想起する最悪
イリイスは兎も角として、アルスとロキは休息もほとんど取らずに必要な装備を整え――といっても着替え程度――すぐさま協会本部を発った。必要なものは現地の基地に用意されているし、もっとも警戒すべきは指示系統にある。少なくともアルスが考えていることを、おそらく現場の指揮官は想定すらしていないだろう。
その旨を手短にイリイスに伝えると、アルス達は即座に屋上庭園から飛び降り、鉱床目指して全速力で疾駆する。
三人の影は陽の光すら捉えることができない程、瞬速を極めた。それこそ突風の如き疾走は他人の目に映りすらせず、微かな影だけを残す。まるで目にゴミが混入したような違和感のみを与えた。
なまじ外界で鍛え上げられた脚力はブレーキの壊れた暴走車のようだが、それを扱う者達は息を乱さず巧みに制御することができる。
アルスの目の前では赤いローブをはためかせて、ほっそりとした足がチラチラ覗く。
半ば自動的に動いて見える両足。それでいて身体の軸はまるでブレる気配がなかった。
アルスの脳内ではフェリネラを助け出すために、障害となり得る壁の排除に必要な戦力を計算していた。
気がかりは階下へと繋がる空間の存在。
情報が足りなさすぎる上に、時間がないときた。体調も万全ではない、それどころか酷い状態だ。
それでも考えるより先に身体が動いてくれる。心が迷いなく身体を突き動かしてくれる。
外界で死んでいった者達の……満たされた表情で逝ってしまったあの者達の、一端に触れたかのようだ。
「……悪くない」とポツリと口をついた。
体調も状況も全てが悪い方向に転がり落ちる一方で、アルスの心だけは正常に機能していた。魔法師としてではなく、人として機能することができた。
冷え切った精神はいつしかそれがアルスの中で当たり前として定着していた。親しい誰かが亡くなれば、悲嘆に暮れるだろう、という当たり前な感覚は理解できていた。だが、その一般的な、人としての当たり前が自分には備わっていないことも同時に理解していたのだ。
きっと自分は冷たい、冷淡な人間なのだと。死にゆく者にかける言葉も情も湧かない。思うのはいつだって馬鹿な連中程度でしかなかった。
上手くやれなかった、力が足らなかった、情が移った、助けるために果敢に挑んだ。挙げれば枚挙に暇がない。理由や動機は星の数ほどあれど、行き着く先は平等な死なのだから。
だが、不思議なことに一部の死体は、穏やかな表情を浮かべていた。今やっとアルスはわかった気がした。心を押し殺すように、目を塞ぎ、思考を閉ざしてきたアルスには到底及びもつかないことなのだろう。
心の赴くままに行動するということは。
そんな彼らと同じ境地に立ち、アルスは柵から解放されたような気持ちになった。
同時になんとしてもフェリネラを救出しなければならないと強く思う。
身体に流れる血は冷水のように思考を冷やし、機械的に作業をこなすものだけだと思っていたが、まだ自分を叱咤するかのように内部から突き動かしてくれる。人と同じような血が流れているのだと気付かせてくれる。
心に突き動かされるというのは外界では一種の心的外傷を疑われる。極度のストレスによる恐慌状態や、逆に緊張など心的負荷が快楽に置き換えられる。いわゆる魔力暴走の手前、俗に【キリング・ハイ】と呼ばれている。
そんな狂気じみた、場違いに小さく笑んだアルスを訝しんで、イリイスは速度を落とし、変なものでも見るような目を向ける。
「気でも狂ったか?」
「とうに狂ったし、狂ったままだ」
隣で不安げな視線を向けるロキには悪いが、もちろん口で言うほど狂気じみてはいない。寧ろ普段とやることは変わっていないのだ。変わったのは……そう、動機だ。
掠れそうな声で、アルと発したロキに、アルスは「絶対助けるぞ」と根拠のない威勢を発する。
ただの威勢だ。
助けるという行為自体は決定事項なのだから、そこから先を考えるのは不毛でしかない。
ちょうどバルメスの町並みを遠くに見据えてアルスは神妙な顔をイリイスに向ける。
彼女は視線だけをアルスに向けた。
