必死の価値
この学院生を主体としたテスト調査で、アルスは本格的に鉱床へと進行する前に、とある人物にあってきていた。
疲労困憊というわけでもなさそうだが、生徒を治癒するのに万全の体制が敷かれている。
挨拶がてら、顔を出したわけだが、若草色の髪をし白衣を纏った少女は仏頂面をこちらに向けてくるだけだった。
これから一気に忙しくなるだろうから、という予告に彼女は苦い顔を向けた。段取り通りならば生徒達と一緒に内地へと帰還しており、それが許されなかった時点で察していたのだろう。
小言のような文句を聞き流してアルスは、真摯にに頼み込んだ。
「特に仕事らしい仕事はしてないですしぃ」とそれっぽい言い訳を付け加えて了承してもらったわけだ。
その後、アルスは一足先に進行口である鉱床へと足を向けた。
鉱床内部への進行まではあまり時間がない。その僅かな合間にアルスは意識を遥か遠くへ飛ばしていた。
魔力的な要素はなく、ただ思いだけを馳せているに過ぎないのだが。
温い風が唸りを上げて、逃げていくように荒ぶ。神秘的な鉱床――その下はまさに地獄と化しているのだろう。
バベルとの関連を決定づける証拠はないが、アルスの予想ではこの鉱床はパンドラの箱。
これまでの外界とは異なる世界があるはずだ。
侵入箇所は二つある経路の内一つ。
オルドワイズらが入っていた入り口で、この本拠点からすぐ傍――フェリネラ達が入って行った入り口とは別になる。
大口を開けて、挑戦者でも待ち受けるかのような、大穴の縁に手を添えて内部を覗き込む。淡く光るミスリルの忌々しい輝きがじわりと背中を焦がしていくようだ。
外套の裾が靡く音はアルスの心を駆り立てていく。そんな中でも、アルスは自分の状態を分析する――必要性に迫られていた。
いつぶりか、ここまで意識が引き絞られていくような感覚は……。
裏の仕事でもこうはならない。単独で高レートの魔物を討伐しにいった時ですらも、これほど込み上げてくる黒い感覚を感じたことはなかった。
焦りとも違う。
恐怖とも違う。
何より感情を殺していった果てにある……絞り滓のようなドス黒さはなかった。
そんなものよりもアルスの内にあるのは、狭窄的な怒りに近い。誰の身にも降りかかる世界の不条理に、人間というちっぽけな身体で、それも単身抗おうとしているかのようだった。
魔物を殺すということは相応のリスクを負う。当然、人間側にも殺される覚悟があり、現に数えきれないほどの魔法師が志半ばで息絶えた。
アルスは己の力ですべてを、世界の理さえ捻じ曲げようかと、抗ったのかもしれない。
救えない生命を救うことができれば、それはもしかすると世界のシステムを捻じ曲げたことになるのかもしれない。いいや、そもそも人間が未だに魔物という絶対的強者に抗っていること自体、何か運命的なものを捻じ曲げようと――覆そうとしているのかもしれない。
「お気にされているのですか?」
こういう時に彼女は躊躇いながらも踏み込んで来てくれる。自問自答しているだけでは解決しないこともあるのだ。
助け舟のように差し出された声にアルスは頷きで返した。
「イルミナとカリアの話か」
ロキもまた頷き返して話を蒸し返す。
幕舎から出るなり、外で待ち構えていたイルミナに引き止められた時のことだ。赤く腫らした目で懇願するように縋り付いてくる彼女に、アルスは学院で向けるような少し冷めただけの目をすることができなかった。今にも膝を折ってしまいそうな彼女の両肩を持って支えてあげることができなかった。
「フェリを助けて」という言葉に救いの手を差し伸べることができなかったのだ――助けに来たというのに。
アルスが掛けた言葉は僅かな希望に縋り付いた理想ではなかった。
「フェリはもう駄目かもしれない」とイルミナとカリアにのみ聞こえるように発した。
その時の二人が見せた絶望的な顔は見慣れたものだった。無為な期待を抱かせないように、アルスは軍で経験してきたことと同じようにしただけだ。
戦い疲れ、心身ともに限界まで疲弊した彼女達にアルスは、無情な言葉を並べた。
それは頭で理解していることだ。
自分の状態が万全ではないから、そんな追い打ちを掛ける言葉を選んだわけではない。
魔法師の世界で考えるならばフェリの生存率は限りなく低い。
誰に言われるまでもなく、そんなことは当たり前のように覚悟しなくてはならないことだった。
