代償と開放
決定的なミスが現実として訪れる直前にファノンは悟る。打開する術を考えても、実行に移す時間などまるでない。失われた0.1秒分の遅れが、彼女の反射速度を確実に上回る瞬間が訪れる。
それがわかっていながら、防戦一方の状況が彼女に耐え難い屈辱を抱かせていた。
防ぎ、躱し、防ぎ、躱す、防ぐ。
その繰り返しのはずなのだが、捌けなくなってきていることを感じても、それでもこのループから脱せない。取り返しが付かない速度で死地へと近づいていた。
“死地”が現実の脅威としてファノンを襲ったのは僅か二秒後のことだった。
それは積み木のように、危うい土台の上で何段も精密に積み上げられているようなもの。
だからこそ、崩壊は起こるべくして起こる――唐突に。
目まぐるしく視線を振って、同時にハッと気付かされるかのように注意を全方位に向ける。
「クッ!!」
漏れる苦鳴。
全方位からの刹那的連打の予兆。
全方位からの一斉打撃。
その感覚は全身を包み込むような圧迫感となって押し寄せてきた。傘の間合いギリギリの距離から空間の歪みが発生する。
ファノンは感覚という感覚を研ぎ澄まし障壁を展開しながら、同時に最小限の身のこなしで躱す。
が、隊員を庇い、自分を守るための障壁を構築し続けるのはあまりにも負荷が大きすぎた。
刹那――。
(フェイク!?)
全方位に向けて障壁を展開するが、打撃が障壁を叩く音は響かない。
障壁を展開させ、出現時を一斉に防ぎ切る狙いだったが。
ファノンの思惑は手玉に取られ、同調するかのように障壁の空間内部で歪みが見られた。
至近距離からの巨腕に、手段など選ぶ余地が無いほどの勢いでファノンは地べたに伏せた。
髪を数十本落とされ、頭上を抜けていくと、今度は入れ替わるように出現した拳が真上から振り下ろされる。
頭を潰されるすんでのところ。
彼女は転がることで間一髪回避した。
なんとか立ち上がろうとした直後、息をもつかせぬ連撃が身に降り掛かった。
荒くなった息を整えることもままならない。
そして、彼女の反応速度を越えて【餓猿鬼】の拳がファノンの肩目掛けて振るわれた。
動作による障壁は当然間に合わない。視界の端で微かに捉えた拳は当然系統魔法が付与されている。
諦めの境地とでも言うべき危機的状況。
ファノンは僅かな時間稼ぎのため、瞬間的に意識下による障壁を構築。
速度重視の抗い。
【餓猿鬼】の拳に付与された系統は“土”。振動系の魔法というべきか。
それが判明したのは障壁が粉々に砕けていく様によってであった。無残に割られた障壁の破片が虚空に消えていく。
稼いだ時間を活用してファノンは抗う。手元で傘型AWRを返し、添え木のような形で腕に密着させることで身体への直撃を防いだ。魔法が付与されている時点で、障壁が突破されることは織り込み済みだ。
認識さえ難しい僅かな時間を稼いだに過ぎない。
AWRの上から叩かれる衝撃は一瞬で全身を駆け巡り……そしてボキッという異音を体内に響かせた。傘には地割れのような細い罅が遅れて走った。
(腕の骨が折れッ! ツッ! 砕かれた)
電流が走る感覚は、突発的な吐き気をファノンに齎した。
突然の激痛に脳が錯覚したかのような嘔吐感。
まずい!! 骨の悲鳴は連鎖するように体内を壊していく。その気配は血管に虫が混入し、凄まじい勢いで体内を巡っていくような寒気を彼女に抱かせた。
すぐさま離脱しなければならないが、腕ごと抉るように振るわれた拳は今もそのまま腕を壊していく。
身を委ねるようにファノンは足を浮かせて、抗うことをやめる。
それによって彼女の小さな身体は弾かれたように吹き飛んだ。
意識さえ吹き飛びそうな勢い。だが、その瞬間、彼女は【ヘレンの拷問具 三番】を強制的に作動させていた。
