痣の一時移植
引き金を引いた張本人は……少し小首を傾げた状態で、呆然と立ち竦んでしまっていた。無防備なようでいて、思考を止め感覚を研ぎ澄ませているのがわかる。
折れた腕を庇うでもなく、憤怒を溜め込んでいるのだろう――そう箍が外れた。乱れた髪の隙間から見える口元は、悔しそうにきつく結ばれていた。
彼女の中で考慮すべき、制限が外されてしまったのだ。
全速力でファノンの下まで駆け寄ったエクセレスは、彼女の手元でカチッという音を聞いた。ファノンが手に握っているAWRからその音は発せられたのだ。
罅の入った傘型AWRが中棒だけを残して、傘たる大部分が外れ、スルリと地面に落ちる。
中棒だけを握った彼女の意図を察するのは容易い。
エクセレスはファノンの意を読み、腰に掛けている【三器矛盾】を外して留め具を解くと、筒を彼女の横に立てる。
そこに中棒を刺して、内部で換装を済ませるファノンに、エクセレスは最終確認を取った。
「良いのですね?」
「早く!」
ふぅと溜め息をエクセレスはこれ見よがしに吐いた。
後ろから小さな肩を抱き「終わったら説教じゃ済みませんよ」と一言言い添えて、エクセレスは【不自由な痣】を開放する。
首元が黒く染まり、そのまま顔を黒で覆ってしまうかのように思われた直後、ピタリと痣の侵食が止まる。エクセレスはファノンの肩を抱いた両手を滑らせるように彼女の胸元から服の中に潜り込ませた。
撫でるような優しい手付きで、汗に濡れた服の中へと差し込み、鎖骨をなぞり肌に伝わせていく。
少し湿った肌の表面はひんやりと冷たかった。
胸の膨らみを指先で感じると更に進めていく。
ファノンの全てを感じられるように、ピタリと肌に掌を触れさせながら、心臓の上でぐっと手に力を込める。
するとエクセレスの首を覆っていた痣が引き、腕を伝い降りていった。そしてファノンの首下から這い上ってくる。
首から顎、そして顔の半分を痣が侵食し、彼女の目の周りを模様のように彩っていった。
「移植完了」
言い終えると、両手を引き抜いてエクセレスはファノンの汗で湿った背中を押し出す。
「最大で三十秒です。もちろん覚悟しておいてくださいね」
「…………」
返答はない。
ここまで追い詰められたのは彼女のミスではない。強いて挙げれば【餓猿鬼】という魔物が予想を上回っていただけのこと。
ただその代償として隊員は生命を余計危険に晒さなければならない。ファノンが責任を感じる必要はないが、自覚する必要はある。そのための説教なのだ。
死にゆく者の覚悟を知らなければならない。
「全員、即時後退!」
エクセレスの号令に【餓猿鬼】やボドスの存在をすっかり忘れたかのように、隊員達は脇目も振らずに踵を返す。
ボドスの群れは今、その数を更に減らしているが、それでもまだまだ多いことに変わりない。
如何なる攻撃も無視して、全員がその場を脱することにのみ全力を注いだ。
彼らは振り返りざまに見ていた。
自分達が守るべき小さな、最強の矛盾を。
彼女が着ている衣類はやはり外界には似つかわしくない。そんな彼女の背後に装飾品かと思う菱型の薄板が等間隔で付かず離れず滞空していた。薄板の表面には細かな魔法式が浮かび、見る者に六枚の羽を連想させた。
最硬の障壁、【三器矛盾】が一つ。
「【絶対障壁】結合……【神域守護障壁】」
障壁の複写増幅に加え、【不自由な痣】との結合を成した今、完全なる不敗が始まる。
三十秒間という僅かな時間。その与えられた神域は誰にも侵すことができない。
逃げる隊員を標的にボドスの追い打ちが差し迫るが、彼らは生命を賭す覚悟で命令に忠実であった。追い縋るボドスの振り被った戦鎚に目も向けず、避けることすらしない。ただひたすら後退するのみ。
彼らが信じていたように追い打ちは最硬の障壁に防がれる。菱型の障壁であるが、高精度で的確に攻撃を弾いた。
ボドスの進行はパタリと止み、突如出現する障壁に為す術なく、攻撃の尽くが弾き返されていた。
ボドスの進行は止まったが、それを容易く越えてくる脅威は依然として変わらない。
【餓猿鬼】の空間移動する拳、その全てをファノンは瞬時に防ぐ。隊員に迫った拳や、エクセレスを標的とした攻撃、一切合切取り溢すことなく対処してみせた。
本人はただ無言のまま歩み寄っているに過ぎない。
幽鬼のように覚束ない足取りで、身体を揺らして小さな歩幅を刻む。
害意ある如何なる攻撃に対しても【神域守護障壁】の前では無意味に終わる。
