匂い立つ静寂
◇ ◇ ◇
――静かだな。
外界で培った聴覚は、様々な音と――特に異音を聞き分けられる。人が外界で発生させうる音に、紛れ込む異音。それは逸早く敵を捕捉するために大いに役立つ情報だ。
だが、鉱床内部ではそれら異形の痕跡が鳴りを潜めていた。そこにいるとわかるのに、飛び込んでくる音という音は化物の存在をひた隠す。
鉱床内部に侵入し、階下までの道のりをアルス達は水が流れ込む勢いで駆け抜けていた。
全員が全員感じたであろう静けさ。
強行軍ともいえる進軍速度で、一団は鉱床内部を迷うことなく疾駆している。
聞こえるのは自分たちの足音が反響する音だけだった。
しかし、鋭敏な感覚を持つ者は確かにその存在を察知していた。階下に向かう道程、撹拌された魔力に微かに鼻をつく魔物独特の気配。
それも有象無象の雑魚ではなく、隠そうともしない魔力の流れが階下へと導いているかのようだった。
望むところ。そんな意志すら感じる程猛進するアルス達に、およそルールというものは存在しない。数多のルートがある中、誰一人迷うことなく突き進んでいく。
先頭を走るアルスの視界に突如、フラフラと横道から魔物が躍り出た。
獣型の魔物。【デア・ウルフ】の上位種として考えられている個体だ。脅威度はCレート。瞬時に判断するや否や、先頭でAWRに手を添えたアルスだったが――すぐ傍を銀髪の少女が凄まじい速度で追い抜いていく。
ロキが一歩分、その脚力にのみ【フォース】を用い、瞬時に壁面を駆使して魔物に詰め寄る。
壁面を蹴る音が三つ。微かに聞き分けられる程の連続音の直後、白銀の刃を持つ【月華】が頭部を貫く。
刹那、魔物を体内から焼き尽くす電撃が駆け抜けた。
出会い頭に反応する間すら、魔物には与えられず、速やかに刈り取られた。
魔物すら己の身に何が起きたのか、知覚するより早く、始まりから終わりまでの工程を終えていた。
彼女は部隊の速度を落とさず、先頭群に舞い戻ってくる。
元々黒い体色だったが、電撃によって焼け焦げた魔物は頭部と切り離された身体、双方とも塵化が始まっていた。しかし、そんなことなどお構いなく、次に走っていたガルギニス隊によって蚊でも払うかのように弾き飛ばされる。
激しく壁面を打ち、力なく落ちていく過程で魔物は完全に塵となって消滅した。
周囲の無反応をよそにアルスは、少し迷ったが口を開くことにした。ここにいる魔法師ならば当たり前の配慮だが、彼女の気遣いがわかってしまうのだから無視はできなかった。
「手際がいいな」
「あの程度問題ありません。それよりもアルは標的にのみ専念してください。雑魚は私が」
アルスに負担を掛けさせまいと、自ら進んで引き受けた露払い。ロキは考える。テスフィアとアリスとともに出ていってから今まで、休息という休息は取っていないも同然。
本来ならばあの程度でアルスが疲れを感じることはないが、今は違う。
アルスに起きている不調の原因がわからないというだけでもロキにとっては一大事だ。少し前まで自分が願っていた希望。今、その所在を改めて認識することができた。彼のために命を……。
そんな大それた自己犠牲ではない。アルスと時間を共有する中で、昔ほどこの命は軽くなくなってしまった。過ごしてきた時間、越えてきた壁が命に重みを与えてしまった……惜しいと感じる程に。
だから、自分にできることを一生懸命、一つ一つこなしていく。
ロキの返答は実にそっけないものだった。彼女の顔は鉱床に入るよりもずっと前から、一時も気を抜くことを許さない厳しいものだった。
しかし、不調のアルス自身はロキに対してそっと警鐘を鳴らす。
「力が入りすぎだ。いつものようにしてくれて構わない」
「…………大丈夫です。体力も魔力も十分です」
ロキは真っ直ぐ進行方向を見据えたまま、一瞬だけ横目でアルスを窺う。自分自身わかっていても、素直に頷くことはできなかった。
それでは自分は何もせず、病人に鞭打って働かせるようなものだ。できるだけ苦労を掛けまいと慮るのは当たり前のこと。
もちろん、彼がつまらないミスをする懸念を抱いてしまうのはわかる。ここは外界、それも未知の鉱床だ。
――一つもミスなんて絶対しません。
内心、心に直接刻みつけるようにロキは意味のない返答とした。
一団は何度も通い慣れたかの如く、吸い込まれるように階下へと繋がる通路に辿り着いた。
アルスもここまでの道中、ほぼ体力消費は皆無といえる。
――少なく見積もっても、魔力量は八割はある……。動きに支障はない。
万全ではないが、かといってロキが心配するほどの異常は現段階では見当たらなかった。
確かに己の魔力を知覚するのは困難だが。
普段ならば正確に魔力残量などを計算するのは指を動かすのと同じくらい簡単な作業だった。今は少し靄がかかったようにあやふやなだけ。
ここからフェリネラ達は階下へと下ったのだ。
道ともいえない巨大な穴。ちょっとした洞窟が鉱床内にできており、それは地獄の釜へと繋がっているようにも思えた。
そして降りる前から吐き気すら催す程の魔力が強烈に匂い立つ。
歩き難く、誰かが蹴飛ばした小石がカチカチと反響しながら落下していく。油断すると足を取られそうな程に足場が悪かった。
「完全に化物の穴倉だな」
階下へと降り立って真っ先に出てくる感想。鉱床内部、その地下はまさに蟻の巣のようであり、地下迷宮といって差し支えないだろう。
