誘われる戦慄
魔法師や部隊員としての責務が消し飛ぶほど、若き少女の思考は恐怖一色に塗り潰されていた。
セニアットの悲鳴は即座に全員に警告として届けられる。
そして全員が悲鳴を上げるに至った元凶を視認するより早く、セニアットが脱兎のごとく仲間を抜き去っていく。
「セニッ」と言いかけたフェリネラも鳥肌が立つ気配に身を竦ませていた。
経験の浅い部隊で恐怖は容易に伝播する。一人逃げれば、また一人、逃げ遅れるという焦燥感が湧き上がってくるのだ。
加えて嗅ぎ慣れない異臭――そう、腐敗臭が微かに鼻腔を突き刺す。
いずれにしても、この狭い空間では分が悪いと即座に判断したフェリネラは――。
「走って!」
声を張って全員に指示を出した。
「あれは無理いぃぃぃぃ!!!」
一気に先頭まで躍り出たセニアットはそう叫びながら猛然と逃げる。
セニアットだけを責めることは当然できない。勇ましく戦うことができるには些か経験不足なのだ。魔物の脅威は何も力に限った話ではない。
自然界から外れた異形の姿。不気味に不可解に、おどろおどろしい魔物の姿形はおよそ人間に恐怖を抱かせるものだ。
できることならフェリネラとて、あれとは戦いたくなかった。心底嫌悪感、不快感を抱かせる。
本音を言えば最後尾からセニアットのように、一気にごぼう抜きしたいほどだ。辛うじて隊長故の責任感が彼女を落ち着かせていた――醜態を晒さずに済んだ。
徐々に迫ってくる足音の連続。
――【死体被り】がなんでいるのよ!?
内心で悪態を吐きつつ、フェリネラは対応を考える。
背後から聞こえる金属質な音は、【死体被り】の硬質化された杭に似た三本の足が原因である。おそらく鉱石や硬い岩盤にぶつかって高音を発しているのだろう。
だが、この程度ならば魔物でも【蜘蛛】の形体を取る種類と形状に大差はない。
そう、問題は上半身に当たる本体だ。
【死体被り】は死体の皮を被る、そのせいか場合によって異臭を放ち、それは腐敗臭に近い。そして被るものは例外なく死んだものの生皮である。
魔法師の中でもある意味で遭遇したくない魔物の上位にある。
フェリネラは走りながら先頭で状況を正確に把握できていないイルミナに向けて声を飛ばした。
「【死体被り】が一体、接近中よ! どこか開けた場所で応戦します!」
「了解」
応えたのはイルミナの声で、残りの男子二人はそれどころではないようだった。一拍遅れて了解の意が返ってくる。
戦略的撤退も考えなければならないが、他部隊と【死体被り】が遭遇する可能性は低くないだろう。本能的に動く魔物だが、近年では知恵を持つ個体も少なくない数、報告されている。そして【死体被り】は本能的にせよ、死体を纏うことで肉体の硬質化、または擬態する。
あのおぞましい姿が擬態しているとは到底思えないが、いたずらに行っているとも考えづらい。
本来【死体被り】の身体は非常に柔らかなものである。一部報告ではジェル状とさえ言われてもいる。そのせいか、貝類のように巣食う容れ物として身に纏うのだ。とはいえ、当然魔物の肉体ではないため腐敗が進む。
これが異臭の原因である。
今、フェリネラ達に迫っている【死体被り】はというと。
何かの皮を被っているのだろうが、腐敗の進行状況からしてそれはすでに黒ずみ、錆びたように赤黒く、どこか着古したローブで全身を覆ったような様相である。
不自然に伸びる袖のような腕、フードを被ったようなシルエットがセニアットに人間のような姿に見せたのだろう。
想像したくはないが、死んだばかりの人間であれば、上半身は人間のそれに見えるはずだ。窪んだ眼窩は黒一色が居座り、紙のように薄っぺらくなった皮が空気を含み波打つのだろうか。
