鉄壁の打音
「肉団子がもう一つ。むさ苦しいのは上にいる奴だけで十分なのよね。種が割れれば面白くもない」
弄ぶように手首をスナップさせて傘を揺らし、目線より少し下の位置に腕を固定すると、ふとファノンは持ち上げていた口角を下げた。
片目を瞑り、狙いを定めるかのように傘の先端を【餓猿鬼】の頭部に向けると、バチッと小さな放電が傘を取り巻く。
「【一筋の幼雷】」
中位級魔法である細い雷は閃光となって放たれ、宙を蛇行するように【餓猿鬼】へと真っ直ぐ走る。
俗に言う攻性魔法をファノンは満足に扱うことができない。そのため防御系の障壁に特化しているのは事実だ。基本的にはオールマイティに系統魔法を扱うことができるが、それもAWRへの依存度は他の魔法師と比較にならないくらい高いのだ。
だからこそ、シングル魔法師にしては冗談かと思うような低位の魔法でも、ファノンにとっては構成を組み上げるのですら容易なことではない。
が、教本通りの魔法ぐらいならばさして問題なく扱うこともできる。当然系統魔法師のそれと比べると劣るが。
一見して、その程度の魔法では【餓猿鬼】相手に無意味であるのは確実。【火車】の方がよほど強力な魔法だ。
エクセレスは内心で始まったと冷や汗を浮かべていた。
悪い癖なのかもしれないが、始末するまでに彼女は時折遠回りをする。遠回りとエクセレスが感じているものの、ファノンに言わせるとそうではないらしいから少し厄介なところでもある。
だからこそ、強い魔物相手ではエクセレスがファノンを精神的に誘導するのが常なのだ。
遊び心なのか、ファノンは稀に通常の魔法で試し打ちを行う。効果的に作用することもあるが、やはり無駄な一手と感じてしまうのはエクセレスだからなのだろうか。
そして今回も彼女の予想通り、ダメージすら与えられないはずの【一筋の幼雷】は【餓猿鬼】の眼の前で方向転換し、暴れ狂ったように指向性を失う。
すると【餓猿鬼】を取り囲むようにいつの間にか障壁が巨体ごと包みこんだ。正方形状に半透明の壁ができ、その中を雷撃がバウンドしていく。
ファノンは攻性魔法に対しての適性が無いに等しい一方、障壁に関しては全系統の性質を兼ねることができる。だからこそ、閉じ込めた障壁に電気が溜まっていくのが見て取れた。
低位として魔法を放ち、放った後から系統魔力を付与させる。これが数秒もすれば上位級から最上位級までの魔力量を内包することになる。
障壁で閉じ込めてしまっている分、戦法として最も魔物の体液が飛び散らない方法ではある。
決して侮っているわけではないのだ。無論、全力を出しているわけでもないが。
戦術と言われれば反論もできない。
不安に背中を押され、エクセレスは思わず「ファノン様ッ!」と声を荒げていた。
それは箱の中で飛び交う蝿を叩き潰すかのように、【一筋の幼雷】に向かって【餓猿鬼】が腕を振るったためだ。
動作は緩慢であれ、タイミングを見計らうかのように振り被った巨腕は、大きさに見合わず凄まじい速度で電撃を捉えるだろう。
「見ててよエクセレス。二段構えだから一発で――!!」
刹那、ファノンは大きく目を見開く。顔のすぐ真横に障壁が生み出され、その上を女性隊員が受けたような拳が打ち付けられた。
障壁の位置は顔の間に指が一本分入る程度の至近距離であった。
遅れて、電気を溜め込んだ箱の内部で、【餓猿鬼】もろとも溜まった電撃が爆ぜる。一瞬の轟雷が空気を震わせ、白煙が箱の中に充満する。敵の全身が隠れた直後、ファノンへと続けざまの二撃目が襲いかかった。
だが、休む間もない二撃目はファノンの後頭部目掛けた背後からであった。
「――クッ!?」
間一髪で防ぎきったのはファノンの焦りから瞬時に理解することができる。
それにエクセレスが気づけても注意を促す前に手遅れとなっているだろう。
