無価値な魔法師
少しだけ顎を上げて、真っ直ぐ見つめてくるロキの視線は恐怖に彩られていた。
力強い眼差しなどではない。真正面から見ればこそはっきりとわかるのだから。
そう、決して強い意志の下、向けられた目ではない。
目は多くを語る。それが彼女程、純真な色であるならば、言葉以上の想いが宿る。
感情の大部分を偽らざる本音として表現される。言いたいことも、我慢していることも全てを反映してしまうものだ。
表情程巧みに操ることはできないのが目であり瞳だ。
この時の彼女を見て、アルスは改めて感じた。テスフィアならば言葉で、アリスならばわかりやすいほどの表情で感情を発露する。
しかし、ロキはそういった他人が感知できるサインを発しない。代わりにそういった胸の内に秘めた感情が蒼穹の如き澄んだ目に籠もる。
目は多くを語るのだ。偽ることができない感覚器官である。特にロキは感情を表に出さない分、その澄んだ目は美しくも多くを物語る。
今のロキがいくら不敵に微笑んだとしても、嘘と見破るのは容易いだろう。
ロキの表情筋が微かに強張り、震えていた。
上手く言葉を紡げずに、それでも彼女の目はアルスの目を捉えて放さなかった。怖いイメージで塗りつぶされ、それでも頑として目で訴えてくる。
まるで小動物が必死で懇願するかのように痛々しいものだった。決して勇気ある行動ではない。
何を言いたいのか、アルスにはわかってしまった。
雄弁に物語る彼女の瞳が、何を映しているのか、それを読み解くのは至極簡単なことだった。
「大丈夫だ。二度とお前にあんな思いをさせない」
「…………」
ロキの口が何を紡ごうとしたが、震えのせいで硬く引き結ばれる。
きっとロキはクロケルとの戦いで九死に一生を得たあの光景を思い出しているのだろう。あの出来事は彼女の心に大きなトラウマを植え付けたはずだ。
今までのアルスならばいらぬ心配として、彼女は処理することができていたのだろう。
不調の原因すらわからない今は、あの死にかけた出来事を想像してしまうのはロキにとって当たり前のことだ。
銀色の髪は微動だにせず、怯えたような目が前髪から覗く。
普通に生きていれば、きっとその人にとって何が最悪かなど考えることもしないだろう。
しかし、ロキにとっての最悪・絶望ははっきりしていた。
それはアルスが死ぬこと。
ロキの心は一度砕けた。ゆっくりと修復されつつあるが、きっと癒えることはないのだろう。知ってしまったのだから……自分にとって何が最悪なのか、それを知り、目の当たりにしてしまった今、それを繰り返すことはできない。
アルスが死んだと思ったあの日に一度粉々に打ち砕かれてしまったもの。あの光景を、あの絶望を考えないことなどできないが、それは同時にアルスを縛ることに繋がる。
学院に来てから変わった今のアルスを縛り付けてしまうとわかってはいるのだ。
だから――。
「アル、私は酷く弱くなってしまいました。臆病になってしまいました」
「…………」
今度はアルスが言葉を飲み込む番だった。
重たくのしかかる吐露。か細く紡ぎ出されるなんと痛々しい言葉か。
悲痛がそのまま言葉として出てきたような響き。
ロキの中では不吉な予感が渦巻いてしまっていた。考えないことなど不可能だ。
自分に降り掛かった魔物に付けられた印などよりも、アルスが心配でならない。
だから、自分の……力が足らないことを承知で“行く”と言ってしまった。それしか思いつかなかったのだ。
そしてそんな拙い理由も、きっと彼に跳ね除けられてしまうことをロキは知っていた。
「あぁ……俺もだ」
「……!!」
「俺もたぶん弱くなったかな。なぁ、ロキ。フェリが連れ去られたと聞いた時、俺はどんな顔をしてた?」
「それは……」
答えるのは難しい。特段ロキだからということでもない。
表情なんてある意味で感じ方は人それぞれ……ただロキはその時のアルスの顔から“拒絶”と受け取った。事実を拒む子供のように、受け入れ難い現実から心を守るように、表には出さないように、悟られないように必死に拒んだ顔であった。
言い淀むロキを見て、アルスは大凡を察した。