まさに神域。その様は、世界の意志とでもいうべき光景。世界の法則そのものが彼女を守っているかのように見えた。
系統魔法を付与しようとも、【絶対障壁】の自律プログラムの前では無意味も同然。
【餓猿鬼】の連撃は全て弾き返され、歪めた空間に引き返していく。
ファノンの歩みは止まらない。
全隊員がファノンの後ろまで退避した頃、残ったボドスの群れにただ歩み寄っていく。
ボドスの隣、手を伸ばせば届く間合いでさえ、卑しき小人の攻撃は瞬時に展開する障壁に阻まれる。
「見せてあげる。仮初めの生命を存分に散らせ」
奇声めいた魔物の叫びにファノンはスッと目を細めて手を翳す。
さぁっと振り払うような動作の後、ボドスの群れは一瞬にして身体をバラバラにされ、まさに死屍累々と化す。
彼女が歩みを再開すると、まるで主の意志を汲むかのように肉片が障壁によってどかされていく。
そして直線上に【餓猿鬼】の姿を捉える。
拷問具によって身体中に穴を空けられたはずの化物は、僅かな体液を滴らせただけですでに完全修復されていた。ダメージの痕跡は黒々と足元を湿らせた体液だけだった。
それも蒸発するかのように消えていく。
攻撃の手を止めた【餓猿鬼】に諦念なんてものは存在しない。
逃げるといった動物的本能も、合理的判断もつかないが故の化物――古き化物。
「十秒…………憐れね。久しぶりに私の愚かさを思い知らせてくれたお礼に、嬲り殺してあげる」
残り時間を口ずさみながらもファノンは歩みを止めない。冷たい表情、整った口からポロポロと紡ぎ出される言葉は決まった未来だけを告げる。
危機感でも抱いたのか【餓猿鬼】の背中が急激に膨らみだした。
少し前に小手調べで女性隊員が仕掛けた際に、反撃として見せた奥の手。
【餓猿鬼】の背中が盛り上がり、そこから肉をぶちぶちと突き破る音が痛々しく木霊する。
長大な腕が四本。
皮膚を剥いだような薄気味悪い腕が【餓猿鬼】の背中から増えた。
ヌラヌラとした光沢は、外気に触れた直後から硬質な皮膚へと変質していく。
新たな戦いの口火は唐突に始まった。
背中の腕が真っ直ぐファノン目掛けて襲いかかる。しかし、障壁が絶妙なタイミングで防ぐ刹那――またしても拳の先が消えていく。
突き出された拳が出現したのは真横。
意表を突く戦法に対して、ファノンは何の反応も示さなかった。
ガインッという打音が響く。鉄壁の障壁に阻まれた拳は、移動先で待ち伏せでも受けたかのように当然の如く【アイギス】によって防がれていた。
新たに追加された拳はこれまでの攻撃よりも更に魔力量が多く、そして濃い。
本気の死に物狂い。そんな全力を感じ取った気がした。
腕のそれぞれに特化した系統があるのだろう。次々に繰り出され、移動を繰り返して襲いかかってくる拳の雨にファノンはそんなことをぼんやりと分析していた。
思考を必要以上に割くことは、今の結合状態では余計なことだ。ありとあらゆる感覚が敏感になり、全身が感覚器にでもなったようなものなのだ。いや、このフロア全体が自分の間合いであるような感覚。目を瞑っていても、魔力というものを感じ取ることが容易だ。身体の一部であるかのように把握することができる。
故に膨大な情報量を知覚するため、思考は雑念でしかない。
一連の攻撃で火、水、土、雷の系統は確認できた。
しかし、それまで。そこから何が繰り出されようと、瞬時に対応できる【絶対障壁】の前では大した意味などない。
何より空間を任意に移動できる攻撃を逸早く察知できるのは、【不自由な痣】のおかげだった。探位1位であるエクセレスの異能。
これがあればこそ、全ての魔力の動きや痕跡、そういった予兆がはっきりと伝わってくる。この感覚は口では説明できない。人間が持ち得る五感とは掛け離れており、第六感に近い。
最も予感や勘といった曖昧なものではなく、自分には確信に近い訴えを齎す。
不思議なものだが、伝わる感覚――異能というものに触れたファノンは一切疑いなく信じることができていた。
爆撃を思わせる打音がファノンの周囲を覆い尽くした。
打撃数は数え切れず、数歩進む間に軽く百は超えただろうか。
絶え間なく一撃死の豪雨が降り注いでいるかのようだった。
だが、そんな豪雨もファノンには触れることさえできない。
【不自由な痣】は魔法とは異なる、明らかな異能。特に先天性の異能であるが故に、肉体的にも魔力的にも宿主として適合しているのだ。
それを他者に移すというのは邪道と言う他あるまい。