一瞬だがフェリネラが確認した限りでは、何かしらは被っているのだろうが、すでに硬質化しており胴体部は鎧となっていた。
だが、このままではいずれは追いつかれることは確かだ。このまま逃げ続けるにしても、逃げ切れる確率は低いだろう。
明らかに連続する足音は激しく耳朶を打つ。
最後尾のフェリネラの耳には他にも、先頭でセニアットを落ち着かせようとするイルミナの声もある。
先頭を走っていたセニアットは、一筋の光明を見出したかの如く、広めの部屋を見つけた。
続いてイルミナも後続に伝えるべく声を張る。
「イルミナ、そこで迎え撃つわよ」
「えぇ」
イルミナはフェリネラの意思を確かに受け取った。この場で瞬時に狩れる力はフェリネラを除けば、イルミナしかいない。
先頭組が部屋に入り、即時反転、フェリネラが飛び込んでくると同時に通路内にて【死体被り】を迎え撃つ。
問題は【死体被り】のレート。
計測係でもあるセニアットが逃走した今、正確に測ることができなかった。
――本来なら、Cレート……でも。
フェリネラは懸念を試すべく、腰に挿してあるAWRの柄を握る。フェリネラのAWRはレイピアのような刺突武器だが、それを用いての大規模な魔法は制限される。引き抜く間すら惜しい今、彼女は最低限の動作に留め最速で魔法を紡ぐ。
鞘を浮かせ、丸みを帯びた刀身には魔法式が螺旋状に刻まれている。
柄を握りながら刀身を少し鞘から浮かせると、フェリネラは魔力を注ぎ込んだ。
走る速度を落とさず、ふわりと軽やかな踏み込みの後フェリネラは身体を宙に浮かせて半身で標的を捉えた。
柄を握ったのとは反対の腕を突き出し――。
――【圧縮弾空】
手を開いたそこには魔力が集中し、同様に周囲のミスリルを激しく輝かせる。
内心で魔法名を告げた直後、魔力はその証たる光源を消失させた。無論不発ではない、その証拠に魔物の正面から局所的な爆風が叩きつけられた。中位級に含まれる風系統魔法である。通路を塞ぐように魔物へと空気の弾丸が撃ち込まれる。
本来ならば魔物の外装を剥がす衝撃を伴うが――。
――やっぱり。
推測は当たる。
直撃したはずの魔物は上体を仰け反らせ地面に深く足を突き刺し耐え抜いた。一度大きな衝撃があったが、それもすぐに収まり、再度魔物は駆け始める。
魔核の位置はほぼ上部にあると見て間違いない。だが、それを守る飾りのはずの被り物の外皮が魔法を中和しているのだ。
まったく無意味だったわけではなく、上体から黒ぐろとした何か血液のような液体が滴っている。
そして漂うというよりも、明らかにそれが強烈な異臭を放っているのがわかった。
フェリネラは速度を上げて、前方の仲間が広い空間に出たことを見届け後に続いた。
正攻法として出口の両側で待ち構え、抜け出た魔物を一斉に迎え撃つ手筈だったが――。
フェリネラが部屋に飛び込んだ直後。
仲間達は【死体被り】を迎え撃つ準備を一切していなかった。
それどころか中心であらぬ方向に対して身構えている。
「何をして」と出かかった声はフェリネラが状況を確認した直後に喉の奥へと引き返していった。
全員が背中を預けるようにしての臨戦態勢。
「どうするの、フェリ」
問うピリピリとした声にフェリネラはすぐに返すことができなかった。
抜けた先が安全だという保証はなかった。
フェリネラの部隊を取り囲んでいたのは新たな魔物の出現である――それも四体。
最後尾で仲間に背を向けたフェリネラは背後の【死体被り】を見据えた。確証はないが、それでも状況を鑑みるに……これでは。
「誘い込まれた」