一度死んだ者を生き返らせることなどできないのだから。
彼女達もわかっていたはずだ。それが位階1位であろうと覆るはずはない。
だから、フェリが攫われた現場に何故救出できる者がいなかったのか、そんな不毛な後悔が脳内を過る。
「でも、アルス君なら……アルス様なら……フェリを……」
普段のイルミナからは想像もつかないほど嗚咽を漏らし、顔をぐしゃぐしゃに濡らし、声を枯らして彼女は懇願した。
悲痛の叫びはアルスの胸に焼印を押したかのように、痛みを伴って刻まれていった。
言いたい言葉を飲み込み、アルスは「全力は尽くす」と素っ気なく告げるだけ。
こんな時に、そんな言葉しか手持ちがないのが歯痒い。感情の籠もらない、慣れた台詞がいやにするりと口から出た。
ロキを見もせず、アルスは進軍する通路の奥を見据えたまま、
「本当に……疲れる」
とそうしみじみ溢した。いくら力を身に着け、知識を深めても心だけは無防備なままだった。
相手の感情を受け止めるということは、直に心を通わせることなのだ。閉じた心のままでは何も触れられない。
「そうですね。言うは易しと言いますし、でも、そんなアルを私はすごく良いと思います……上手く言えませんが、外界で戦ってきたアルも、今のアルも私が傍にいたいアルなので」
「そうか……そうならよかった」
年齢がそうさせるのか、アルスはふいに足元が揺らぐ感覚に見舞われる。人並み外れた経験がきっと邪魔をするのだろう。自分を保つにはそれまで積み上げてきた経験しかない。アルスの経験は人としての経験から掛け離れてしまっているのだ。だから機微に疎く、心の整理がままならない。
でも、少しだけ残っていた――頭ではフェリネラが助からないと訴えているのに、心は身体を突き動かしてくるのだから。
ただアルスにはどうしても拭い難い不安があった。人の心としてフェリネラが駄目だった時、それを受け入れられるかということ。
こんなに不安定な状態で脳裏を掠める“もしも”が恐ろしかった。
消し去った感情がまた芽生え始めている予感。人間らしい心のあり方は、何よりも美しい一方で、如何なるものより脆い。
「ロキ、もし……もしも俺が自分を見失ったら、俺の足元を照らしてくれ。そして黙って見ていて欲しい……矛盾しているな」
見失う、きっとそこは暗く、何もない所だ。自分という個人さえ確かめようがない空虚なところなのだろう。不安が作り上げる暗闇の世界は誰にとっても酷く恐ろしいものに違いなかった。
アルスの心の隅で確かに翳った蟠りを払いのけるように、二つ返事でロキは迷いない言葉を発した。
「…………承知しました。アルに言われるまでもありませんよ。なので、今更、と答えさせていただきます」
そっと目を伏せるロキは口元を綻ばせながら深く頷いた。
予想していたのか、アルスもまたロキがそう言うであろうと小さな溜息を溢す。
「いつまでも、どこまでも、ずっとお傍に。それがアルにとって不本意なものだったとしても、私の意志は変わりません。特に今は……」
濁す言葉の裏には、アルスの状態が関わっているのだろう。一人でずっと戦い続けてきた魔法師の小さな弱音。それは自分自身を守ってきた心の折が、人の気を帯びてきたことの証でもある。
だからこそ、その場にロキがいなければ彼女は死ぬまで後悔し続けるのかもしれない。
「そうだったな。つまらないことを訊いた。もう、いろいろなことに区切りをつける時期が来たのかもしれない」
「――? と言いますと? 大丈夫ですよ。すべてが上手く行くとは思っていませんが、それでもそうそう悪い方にばかり転ばないものです」
気休めの言葉が今は心地よい。
理屈など抜きに、アルスは頬を持ち上げてこう返した。
「コインの表裏を当てるようなものか……なら、その程度十分覆せるな」
「はい!」
「来たか……随分と早い身支度だ」
ぞろぞろ歴戦の戦士の風格を纏った魔法師が集い出す。
ファノン率いる精鋭達の格好は軽装であり、統一された軍服に丈の短い外套を羽織っていた。引き締まった顔の奥には適度に柔らかい雰囲気が滲み出ている。
ファノンやエクセレスからして女性的な柔らかい雰囲気があるため、隊全体の色が形成されているともいえた。
隊長であるファノンは日傘のような小洒落た傘を畳んで持っており、杖のようにして地面をコツコツと叩いて歩んでいた。