今回も微かに首を回し、目の端で捉えたファノンは間一髪で障壁を割り込ませることに成功していた。しかし、如何にギリギリの防御であったかは明らかだ。
ほとんど触れるか触れないかという距離に、巨腕を防ぎ切れるサイズの障壁を展開するのがやっと。息継ぎすら許さない連打である。
ファノンの額に小さな汗の玉が浮かび上がっていた。今の一瞬で、ファノンは【餓猿鬼】を侮り、見下すという感情を捨てざるを得ない。
口や表情が感情を表すことさえ許さなかった。
クッと細い苦鳴がファノンの口から漏れるのは一瞬の内に、劣勢へと追いつめられたからだ。
防御系魔法のスペシャリストであるファノンであろうと、ほぼ視認できない攻撃が至近距離から放たれたのでは防ぎ切るのは至難の業だ。
絶対的な信頼を置き、揺るがない勝利を齎すシングル魔法師の狼狽した姿をエクセレスは初めて見たのかもしれない。
ファノンが仕掛けた魔法は確かに【餓猿鬼】を撃った。彼女が言っていた二段構えは、発動させる前に相手の攻勢に遭ったため不発に終わったようだった。
しかし……とエクセレスは奥歯を噛み、苦い顔をする。
(まさか、攻撃を受けることを辞さず、ファノン様を直接狙ってくるなんて)
魔物は自身を顧みない特攻を仕掛けてくることが往々にしてある。高い自己治癒能力――修復能力――があるためだとされている。他には知能や身体の元となったベースによって回避行動を取る個体もいる。
一連の結果だけを見れば、魔物が反撃してきただけだ。
だが――。
(確実にこちらを揺さぶり、油断させてきた)
【餓猿鬼】は自身を取り巻く電撃を振り払おうと腕を振るったはずだ。だが、そう思わせた隙に振るった腕の標的はファノンに移行していた。
明らかに戦術によるものだった。
おそらくエクセレスの思考はファノンも思い至ったはずだ。
【餓猿鬼】を囲んでいた障壁は消え去り、内部の白煙が閉じ込められた檻から解き放たれたように溢れ出す。薄っすらと晴れていく先では【餓猿鬼】が平然とした様子でファノンだけを見据えていた。
「つくづく気持ちが悪い」
凌ぎきったファノンが態勢を立て直しつつ、足を踏み出してそう毒づく。
瞬く間に起こった防戦はファノンのこめかみに汗を滴らせるに足るものだった。険しい目つきでファノンは力いっぱい傘のグリップを握る。
逆鱗に触れたのか、それとも予想外の反撃にあったからなのか、はたまた彼女の予想が甘かったのか。いずれにしても細い腕には感情を反映した力が込められていた。
「ちょっと油断したけど、大丈夫。もうタイミングは掴んだわよ。同じ手は食わないし、手を止めたことを後悔する間もなく終わらせる」
虚勢ではない。ファノンが防御系の魔法だけでシングル魔法師の座を何年も守ってきたわけではないのだ。戦闘センスではジャン・ルンブルズが声高に称賛されるが、ファノンも比肩する程には高い。
寧ろ、対応力では群を抜いているとさえいえる。
見た目のお飾り的な存在ではなく、誰もが認める実力を備えているのだ。
まざまざと彼女の天稟を目の当たりにするのは果たしてこれで何度目か。
ファノンの言葉は疑いなく信じることができる。
そんな折、【餓猿鬼】に一撃を見舞われた隊員が抜けた箇所から、一体のボドスが抜け出てきた。かなりの数は減らしたが、その分対応しなければならない範囲が広くなった。つまり、ボドスが十分に動き回れる空間を奇しくも確保したことになる。
カバーしきれなかったのか、抜け出たボドスは真っ直ぐファノンへと大股で駆けてくる。手に持った濃緑色のハルバードは造形美を欠いた不細工な形状。まるで子供の粘土細工のようだった。
ただ、それでも殺傷できるだけの鋭利さや、腕力をボドスは兼ね備えている。
無鉄砲に跳躍し、ハルバードを振り被る動作はどこか人間的な動きを思わせた。