あと少し遅ければ、完全に霧散していた魔法を気力で繋いだ。
拷問具の黒髪は意思を持ったかのように、蠢き瞬く間に【餓猿鬼】の身体、肢体を縛り上げて拘束する。きつく縛り上げると同時に、脊柱が完全に標的の背に密着。無数の針が固定するように突き刺さった。
錆はいっそう目立ち、禍々しき拷問具が具現化する。
【餓猿鬼】を包み込むように広げられた左右のアームは、軋みを上げながら一斉に閉じる。
鋭く長い針は、【餓猿鬼】の身体に突き刺さった。
だが、突き刺さっただけであり、滴る不気味な体液は少量。
【餓猿鬼】は両腕を広げ、実体化したその瞬間、腕で防いだのだ。
未完成が故の弱さ。いや、【餓猿鬼】の抵抗を褒めるべきなのかもしれない。
致命傷からは程遠く、突き刺さったというには浅い。
この力比べは【餓猿鬼】に軍配が上がるだろう。力負けし、徐々に広げられている。
その間、追撃を免れたファノンは、吹き飛びながらカッと目を見開いた。
壁面にぶつかる手前で、AWRとして使い物にならなくなった傘を逆の手に持ち替え、地面に突き刺す。
ガリガリと暴れる傘を身体で押さえつけるようにして制止すると。
息も整えずに――。
「エクセレスウウウゥゥゥ!!!!」
鼓膜を震わせる叫声。
だらりと使い物にならなくなった腕を垂らして、ファノンは髪を振り乱すように顎を上げて叫び散らした。
静寂を裂いた後、厳かな静寂を齎す。
臓腑に重く響く、怒りの咆哮。高い声音が衝撃を発するようにフロア内に響き渡った。
戦闘中であろうと隊員達はその手を強制的に止めさせられた。
ファノンから出た、聞いたことのないその声音が、隊員達に堪え難い惑乱を与えた。切迫感、否、危機感ともいえる激しい動揺が人間・魔物例外なく一人の少女によって引き起こされていた。
一種のパニックに似た症状。怒声に伴う、激流の如き魔力量が滞空する残滓を飲み込んでいく。
忘れていたわけではないが、彼らの最優先事項はシングル魔法師であるファノンを無事生存圏内に帰還させること。
この部隊の全員が戦死してもおつりがくる程の大役だ。
根源的な魔法師としての責務が隊員達を振り向かせた。
無論、エクセレスでさえも同じこと。
だが、自分の名を叫ばれ、エクセレスは無表情のままただ頷き返すことで応えた。
視界内では【ヘレンの拷問具 三番】のアームを完全に押し返した【餓猿鬼】が映る。攻撃の瞬間に実体として発現するため、この一瞬だけは【餓猿鬼】にも対抗することができるのだ。
魔法を付与された両腕がアームを破壊し、その勢いで背から拷問具が引き剥がされる。
脊柱を掴み、左右に引き千切ると【ヘレンの拷問具 三番】は霧散した。
エクセレスは凛とした顔のままファノンの代わりに粛々と隊員へと命じる。
「死になさい」
たった一言。無情な言葉が一切の抵抗もなくエクセレスの口から発せられる。全隊員でもファノン一人の価値と天秤に掛けるまでもない。
彼女が望むならば、いかなる児戯にも身命を賭して応じなければならないのだ。それをファノンが実行に移すかは別として、この部隊の隊員ならば誰もが理解していること。
こうなっては仕方がない。ファノンを生かす術。魔物を倒す術。それを行使するために隊員達は虫けらのように命を散らさなければならない。
あっけなく命を燃やし尽くす。シングル魔法師にはそれが許される。
ハズレくじだというのに、隊員達は喜々として受け入れた。
ボドスなど構わず、全員の意識が【餓猿鬼】へと注がれる……ファノンの準備ができる僅かな時間を稼がねばならない。
最もハズレくじを引かされたのはやはりエクセレスなのだろう。死ぬようにと、命じるのはファノンではなく副官であるエクセレスなのだから。




