な魔力を感知したためにエクセレスは同等レベルという認識に至ったのだ。
この階層には二種類の異質な魔力を感知したことになる。
一つは膨大な魔力量を持ち、もう一つはこれまでに経験のない魔力によるもの――一種の生命力的な存在感と言えばよいのだろうか。
種や個体差で魔力というエネルギー体が大きく変質することはありえない。レートが上がれば、必然的に情報量が増し、濃密となったり質という表現を用いることは多々ある。
そうした既成概念に当てはまらないような気がしてならない。
いずれにしても。
「イリイス会長。今のファノン様では……」
そう言いかけたが、エクセレスは何かを気にする素振りを垣間見せたイリイスに続きを飲み込んだ。
「どうかされたのですか? イリイス会長」
「いや、アルスも気にしていたようだが、少し上が気になる」
「と言いますと、ガルギニス様でしょうか。確かに今は戦闘の音も止んでおりますが」
「いいや、そっちじゃない。もっと上だ……」
「…………!?」
漣のような驚愕はイリイスが何を指しているか、いずれにせよ、それが悪いことだと予感した。思い当たりそうな情報を整理するため、思案するエクセレスに、イリイスは「いや」と強引に口を挟む。
「まずは決めることが先決だ。私が上へ引き返すか、貴様らが上へ引き返すか。正直私としてはさっさと目的である救出を優先したいところなのだがな。ところで、件のレアとメアという姉妹について私はあまり知らないのだが」
「彼女達は双子です。魔力による個人差というものがほとんどなく、ライセンスでさえ識別ができない程酷似しているようです。それと……少々好戦的な気質の持ち主でもあります」
「うーん。ちと面倒だな。若さ故の無謀も今回ばかりは発揮しないでもらいたいところだ。と、言いたいところだが、アルスの口ぶりからもこの姉妹は今も魔物を狩っては先を進んでいるだろうよ」
「私も同じ考えです。彼女達の戦闘力ならば十分退避することもできたはずです」
裾に隠れた手を額に持っていったイリイスは盛大な溜め息を吐き出した。
「はぁ~、シングル魔法師でも手こずる魔物がいる中で、遭遇しないことを祈るしかあるまいな。死なれると面倒なことになる、それは変わらない。死にたがりに差し伸べてやる手は持ち合わせていないんだが」




