失態の代償名簿
協会本部ではイリイスへの“頼み事”を一先ず引き受けてもらうことができた。
今後アルスはロキに掛けられた印を消すべく【世界蛇】の討伐を考えなければならない――それも早急に。
ロキを標的として狙っているならば、【世界蛇】は内地へと侵攻してくるかもしれない。それがいったいどこからなのか、方角さえもわからなければ、SSレートを相手にした場合の被害は想像を絶する。それこそ過去の大災厄、クロノスに匹敵する被害を齎すかもしれない。
つまり、アルス達は攻め込まれる前に誰よりも早く接触、討伐する必要があった。
とはいえ、一先ずは協会本部へ来た目的は果たせたと言えるだろう。
少なくとも人類最強トップツーが討伐に向かうのだ。ロキも含めても三人というのは心もとなく感じなくもないが、異能を抱える二人には寧ろ好都合であり、何の気兼ねもなく戦えるというものだ。
アルスはイリイスの淹れてくれた苦味の強い紅茶を少しだけ残し、テーブルに戻した。残念ながらこれ以上は紅茶というものに対して偏見しか生まない。
彼女相手に遠慮も必要がないだろう。
嫌がらせに耐えた自分を褒めてやりたいほどだ。
たかだかイリイスの腕に刻んだ魔法式を観察するだけの代償にしては釣り合っていないが。
無論、イリイス本人の上げた歳不相応な甘い声の分だけ、増した苦味。
見た目だけならばただのマセガキであり、歳を考慮すればゾッとする類のものだ。少なくとも精神衛生上アルスは彼女を見た目通り、ちょっと大人びた幼女として考えることにする。
アルスの口の中は今、薬草を噛み潰したかのような痺れをともなっていた。
幸い声は出るようだが。
「ん、もう行くのか? もう少しゆっくりしていけば良かろう」
「忙しいと言ったのは誰だ」
「そういうな、あっちはまだ楽しそうだからな。二人の大人の時間を堪能しようじゃないか」
クイッと親指を後ろの屋上庭園に向け、イリイスはニタリと笑みを濃くする。
そこではまだラティファとロキが何事か楽しそうに散策している姿があった。
良からぬことを考えていそうな、幼き会長。
しかし――。
「いや――」とアルスは首を振った。
その理由はテスフィアとアリスを連れて外界に向かってから、上手く魔力がコントロールできないことにあった。時間とともに落ち着いてきているが、明らかに異変は継続中。
身体を流れる血のように、魔力を知覚できていたが、今はその感覚がぼやけたようにあやふやなのだ。
身体に染み込ませた習慣のような感覚。それを意識的に行うにしても阻害されるように感覚を阻まれる。
アルスが今感じている違和感とは、端的にいえば、当たり前のようにできていたことが突然できなくなったことと等しい。
魔法を構成する上で大きな障害にはならないはずだが、それでも自分の中身が変異してしまったような気さえする。
今の自分は正直言えば……。
「気持ち悪いんだ」
「少し苦くしたが、随分ひどい言い様だな。ほんとにちょっとだけ濃くしただけなんだぞ」
「いや、紅茶の話じゃない。魔力のことだ。置換できないという解釈で話を進めたが、気になることもある。自分の身体だし、ここまで置換ということを意識させられたこともなかったからな。少し調べてみるつもりだ」
「それも良いだろう。私も魔眼については実体験でしか語れないからな。ふむ、そうか……もしや兆しかもしれんな」
小さく吐かれた言葉をアルスは察して口を閉ざした。
「いずれにせよ、今のお前は万全とは言い難い。討伐はその後だ」
「わかってる。すぐに何かしら手を打つ」
「存外大したことのない可能性もあるからな」
「…………」
もったいぶるような口調のイリイスに、アルスは先を促すように目を向ける。
だが、彼女があえて遠回しに言ったのにはそれなりの理由があり、有り体にいえば小馬鹿にしているようにも受け取れるものだった。
「まぁ、なんだ。魔眼は特に宿主の精神状態に影響を受ける。お前に限ってそんな子供っぽい悩みなどありはしないだろうからな……口に出しはしたが、忘れろ」
子供っぽいなどと揶揄されても、アルスは微動だにせず思考に耽った。魔力の性質など諸々を考えれば、イリイスでなくともその結論に達するだろう。
魔法師のいう不安定な精神状態とは主に恐慌状態など、具体的に魔物に対した恐怖で例えられる場合が多い。
その中でも異能は保持者の精神状態に左右されるのはひどく合理的だった。寧ろ当たり前とさえ言えるのではないだろうか。
一般的な魔法師よりも精神のバランスが求められる。
ならば、テスフィアやアリスと共に出た外界で、取り乱したのもわからなくもない。
それから体内魔力に異常が起きたのだから理屈は通る。
認めたくはないが、それはアルスが学院に通い始めてから当たり前のように、心を掻き乱していたものだった。心を通わせ合い、親しくなったために情が移ったのかもしれない。