それと同時にアルスは周囲に【消音の包容】を展開する。この手の魔法は系統よりも技術に依存するため、大なり小なり修得は可能だ。効果範囲は狭いが、座標の逐次変数の組み換えはアルスにとってはお手の物である。
風切り音が静まったところで、アルスは事務的な口調で切り出した。
「イリイス、悪いが俺は予想が当たったと見てる。クレイスマン教諭の話でも辻褄が合う。いや、否定する材料がない」
「バベルの研究者だったか。チッ、お前の予想が的中しているなら、現地の魔法師では手に負えんだろうよ」
渋面を作って舌打ちするイリイスも、本部では見せなかったが、気心の知れた二人の前だからなのか眉間に皺を寄せて険しい目つきに変わる。
失態などという話ではないが、少なくとも主催者たる協会は全力で事態の収束に向けて動かねばならない。
理想をいえば、学生に死者は絶対に出してはならなかったのだ。さすがのイリイスもそれを口に出すことまではしなかった。
「アル、どういうことかわかりやすく説明していただけますか?」
空中を飛び交う暗号じみた会話はロキには理解し難いものだった。
少なくとも極力最前線で、アルスの露払いを使命と感じているロキには必要な情報だ。
「最悪のシナリオだな。クロケルが引き継いだとされるクロノスの研究だが、その被験体の所在が問題なんだ。失敗し廃棄すべき魔物へと変貌した被験体をどこに捨てた?」
こんなことを彼女に聞いたところで的確な答えが返ってくるはずもない。アルスは一度固く口を閉ざして、それから考えたくない可能性を溢した。
「バベルの地下に巨大な横穴が見つかり、鉱床に地下が確認された」
「――!! ア、アルは廃棄場所が鉱床だと推測してるんですね!?」
一つ頷き返すアルス。
イリイスもアルスの予想を裏付ける一つの事案を付け加えた。
「私も言われるまで見当も付かなかったことだが、クソッ……なんで考えなかった」
虫の居所がどんどん悪くなる気配を孕んだ声がイリイスの形の良い口から漏れ出る。
「バルメスと聞いて思い出さんか?」
「…………ッ!」
ロキの驚愕に染まった顔を見て、イリイスは「そうだ」と肯定する。
「【背反の忌み子】、あの化物が偶然鉱床付近に現れたとするには今回の一件、無視できない、だろ?」
「あぁ、それも繋がる。クロノスの存在を度外視しても、SSレートは存在するし、魔物にとっても進化の到達地点だからな、実際他にいても不思議じゃない……あの鉱床付近じゃなければな」
ロキが大きく喉を鳴らした頃、バルメス軍本部が見え始めてきた。
「では! 【背反の忌み子】は……」
「その可能性は高い。都合が良すぎるしな。俺も疑問には思っていたが、クレイスマン教諭のおかげで繋がった。クロケルが引き継いだとされる失敗作の廃棄場所、奴がどうしていたかは知らんが、少なくともそれ以前の失敗作は横穴を通じて外界へと運び出された。いや、魔物が跋扈するところにそうそう出ていけるはずもないか……」
「つまり小僧は、バベルの塔と鉱床は巨大な地下トンネルで繋がっていると言いたいのだろう」
「実力は知らないがオルドワイズでは足らないだろうな」
元シングル魔法師だとしても、戦力として足らないだろう。
もともと潜り込ませる意味合いで遣わされたと思われるオルドワイズ公だが、芯の通った古風な武人と聞く。
今となってはそれだけの戦力では到底足らないのだ。
イリイスがあえて明かさなかった援軍について、ここに至り明らかにしなければならない。
「どうするつもりだ?」
「決まっておろう、鉱床内部を一掃する」
「同意だな。で、聞かせてもらえるんだろ? 援軍について」
コクリと頷くイリイスはこれだけは安堵したように「抜かりはない」と断言した。【背反の忌み子】が鉱床と関係しているかもしれないことや、バベルとの繋がりを知った今でも、彼女はその一点のみ自信を持って答えた。
「もう到着している頃だろうよ。反対派を納得させるための援軍だったはずなんだがなぁ。とはいえ奇しくも、迅速かつ最善の対応ができるのだから…………挽回の目は辛うじて残ったか」




