相性
【餓猿鬼】の手に発現した魔法は、いわばAWRに直接付与する【炎刃】や【凍刃】に該当するものだ。桁違いの情報密度は発現という形で最大限の効力を発揮する。
多少の魔法ならばファノンの障壁が破られるはずがない。取り分け全魔法師中、最硬を自負する障壁だ。情報密度だけでなく、単純強度だけでもいかなる魔法を防ぐことができる。魔法におけるいかなる要素も、防御の点で遅れを取ることなどありえない。
が、現実はせいぜい上位級魔法程度のレベルの付与魔法が障壁を破る始末。
魔物が扱う魔法の厄介さがこれだ。AWR同然の魔物の身体に密接するタイプの付与魔法は、情報量や密度で圧倒的と言わざるを得ない。
防ぎ切るのに必要な強度や魔力量など、術者のファノンには手に取るようにわかった。だからこそ、苦汁を舐め、やむを得ず動作を伴った障壁の展開手段を取ったのだ。
(どうする? 系統に対抗するために、追加情報を障壁に組み込む必要がある。けれども……)
その分、時間的なロスはどうしても避けられない。
瞬きにも満たない一瞬で追加プロセスを組み上げたとしても、それは【餓猿鬼】相手に大きな遅延となる。
「――ッ!?」
ファノンは瞬時にその場を飛び退いて脱した。
一瞬前まで頭があった場所は、頭上から落ちてくる拳によって挟むようにプレスされる。学習したのか系統魔法までご丁寧に付与されている。
モーションを加えた動作展開は、障壁の強度を引き上げるが、その分速度で遅れをとる。
上下から放たれた【餓猿鬼】の拳は、僅かな隙間もなく噛み合わさった。
回避しながら、更にファノンは後退するためにもう一歩力強くバックステップを踏む。
そうした動作に入る刹那、ゾクリと背筋が粟立つ。
踏み込んだ足を地面から離さず、半身となって後方へ腕を突き出した。
ほぼ同時に凄まじい衝撃が、生み出したばかりの障壁から伝わってくる。
死角は当然のこと、意識の外から攻撃してくる【餓猿鬼】にファノンの苛立ちも積もっていく。しかし、どうすることもできない状況はまさに防戦一方という他あるまい。
無言になるほどファノンの回避行動が多くなっていき、意識が次手に占領される。
基本的に対角線上に加えられる攻撃は、まだ辛うじて防ぐことができるものだ。
理に適った安直な攻撃パターン。
幾度となく【餓猿鬼】の猛攻を防ぎきったファノンは、傍から見れば一方的ではあるものの、しかしその全てを防ぎ、凌いでいる。
ファノンが系統魔法を付与された拳を障壁で防ぐ間に、二・三発襲いかかってくる。躱しながら彼女は反撃の機を窺っていた。
身体を覆うように障壁を展開できれば楽なのだろうが、ことはそう単純ではない。空間に最小限の干渉で割り込む【餓猿鬼】の攻撃に対して有効な対策とはいえなかった。
更に言えば、障壁は平面展開の方が形状指定が単純な分、構成に手をかけられる上に展開速度も圧倒的だ。
相手の攻撃に対応するにはベストな選択だった。だからこそ……この戦況はファノンにとって面白くないものに違いなかった。
ファノンから少し離れた場所のエクセレスはあまりの緊迫感にゴクリと喉を鳴らしていた。
遠目に見ていても、障壁の連続構築は常軌を逸した速度で行われている。エクセレスは無意識に拳を作り、汗が掌を湿らせていることにも気づかない。
一進一退……そう言いたいところだが、現状は芳しくない。
ファノンも気づいているだろう。先程から徐々に【餓猿鬼】の攻撃速度が、手数が増えていることに。
近い内、障壁で防ぐだけでは足らなくなる。
つまり回避行動が増え、それは余分な動作となって追い詰められる。【餓猿鬼】の距離をも厭わない攻撃は必要以上の動作を控えるべきものだ。
動き回ればそれだけ注意力も散漫になり、意識に隙が生じる。瞬き程も隙を与えてはいけないのだ。
そんな折、エクセレスの首元で痣がピリピリと激しい反応を示した。
虫の知らせのような異常な気配に気づいた頃には、エクセレスは反射的に警告を発していた。
「ファノン様ッ!!」
エクセレスの切羽詰まった叫びにファノンは傘の先端を隊員の一人へと向ける。
そう、隊員の背後で空間に干渉する歪が生じ、そこから【餓猿鬼】の拳が伸びたのだ。
(標的を変えてきた!!)