エクセレスは両腰にそれぞれ大きな筒を下げており、この中でいえばファノンの日傘同様、異質ともいえる。
だが、腰に下げているのは二つ……。
「三器矛盾というから特殊なAWRが三つあるのかと思ったが」
他愛ない予想を口にするアルスは些かの疑問を発した。もちろん、ファノンは自慢げに話していたのだから触れておくのも吝かではない。
すると彼女は口で円弧を作り、一瞬だけ嬉々とした顔を浮かべる。だが、すぐさま取り繕うように平静を取り戻すと。
「あれは加減の問題で使えないわ。鉱床が跡形もなく吹っ飛ぶし、ミスリルが雨のように降り注ぐことになりかねないかも。それじゃ困るでしょ」
「当たり前だ」
「あと、一つ訂正するともう一つのはAWRじゃないわよ」
と彼女は愉悦に浸った笑みを残すが、使用を制限されていることもあってか不満たらたらに愚痴っぽく言う。
無論、アルスの興味を駆り立てるワードだが、使えないのでは意味がない。
そうこうしている内にガルギニスの部隊も集結していた。
こちらはファノン率いるクレビディート軍とはまるっきり様相が違った。旧兵的な全身鎧の部隊で、どれもが大柄に見える。
ただの鎧ではないのは一目見ればわかるが、7カ国でも全身防具はハルカプディアぐらいだ。魔法師の進化の歴史を振り返れば頷けるのだが、ハルカプディアは現シングル魔法師【グラム】の影響を大きく受けている。
攻撃は最大の防御なり、が一般的な魔法師の考えであり、防御さえも魔法で行うというのが通例だ。魔物の攻撃を防ぐ手段が魔法以外に存在せず、通常は回避がベストとされている。
だが、グラムやオルドワイズの意志を色濃く残したのが、ガルギニスの部隊であり、魔法規格そのものが異なるのだ。いや、規格など有ってないようなものだが、いずれにせよハルカプディアのAWR製法や基準は他国と大きく異なる。
赤い甲冑を着込んだ一際巨漢の男が隊長のガルギニスだ。
甲冑に薄っすらと刻まれる魔法式――そこには見慣れない異質な羅列が組み込まれていた。
「では、征くか。1位、くどいが余裕があればそっちでもオルドワイズ公の捜索を願う。何か事情があって動けないかもしれないからな」
「…………」
期待などまるで籠もっていない声音を察してアルスは無言で頷いた。
元シングル魔法師だとしても、それは現在の順位に直せば二桁程度とアルスは見ている。すでに退役したことを考えれば衰えは必至だろう。
万が一、どこかに身を隠しているのであれば、帰りに拾っていけばいい。
――レアとメアの姉妹も拾わないとな。階下へ向かうにつれ手に負えなくなるはずだ。
地下階層――各フロアの広さも把握できていないため、捜索は虱潰しになると予想された。
ガルギニスの部隊は総勢十四名。
ファノンの部隊からは十名の出撃となった。イリイスの扱いは一フロアを担当するのだが、問題は【世界蛇】の存在だった。どこかでファノンかイリイスは地上で防衛に回ってもらうしかないのだ。
ロキに刻まれた刻印によってどこまで【ヨルムンガンド】が察知できるかわからない以上、備えておくに越したことはない。イリイスが同行したのは“ロキの保護”という観点が強いのだから。
そういう意味でも“不可侵”とまで謳い称されたファノン・トルーパーの援軍は渡りに船だった。己の我儘に付き合わせてしまうが、端から承知の上だ。
もちろん、余計なことは言わないのだが。
必要な情報は共有したし、それで帳消しとまではならなくとも最低限の礼儀は示した。
時間との戦いである以上、イリイスには短期で一つのフロアを制圧してもらわねばならなかった。そこについてはここまでの道中で話し合い、了承を得ている。少なくとも高レートを多少始末してくれるだけでも十分なのだ。
多くの情報がアルスにのみ集結され、脳内に留めておく。各階層の制圧が最も確実に、そして最も迅速に生徒を救出することができる。
アルスは全部隊に対して号令の代わりに注意喚起の言葉を投げた。
「鉱床内部の魔物はこれまで戦ってきた外界の魔物と一線を画する。迅速な討伐が求められるが、階下からは慎重に対応するように心掛けろ。手が詰まれば一旦引くことも視野に入れ、ことに当たれ。取り残された生徒三名――この救出が最優先目標だ」
淡々と紡がれるアルスの言葉を全員が口を閉ざしたまま聞き入った。
中にはSレート級が通常では考えられないほどいる。そうした情報を聞いても誰一人として離脱する者は現れなかった。