だから些細なことで、感情が揺さぶられる。
心を殺すことが難しくなっている。
彼女らの存在がアルスの心を占め始めていたのだ。満たし始めていたのだ。
そんなふうに考えれば未熟だと言われようと仕方ない。何より、そうであったならばそんな未熟な己を恥じるどころか、笑い飛ばしたいとさえ思えた。なんせ、アルスが外界で見捨ててきた魔法師の最後と同じなのだから。
綺麗事だけで容易に自らの命を投げ打つことができてしまう人種。他人に理解できない己の理の中で生きる者。どうしようもなく救いがたい者達をアルスは幾度と見てきた。無為に散らしたはずの、彼らの顔は無念一色ではなかった。
死に様に悔いは残っても、行動の結果を受け入れた最後ばかり。
「子供っぽいとは心外だな……と言いたいところだが、俺もまだ十代だしな。そんなこともあるのかもな」
「なんの嫌味だ。仕返しのつもりか?」
自嘲気味に口端を上げたアルスに、イリイスは眉根を持ち上げ、コメカミをピクリと反応させる。
自分を構成する要素は、何も自分の中身にあるものだけを指すのではない。寧ろ外側、他者も含めた全てが自分自身を構成するのだ。
その一点で彼女達はアルスの中に宿った“大事な存在”となっているのだろう。
ならば、なおさら難しいと、アルスは頭を悩ませた。
そう、彼女達が外界で常にその身を危険に晒さなければならないのだから、こっちはいつもヒヤヒヤさせられなければならない。
――だから強くするのか。自分を守れるように。
これまでアルスが彼女達を鍛えていたことの意味をやっと見出したかのように一つの答えが出た。
自分が楽をするため、そのためだけになんとか訓練をつけてやっていたのだが、その目的は彼女達がアルスにとって重要な存在になったことで変わりつつあった。
いや、変わったことにやっと気がついたのだ。
「ロキには聞かせられないな」
無意識にそう口を吐くのも、きっと彼女は随分前から気づいていただろうから。
そんなことを思っていると、頃合いを見てロキとラティファが戻ってくる。談笑しながら車椅子を押されているラティファは、被り物の奥で無垢な笑みを浮かべていることだろう。
こうして目の見えない彼女を補助できるのは、それだけロキやアルスが信頼関係を築けている証でもある。
「戻ったか、楽しかったかラティー」
イリイスのそんな子供に対するような言い草ではあったが、はいッとくぐもりながらも弾んだ声が返ってくる。
アルスもイリイスに続くべく口を開けた直後、唐突にラティファは膝の上の髪を抱くように握り締め、被り物の顔を床へと向けた。
「下が騒がしいようですが、何かあったのですか?」
「特に聞こえないが」
防音対策も講じられた会長の執務室だ。室内の音が漏れることもなければ、外部からの雑音が入ってくることもないはず……。
だが、結果として殴りつけたような荒々しいノック音が室内に響いたのは、程なくしてからだった。
実際扉が開かれた際に、一人の女性とともに室外の雑多な音までもが一緒に入ってくる。
ピッチリとした協会の制服に身を包んだ女性は、最上階まで全力で駆け上がってきたのだろう。乱れた髪を整える暇すらなく、更にはアルス達を一瞥しただけで、捲し立てるように口を開いた。
「現在目下進行中の鉱床探査任務で非常事態の報告が上がりました!!」
「――!!」
半強制的にアルスもイリイスも脳が冷めていく。思考は何を優先すべきかを即座に計算していた。
経験が物言う対応で、イリイスは冷静に報告しにきた女性に対して――。
「続きを簡潔に言え」と厳しい表情で促す。
「は、はい!! 鉱床内部で高レートの魔物が複数出現し、一部学生に負傷者が出ております」
「死者は?」
「報告にはありません……た、ただまだ鉱床内部には三名の学生が取り残されており、一名は魔物に連れ去られたと……」
イリイスが発したギリッと奥歯を擦り合わせるような音に、女性は喉を鳴らして会長の様子を恐る恐る伺い見た。
逃げるだけならば十分な戦力だったはずだ。とはいえ、外界で何が起こるのか、想定しきることは砂漠で砂粒を全て数えるより困難だ。
「すでに鉱床近辺を指揮、統括しておりますオルドワイズ公が精鋭部隊を引き連れ救出に向かったとの報告も受けております……それと鉱床に……」
「さっさと言え」
「鉱床内部で地下に繋がる通路が二箇所発見されました」
「――地下だと!?」
イリイスは考え込むように俯き、親指の爪を噛む。
その間に割って入るようにアルスが質問を投げる。
「鉱床に取り残されたのはどこの生徒だ」
「はい! バルメスの第5魔法学院のレア・エイプリルとメア・エイプリル……それと連れ去られたとされる生徒はアルファ第2魔法学院の……フェリネラ・ソカレント」
「…………」