こんなことを可能にできるのは、エクセレスが長年ファノンの傍で戦場を駆け巡ってきたからだ。彼女に関する魔力情報は【不自由な痣】で何度も知覚している。
つまり、最も親和性が高いと言えた。
それによって【絶対障壁】を更なる高みへと押し上げた。
三十秒という短い時間に与えられた不可侵の契約。組み合わさることによって生まれた【絶対障壁】の真価こそ、【神域守護障壁】なのだ。
認識を超えた対応力は【絶対障壁】の機能を余すことなく、使いこなしていると言えた。
全能を以て、有限の時を制する。
ファノンは巨体を有する【餓猿鬼】のすぐ目の前で、無感情な人形のような目で化物を視認する。
掻き消える程の速度で振るわれる計六本の腕。
全ての害ある攻撃が目の前の少女へと降り注いでいた。【餓猿鬼】からすればこれほど、もどかしいこともないだろう。
殺すことに邁進し、それでも何かが変わるわけではないのだから。
どこを叩いても硬い壁に弾き返されるだけ、すでに魔物の拳は砕けて濃緑色の血を撒き散らしていた。
砕けた傍で修復を繰り返す。
無限とも思わせる連撃は、あっけなく終わりを迎えることとなった。
【餓猿鬼】が荒々しい息を吐き出し続ける刹那――。
エクセレスの目の前に何かが吹き飛んできた。そして次々と巨大な何かが壁面をぶつかる物々しい音が立て続けに響く。
「――分離」
エクセレスは近くに吹き飛んできた物体――巨大な魔物の腕を見て、そう口をついた。
いたるところに吹き飛んだのは【餓猿鬼】の腕であった。凄まじい速度で振るわれていた巨腕が突如、切断されたために勢いよく飛んでいったのだ。
そして断面に目を向ければ、【アイギス】の障壁が密着している。
空間を自らの干渉下に置くことができるのが【アイギス】だ。厳密には【不自由な痣】と合わさることによって、本来ありえない空間への干渉を可能にしている。
【餓猿鬼】の魔力が主に攻撃へと注がれていたため、魔法師ならば怠ることのない自身の情報定義が不十分だったこともあるだろう。体内を発現座標とするには何かしらマーキングなりを必要とするが、【神域守護障壁】は一定の空間範囲内を干渉下に置くため、余分な工程が省かれる。
情報の蓄積から最適解を導き出す【神域守護障壁】ならば十分つけ入る隙はあった。
いや、【不自由な痣】の特性上、本来取得できないはずの情報が集約される。【アイギス】が解析するのは時間の問題。
つまり、三十秒という僅かな時間に解析できるかに掛かっていたわけだ。
切断ではなく相手の魔力情報に割り込み、体内で障壁を発現させる――だから“分離”なのだ。
【餓猿鬼】の飛ばされた腕の断面はやはり障壁が張り付いていた。二枚の障壁を体内に同時展開することによって、スライドさせ分離することができるのだ。
手品でも見せられているかのような気分だが、種も仕掛けもない。ただただ、体内に障壁が発現し、切り離されていくだけ。
六本の腕が吹き飛び、次いで、足までも障壁が体内で生み出される。
まるでガラスの上を滑るかのように【餓猿鬼】の巨体を支えていた足がずれる。
ずちゃっと異音を立てて地に落ちた魔物をファノンは見下ろす。
噴水のように吹き出す体液はファノンを避けるように地面に広がっていく。
残った頭と胴体に、様々な角度から【アイギス】の障壁が二重に出現した。
修復を待たず、断末魔すらなく、死を待つ獣のように変わらぬ荒々しい息遣いのまま【餓猿鬼】は醜い顔を地面に押し付けるようにして最後を迎えた。
「三十秒は長いわね」
ボソリと表情を変えずにファノンが呟いた直後、魔物の身体はパズルのようにいくつも分かたれた。
最後にずれた断面から丸い魔核が地面へと落ち、転がりながら真っ二つに割れる。
断面と密着していた障壁が消えると、膨大な体液が地面を飲み込んでいく。
最初から物質として存在していなかったかのように、体液から蒸発していき、【餓猿鬼】の身体は塵へと還っていった。
目に見える全ての敵を排除し終え、生者のみが立っているこの光景に隊員達の安堵が広がっていった。
その中にはエクセレスも含まれるが、彼女の視線は未だファノンの小さな背中へと注がれている。
直後――。
ファノンの背中で滞空していた【アイギス】の羽が硬質な音とともに地面に落下する。
同時に膝を折って、小刻みに震えながらも足を両側に開いて座った。
「けほっ、けほっ……おぇっ」
込み上げてくる抗い難い吐き気。
強烈な目眩に襲われ、様々な感覚が誤作動を起こしたかのように立っていることすらままならず……ファノンは嘔吐した。