願いと思いと後ろめたさ
テスフィアとアリスがアルファ最大の歓楽街――《ミューストリア》へと消えていく姿を見送ったのは昼頃を少し過ぎた頃である。
普段から学院の生徒がこういった出かける機会にあまり恵まれないからか、彼女達の後ろ姿は見違えたように見えた。浮かれてのことだが、入学以降ほとんど訓練漬けだったことを考えれば今日ぐらいはいいのかもしれない。
兎にも角にも、恐ろしい程の元気だ。力尽きると思われた彼女達の活力がいったいどこから湧いてきたのか、アルスには想像もできない。
あえて予想するとすれば明日は更に疲れが押し寄せてくるだろう、ということぐらいだ。もしかすると授業すらもままならないかもしれない。
それでも良いリフレッシュになるのであれば、と思わなくもないアルスであった。
一方でアルスとロキは来た道を戻り、転移門を経由しながらバルメスへと引き返していた。ハイドランジまでは戻らず、その手前のバルメスである。さすがに国境警備員もアルスの顔を忘れたりはせず、不思議そうな顔で、手短に手続きを済ませてくれる。
さすがにアルファに所属したままでは簡単にはいかなかっただろう。
もちろんここからは外界に近いバルメス軍本部とは逆で、比較的バベルに近い方角へと向かう必要があった。協会は魔法師不足など、国力を考慮してバルメスに本部を置いている。当然、バルメスにも支部があり、その理由は本部がバベルに近いからだ。バベルの塔を囲う広大な湖、そこを越えることはないが富裕層よりも近い位置には建っている。
その理由も当然あるのだが……今はおいておく。
バルメスの街並みは以前と大きな変化はなかった。どちらかというと一極集中型といえば良いのだろうか。都心の密集率が高い一方で富裕層までに平らな土地が広がったままだ。
ここまで来ると少し時代錯誤な感じを受けなくもない。良く言えば長閑、悪く言えば殺風景である。
木造家屋が多いのか、大自然的な生活様式が広がっていた。
ど田舎に迷い込んだような、ともすればまだこんな悠々閑々たる場所が存在していたのかと意外な気持ちにもなる。だが、総じて身体の力が抜けていくような安堵感をアルスは抱いていた。
細い小川に沿って建てられた水車など如何にも、雰囲気を演出するための装置な気さえしてくる。
まさに外界の空気が凄くしっくりくる。いずれはこんな場所に住んでみたいとアルスに思わせる程、ここでは生きることに急かされることもないのだろう……不思議な場所だった。
ゆっくりとする間もないが、取り立てて急ぐ必要もない。せっかくなのでアルスとロキは転移門を使わず、その何もない――あるのは丘陵とした自然の地形と、緑を敷き詰めた下草ぐらいだろう――広大な平原を駆けて抜けることにした。
心地よい風を切って、二人は解放感を抱きながら足を動かす。
アルスの動きはいつもと変わらず、軽快でありその足運びは飼い主の手から離れたペットが駆け回っているように見えた。
少し距離を開けて、ロキはアルスの身体をつぶさに観察する。肉体的な不調は見た目では見当たらないが……魔力はやはり過剰に漏洩していた。アルスがあえて押さえていた魔力を、自然に流れるままにしたのだ。探知するだけでも周囲に人影はまばらにしかおらず、魔法師でもなければアルスから漏れ出る魔力を感知するには至らないだろう。
とはいってもだ。漏れ出る魔力量からして威嚇や威圧の類いなのではないかと誤解を受けそうではある。
そんな不安気に見つめるロキにさすがのアルスも気づく。
アルスは肩越しに振り返りながら、彼女が抱く不安の原因について何事もないような口ぶりで発した。
「そんなに心配するな」
「で、ですけど、これはあまりにも異常かと……身体に何かあったのでは」
不安げな視線でロキは真っ直ぐアルスを見つめた。喉の奥から吐き出すように、絞り出すように悲痛の訴えが出る。本当ならばすぐに帰って精密検査をして原因を究明すべきなのだ。
だが、本当に必要であればアルス自身が一番に検査を優先させるはずである。検査を後回しにする、というのは思い当たる節があるのか、それとも今回の任務がそれほど切迫したものだったのか。
――でも、アルの変調は魔物の脅威より優先されなければ。
どれほどの魔物が侵攻しようとも、アルスが万全の状態であるかないかによって戦況を大きく左右される。ロキからすれば彼が望めば人類など滅んでもと思わなくもない。実際それをアルス自身が望んでいないことをロキは知っているのだが。
アルスの魔法師としての力量は今更説くまでもないだろう。彼一人の存在は人類の存亡さえも関わってくるのだから。
心配するな、と言われてもそれを鵜呑みにするほどロキは楽観的にはいられない。もう、あの時の―ー想像し得る最悪の光景など見たくも、考えたくもないのだ。