ミスリルの影響か、濃密な魔力もいたるところで感じ取れる。魔物にとって至れり尽くせりな構造。
新たなフロアで真っ先にすることは状況の把握である。
いつもの癖で、ロキをチラと見るが、彼女の魔力ソナーを駆使した探知はたとえ鉱床内部であろうと十分な効果を期待できない。
すぐに行き着いたアルスは、その筋の専門家へと水を向けるが、それより早く、ファノン隊の副隊長にして探位1位を冠するエクセレスがすで歩み寄ってきていた。
無論、彼女の顔半分は痣が模様を作って蠢いていることからも、探知には成功したのだろう。
「アルス様、やはり大きな反応は内部を移動していますが、各階層間を移動した様子はありません。ただ……外からでは感知できなかった異物が……」
エクセレスは足元を透かすように地面に暗い顔を落とす。顔の痣は更に色を濃くし、彼女の顔を染めていく。すると突如彼女はスッと能力を解いた。
ファノンがエクセレスの顔を窺い見、「何を感知したの」と意識をこちらに向ける意図を込めて差し込まれた。
そう、エクセレスは僅かではあるものの、誰の目にも明らかな程動きを止めていた。心を抜き取られてしまったかのように。
「は、はい……単刀直入に申します。逆探知されました」
「――!! なになに、どういうことよ。他にも魔法師がいるってこと?」
ファノンの突発的な台詞はオルドワイズ健在を期待させるものだった。
しかし、アルスもロキもエクセレスが首を振った意味を理解した。
「ファノン様もご存知のように、それはないでしょう。逆探知とは言いますが、これは探知魔法とは異なるものです。たぶんですが、私が知る限りで逆探知が可能な魔法師はアルス様ぐらいでしょう」
ファノンの意外な視線を受けてアルスも加わらざるを得なかった。
「逆探知という程確立されている技術じゃない。相手の魔法や魔力に同調するんだからな。それをいうならエクセレスさんの方が逆探知はお手の物では?」
もちろん、そうした技術は魔力操作に通ずるわけで、エクセレスがアルスなら可能だと思うのも彼女の異能が関係しているだろう。
逆探知――つまり探知者の居場所を突き止めるという意味でいえば、エクセレスの能力はまさに適したものといえる。彼女がアルスを候補として挙げたのは、おそらく会合時に何かしらの情報を抜き取られていたからなのかもしれない。いや、もっと肌感覚的なもののはずだ。
本来、逆探知が意味するところは同調。魔力の痕跡から機敏な感覚でもって察することはできる。
「もちろん、可能性の話です。途中で解いたので正確な位置や人数など相手側には把握されていないはずです」
「他には?」
アルスの追求とも取れる語気の質問にエクセレスはドキリとしつつも、
「今のところは目立った反応に変わりはありません。もっともこのミスリルの量ですから内部だからといって精度が上がるわけでも」
相手の様子を窺いながら紡がれる言葉。
しかし、エクセレスが思っていたアルスの反応は斜め上をいっていた。
「流石の精度ですね。通常これだけいたるところにミスリルがあれば、探知はまず無理でしょうから」
上辺だけの巧言令色をアルスは思考から切り離して発した。
脳内では推測が的中したことに一先ず安堵を覚えていたわけだが。
その理由は、ロキに刻まれた刻印の存在だ。魔法式と酷似していることから、魔法的要素が含まれることは明らかだ。ならばロキはを魔力使い、魔法を構成したならば必ず反応するはず。
【世界蛇】がロキを察知するために掛けた呪いならば、外界という絶好の場を狙うはずだ。アルスがロキの同行を許した理由の一つは鉱床内部にあるミスリルが上手くカモフラージュとして機能すると踏んだためだ。
エクセレスの探知も内部で撹拌し、上手く察知できないのであれば、魔法を行使したとてその痕跡はほぼ残らないだろう。
つまり鉱床内にいる限り、ロキは一時的に呪縛から開放されたことになる。
真っ先に潰しておきたい懸念材料を解消したのはアルスとしても大きい。ミスリルという鉱物がもたらす影響を既知としているのだから、半ば確信に近かったのだが。
ともあれ、一つ肩の荷が降りた気分だ。
問題はまだ残されているが、この場で話し合うことの無意味さを理解しているため、年の功からイリイスが腕を組んで話題を掻っ攫っていく。
「考えても仕方あるまい。下に潜むは一級の化物だ。心して掛かったほうが良さそうだな。アルス、どのみちここの魔物は滅ぼすしかないだろ。魔物は我らが考えうる上をいくものだ」
「そうなるな。魔法を使えばいずれは筒抜けになるだろう」
全員が階下に向かおうとする中、エクセレスだけは上手く言語化できないむず痒さを感じていた。
能力への干渉を言葉で伝えるのは困難であり、酷く不確かなものだ。彼女が普段魔物相手に感じ取っているものでさえ、共有されることはない。
今回の感触はもっとあやふやであり、それを感じ取れるというのは非現実的なことなのだから。
――あれは思念に似たノイズが混じっていた。
これが何を意味するのか、そこまではさしもの彼女でもわかりはしない。ただ、そうこれまで感じてきたどれとも似つかない感覚。もっといえば、今まで感じた質という意味では……。
――アルス様とどこか似た……いいえ、やめましょう。こんなこと告げたところで百害あって一利無し。
探知魔法師とはいえど、エクセレスのそれは“そんな気がする”程度のものだ。全員の足を止めるわけにもいかない。