一体、されど一体。今のファノンに余計な仕事をさせるのは得策ではない。
エクセレスが動こうとするも、本来真っ先に追いかけてくるはずの隊員が途中で足を止めた姿が目に入った。
そこでエクセレスも思い直し、寧ろ、自分が余計なことをしないという意思表示として踏み出した足を引いた。
ボドスなど歯牙にも掛けず、ファノンは傘を突き出し、小柄な身体を一思いに突き刺した。先端からは魔力によって形成された尖部が伸び、いとも容易く空中で刺し貫いた。
向こうから勝手に刺さってきたともいえるが。
いずれにせよ、それでも生きているのが魔物である。空中で縫い留められたかのように刺さった状態で暴れまわる醜い魔物。体液を撒き散らす様は嫌悪感しか湧かないだろう。
ファノンはボドスの自重に従うようゆっくりと降ろしていく。そしてボドスの足が地面に触れようかという時、ボンッと突如ボドスの身体が弾け飛んだ。
その間、ファノンの視線はずっと【餓猿鬼】を注視したままであった。
そして今回も、そうボドスが弾けたと同時にファノンの視覚範囲ギリギリから突如、空間を歪ませて巨腕が伸びてくる。
意識を研ぎ澄まし、注意していたためか、ファノンは微かに意識を傾けると六角形の対物障壁を展開。先程と同様にギリギリの防御であった。
だが、それを意識的に行ったのだ。つまり、間一髪に見えてもファノンの反応速度、魔法の構成速度が上回った証でもある。
【餓猿鬼】は腕を引き、握り込まれた拳を何やら不思議そうに眺めていた。
一方で、弾けた肉片や体液はファノンの障壁によってエクセレスも守れたが、他の隊員はもろに被る羽目になった。
魔力操作によって体液が直に触れることは防げるが、肉片ばかりはそうもいかない。少々の肉片ごときでオロオロする可愛げのある者などこの部隊にはいやしないのだが。
スッとファノンの視線が細められ、冷ややかに倒すべき対象へと注がれる。
彼女の視線の先では【餓猿鬼】が戦いの準備でもするかのように、腕や背中から焼けるような湯気が上がっていた。
無論それはファノンの身体にも言える。色濃い魔力が高密度で溢れ出している。AWRをも包み込んだ次元の違う魔力が滲み出ていた。
これを見る度、感じる度、シングル魔法師とは決して替えの利かない唯一無二の存在だと思い知らされる。二桁魔法師が死に物狂いの努力をしても、到達できない領域。
手前味噌になるが、ファノンはそれこそ下位のシングル魔法師などでは相手にならないだろうと思えてくる。
傘型AWRから魔法の構成を高速処理しているのか、狂ったような光が魔法式から溢れ出していた。傘を包み込むような強い光は、まさに水蒸気のようにもんもんと立ち昇る。
少なくとも、初撃目――悪い癖――は終わった。ならばここから先は間違いなくファノンの独壇場。
エクセレスは反射的に数歩下がって距離を取る。
「ファノン様、頑張ってください。くれぐれも壊し過ぎないでください。ぺしゃんこは勘弁です」
「平気平気、三器矛盾は今の所必要ないしね」
魔物がダメージ覚悟でカウンターを撃ってくるなら、そのダメージで一撃死させればいいだけのこと。
通常では考えられない魔物の戦術だとしても、わかった以上警戒すればいいのだ。
不気味にこちらを窺い見ている【餓猿鬼】。
肩から背中と空間を歪ませる程の魔力が放出しており、不気味だが……そんなことなどお構いなしとばかりにファノンは嗜虐的に口元を歪めて発した。
出方を窺う? 敵に対して最大限の警戒が両者で一致して初めて成立する静寂。
読み合いなど不要と言いたげに、ファノンは真っ先に狩りの合図を発した。膨大にして絶大、これまで無闇矢鱈と解き放っていた魔力が一斉に、傘型AWRへと吸い込まれていく。
「【ヘレンの拷問具 三番】」