「心配性だな……それは俺もか。ともかく俺の状況は肉体的にはなんら問題はない。要は魔力だけの問題ということになる。俺の魔力容量を越えたのかもしれないし……もしくは……」
もう一つの可能性を口にしかけたアルスだが、当然ロキがそれを追求しないはずもなく、即座に後を促すように食い気味に遮る。
「もしくは?」
「……眼だ」
アルスの声には可能性の高さを示すような神妙さが込められていた。
「【イーゼフォルエの漆眼】ですか」
「さぁな。魔眼については俺自身よくわかってないしな。こんなことならリンネさんの解析データから研究を進めておくんだったな」
そんな時間はなかったことを知りながら、しまった、といった調子で言ってのけるが、ロキは真剣そのものだ。
「俺のことは良い。いずれにせよだ。この漏洩は置換できていない証拠だし、それならば吸収した魔力を全て出し終えれば元に戻る。原因がわからないだけで、お前が不安に思うようなことは何もない」
「そうは言いますが、これまでこんなことは……」
「もちろんないな。初めてのことだ。だが、今は俺よりお前の方が深刻だぞ」
平原を抜けて、富裕層へと突入した二人は興味がないとばかりに一段階速度を上げた。
さすがに往来はほとんどないが街中を突っ切るわけにもいかず、少し遠回りの道を選ぶ。
外界を走り慣れているアルスとロキは速度を落とさずに駆け抜ける。途中二人の間を割るように豪邸が見えるが、左右から回り込み、少しした後合流するとアルスは話しを続けた。
「ロキ、お前の刻印も言ってしまえば俺のように身体的な異変はないはずだ。ただ、お前が魔法を構築し、魔力を練った際におそらく反応を示すだろう。見た限りでは魔法式に使われている【失われた文字】の原型となった記号だ。もちろん、一部では読み解ける部分もある」
「それがアルが言ったマーキング、目印ということなんですね」
アルスは少し気難しそうに頷いた。ボルドー大佐への報告でロキの腕に浮かび上がった印についてあえて説明を省いたのだ。概ねの見当はつくし、それはあながち的外れでもないからだ。
「いいか、それはまず間違いなく獲物を逃さないために付けられた印だ。魔法を構築すると同時にその魔法式も反応を示す。おそらく【世界蛇】はその反応を頼りに襲ってくるはずだ」
無論、魔法にも相手に魔力的な目印を付けて位置情報を把握するものも存在する。系統は違えどその反応を探知する魔法の式には共通する【失われた文字】が含まれるのだ。
その原型と思われる文字がロキの腕に刻まれた式にもあるのをアルスは一目で見抜いていた。
「では、私があの魔物を引き寄せるということでしょうか」
「そうなる。この式に手を加えることはさすがの俺でもできんしな」
遠目に協会本部が見えてきたところで走るのをやめて、ここからは歩く意思として速度を落とした。
隣で顔に翳りを落としたロキに、アルスは口元を解して――。
「お前ぐらい守ってやる。その程度大した労力でもないし、来ると初めからわかってりゃこんな楽なこともない」
わさわさとロキの頭をアルスは撫でた。銀糸のような髪がサラリと揺れ、シャンプーの香りが漂う。
弱りきった暗い顔は自然と彼女の顎を引かせる。前髪に隠れた表情は読み取れず、申し訳なさそうに俯いてしまった。
しかし、次の瞬間、頭に乗せていたアルスの手をロキは逃さないとばかりに強く掴んだ。その手は頭から少しずらされ、ちょうど表情を隠すように固定される。
「私、私も一緒に戦いますから……だから、よろしくお願いします」
前髪の下でロキは染まった頬を隠しながら、
「もちろんだ。今更だけどな。まずはその辺りも含めてイリイスとも会っておきたい」
「はい!」
協会本部を目の前にアルスは最上階にいるだろう、幼女であり会長でもあるイリイスの待つ部屋を見る。
だが、ふとアルスは些細な疑問のままに口をついた。
「そういえば外界絡みで、誰かのために行動するのは初めてか」
任務でもなく、そこに利害関係は存在しない。アルス自身が必要なことであり、それが自分のすべきこととして行動できる。それはロキだからなのか……いや、ロキだからなのだろう。
他の誰でもない、彼女だからなのだろう。幾度と共に過ごしてきた時間は今や一言では言い表せない程、濃く長い物へと変わりつつある。
「あまりお手を煩わせたくないのですが……」
「俺が守りたいんだ。その力が俺にあってよかったと思えるんだから」
そっと目を閉じたロキは心に染みたように感謝の言葉を紡ぐ。その一方でアルスの言葉はロキに、至福をもたらすが……やはり彼女はその言葉に対して素直に受け入れることができずにいた。
本来ならば決意を新たに、それでも頬がだらしなく緩んでしまうところだ。
頭を軽く下げたようにも見える会釈をしたロキ。その視線は苦々しく地面へと向けられるのであった。