イリイスが言ったようにそれは酷い面だったのだろう。普段のアルスからはおよそ想像もつかないほど、情けない顔だったのだろう。
きっとそこには最強なんて大層な肩書は見る影もなかったはずだ。
それを知ってもアルスは恥じるどころか、何故か頬を持ち上げていた。
「……?」とわかりやすく髪を揺らし疑問を顔に浮かべたロキに、アルスは普段どおりに言い放った――いや、悪く言えばそれはらしくない人間味に溢れた顔だった。
するとアルスは一歩、スッと距離を詰めてロキの頭に手を置いた。いつものようにただ優しいだけの手ではなく、抱え込むように頭の後ろに添えられた。
気がつけばロキはアルスに引き寄せられるがままに、彼の胸に寄り添っていた。真正面から顔を埋め、両手は僅かな抵抗のつもりなのか、小さく顔の傍で添えられている。
次第に埋めた顔から直にアルスの静かな鼓動が伝わり、ロキの不安を取り去っていった。
「誰の命令じゃなく、自分の意志で成そうと思えたんだ。それが死地であろうともな。これでも1位を貰ってるんだ。手に収まる範囲ぐらいは救いたいじゃないか」
「ですが……」
「お前の言いたいこともわかる。万全じゃないのは確かだしな。でも、外界で常に万全な状態なんてない」
「それは屁理屈です」
「かもな。でも、ここで動かない俺にお前は落胆するんじゃないか? そんな俺は嫌だろ?」
アルスが死んだかもしれない、あの恐怖をもう一度味わうくらいならば……。
そんな思いをするくらいならばと、ロキは強引に胸の中で首を振った。落胆なんてするはずがない、嫌になどなるはずがないのだから。
「いや、嘘だな」と見透かされた一言に、不覚にもロキはビクリと反応を示してしまった。
嘘ではないが、ロキの中でのアルスはすでに救いに行くことを決めてしまっている。
ロキの見るアルスとはそういう人物なのだとわかっているのだ。そしてそういう彼だからこそ、ロキは生命を捧げ、尽くすことを誓った。
「初めて魔法師らしいことができそうなんだ。やらせてくれ……そしてお前には傍で見ていてほしい」
アルスのいう『魔法師らしい』とは、損得勘定なしに動ける美しい者達だ。生命を安売りする無謀な連中のことだ。だが、それは自らのためではなく、必ず他者のために投げ打つ覚悟を持った生命の輝きだ。
その身勝手な望みこそ、アルスが羨むものの一つなのかもしれない。
だが、同時にアルスもロキも、そういう者達は往々にして早く死ぬことを知っていた。
アルスは言葉を尽くして信用してほしいとは言わず、ただロキを強く抱きしめる。
両手で強く、包み込む。
強く抱き締められロキは爪先立ちになった。肩から顔を出すように天井へと目を向ける。
こうなることは薄々わかっていたのだ。
そして彼へ抱いた好意を自覚したその日から、アルスが外界に赴くことを続ける限り、この不安は一生消えないのだろう。
ロキはアルスとの間に挟んでいた手を抜き、諦めたように落とした。
大丈夫と自分に言い聞かせるように、自分も腕を回して彼の背中をポンポンと叩いた。
「おっと悪い。少し力が入り過ぎたか」
「あ、あぁ……コ、コホン。ね、熱烈な抱擁は名残惜しいのですが、それは諸々片付いてからにしましょうか」
自然と笑えただろうか。内心ではちょっとがっかりした自分もいたが、今は……。
ちょうど背後からドアガラスをノックする音が響き、ロキとアルスはそちらへと目を向けた。
「話は纏まったようだな。それとも今度は私の番か?」
屋上庭園から戻ったイリイスが卑しい笑みを口元に貼り付けて、袖に隠れた両手を突き出し抱擁を迫ってくる。
が、直前で、アルスの腕がイリイスの頭をつっかえ棒のように押さえつけた。
「全てが万事解決したら、何でも言うことを聞いてやる」
「おっ!? 言うたな小僧」
「いや、待てッ! ……クッ……ロキのことも含めて、だからな」
ニタリとした深い笑みが、やけに年の功を感じさせるが致し方ない。SSレート級からの警護を考えれば、天秤で測る必要すらないほど安い。
一旦卑しい笑みを引っ込めたイリイスは、親指を立ててクイッとスナップさせ出立の合図とした。