エクセレスが逸早く気づけたのも、ファノンへの手数が減ることなく一瞬にして【餓猿鬼】の魔力が空間を満たしたためだ。
間に合ったのは幸運だった。
だが、更にファノンは隊員へと注意を向けなければならなくなった。おそらく【餓猿鬼】もそうした意図で隊員へと攻撃目標を増やしたのだ。
(戦術……ファノン様の意識を散らしに来た)
この魔法師が如何にも嫌いそうな戦法は、どこか人間のような作為的な悪意さえ感じさせる。
空間を移動する攻撃はファノンでなければ防ぐのは難しい。隊員には当然手練れの者もいるが、ボドスに注意を払いながらでは対処しきれない。
ファノンは隊員達を守りながらの戦闘を余儀なくされたわけだ。
今現在、ファノンへの攻撃は一秒間に五発はくだらない。加えて、二発程がこの場にいる隊員へランダムに向けられている。
いくらファノンでも捌ききれなくなってきているのは明らかだった。
目にも止まらぬ速さの攻撃を全て反応しているのはさすがと言わざるを得ないが。
すでに障壁を叩く連続音は騒音に等しい。
(【餓猿鬼】の付与魔法がここまで厄介なんて。それに場所も悪い。三器矛盾が使えないのはもちろんのこと、一先ず時間を稼げれば……!! 【ヘレンの拷問具 三番】の作動が遅い!)
【ヘレンの拷問具 三番】が未だ完全な状態に至っていないことにエクセレスは訝しみを覚えた。自律プログラムが組まれた召喚魔法とはいえ、本来ならばもう作動していてもおかしくない。
(やはり、ファノン様はあの一瞬で全ての情報を組み込めていなかったのですね……段階的にプロセスを踏む方法を取った。でも、術者であるファノン様があれでは……完成に至るまでの魔力量が不十分……乱れている?)
探知魔法師であるエクセレスは、ろくな攻性魔法は扱えないが、それでもこのままでは……。
(ファノン様との相性が悪い。ファノン様だからこそ対応できている、と取るべき、ですね)
本来魔物の攻撃は回避が基本。これは誰しも障壁などの防性魔法を扱えるわけではないからだ。寧ろ、攻性魔法に重点を置く魔法師が大半である。
魔物の攻撃に対して魔法師は無防備に等しい。だからこそ、基本的には魔物の攻撃は回避が推奨されている。
が、【餓猿鬼】の攻撃は回避よりも防ぐことを優先しなければならない。いかに俊敏な者であろうと超至近距離からの攻撃を回避し続けるのは不可能だ。回避先で拳を至近距離から突き出されたのでは、自ら突っ込んでいくようなもの。
だからこそ回避行動が増えてきたファノンの戦況は悪くなる一方。
計算せずとも、先々で行き詰まる。そうなっては手遅れなのだ。
エクセレスの焦りと同じものを、他の隊員もファノンの戦闘音から感じ取っていたのだろう。自分に向けられる隊員達の意識が何を意味しているか、察するのは難しくない。
意思を感じ取って隊員が動き出そうとした直後。
その隊員に向かって眼前から拳が伸びてくる。それを防いだのはやはりファノンであった。
「邪魔ッ!!」
ファノンの吐き出すような叱責。一瞬の遅延を代償に隊員を守った。一見すると些細なことに思えるが、これまでの防戦に徹した均衡状態に歪が生まれるのは避けられない。
リズムが崩れてしまったかのように、反応が少しずつ遅れる。本人でしか気づけない領域の異変。