染み付いた常識
アルスはロキの目の前を当たり前のようにシャワールームへと迷いなく入っ行ってしまった。彼の後ろを見ると、部屋に入った際に見かけた用途不明の棚に着替えが乱暴にぶち込まれている。棚からはローブが落ちかけているし、靴は脱ぎ散らかしたままである。
そしてもう一度、ロキは首を回して、アルスが入っていったシャワールームへと視線を移す。非常に嫌な予感がするのは気のせいではないだろう。
自分だけならばまだしも、ここには彼女達もいるのだから。
「お前らも帰ったら本格的に訓練始めるからな、覚悟しておけよ」
「わかってるわよ。課題が多いこともね」
「まぁ、慣れもあるからな。数回外界に出れば自然とわかることも増えていくもんだ」
いつものような会話が飛び交い、普段との違いはBGMとしてシャワーの音が絶え間なく響いていたぐらいだろうか。
「うおッ!?」
そんな驚きの声がシャワールーム内に反響した。
「あははっ、あんたもやったわね!!」
「フィアも私もやったもんね。絶対気づかないよ」
愉快な声が性別を越えて飛び交っていたのを、ロキは入り口から不思議そうに眺めていた。今となっては何をするにも出遅れた感はあるが、やはりおかしな光景である。
「なんで冷水設定になってるんだ。完全に嫌がらせだな」
「それで頭を冷やせってことじゃない?」
頭を冷やすのはお前だ、とロキは心の中でツッコミを入れていた。
いや、実際問題個室なのだから故意に覗かない限り恥ずかしい目に遭うこともない。その程度のことはロキも知っているし、それがアルスならば望むべくもないことだ。
彼女が異常に思っているのは、テスフィアとアリスの反応である。
そう考えると軍人経験も豊富なロキにとっては、忘れていたものの特段おかしな状況ではないことに気がつく。学院という男女を別に分けて考える場所に長く居たせいか、いつの間にかそれが当然で常識だと刷り込まれていたのかもしれない。
多少の羞恥心はあるが、取り立てて大騒ぎする話でもないだろう、とロキは意を決して入っていった。
後押しとなったのは外界で今朝方見た、アルスとテスフィアのいかがわしい光景が原因でもあったのだろう。思い出すだけで、引くに引けない気持ちになってくる。
アルスも同じように冷水を浴びたらしく、テスフィアは「今回は私も肝が冷えたんだけどね~。ハハハッ……ハハッ……ハ、は?」となんともおかしな笑い方をした。
が、その反対側で冷水に気をつけながらシャワーを出し始めたロキには、彼女が何に気づいたのかを明確に理解できた。
「#$&@*&%$!?」
声にならない驚愕――拒絶反応ともいうべき気配は実に分かりやすいものだった。すぐに悲鳴か罵声が飛ぶだろうな、とロキには予想ができていた。
「ちょおおおお――なんであんたが平然といるのよ!!」
「朝、全裸で抱きついていた奴の台詞とは思えんな」
「私も今気づいたとこ、なんかもう自然過ぎて違和感がないっていう、ね~」
髪の毛を洗い出したアルスは冷静に受け答える。
もちろん、それが火に油なのをロキは気持ち不満げに察していた――隣から聞こえるアルスの落ち着いた声を聞きながら。
スモークガラスのドアに乗りかかるように抗議するテスフィアにロキは「あまり近づき過ぎるといろいろと見えちゃいますよ」と注意を促してみる。この辺りはどこも昔から似たり寄ったりの作りになっており、スモークガラスのカウンター扉だ。下はつま先が見える程度の隙間、上部は頭部が見える程度だが、今のテスフィアは少し背伸びしているのが下から見える。
もちろんアルスが確認のために振り返ることはなかったが、テスフィアは慌てて一歩下がった。
「うぐッ……この、忘れようと思ってたのに思い出させるか。あの時とは状況が違うわよ!!」
「はぁ~軍に入ったらそんなんじゃ苦労するぞ、お前ら」
シャンプーの容器を手に持ったテスフィアはそれを向かいのアルスに向かって振り被っていたが、彼の発する警告のような言葉に手を止める。
彼女が手に持った容器で何をしようとしていたのかは、想像するまでもないが。
「ど、どういうことよ」
「お風呂とか混浴だったり?」
アリスは背中を向けたまま声だけを飛ばす。恥ずかしさはあるが、テスフィアのように目くじらを立てるよりも割り切ってシャワーを満喫することにしたようだった。
降り注ぐ湯を全身で浴びながら、髪を労るようにトリートメントを塗布していく。
「さすがに混浴はないが、基本的に軍で使われるシャワールームは個室になっているから、共同で使う場合がほとんどだぞ」
「嘘ッ!?」
「嘘なもんか、マナーはあるが一々腹を立ててたらきりがないから、早く慣れろ」
そう言われてしまえば、軍の常識として無知なテスフィアは容器を掴んだ手を下げざるを得なかった。突発的な感情に任せて失敗するところだった。しかし、「覗かないでよね」という捨て台詞は念を押すように発せられる。
妙な緊張感を持って事態は理解と収束に向かった――はずだった。アルスの苦言に異議を唱える声が、彼が使う個室の隣から投げかけられたのだ。
「アル、実際共同で使うのは有事の場合だけですよ。普通は分けられていたり、そうでなかったら時間で分けたりが主流ですけど。私が任務に就いていた時は男女で仕切られているシャワールームがほとんどでした……まぁ、まったくないとは言いませんけど」
「ん? ちょっと待てロキ。俺がシャワールームを使う時は普通に女性も一緒だったぞ。でもってこの話の行き着く先はあまり良くない気がするのだが」
ムスッと頬を膨らませる一方でロキはどこか納得もしていた。要はアルスには女性に対しての耐性がついているのだ。前々から思っていたことだが、やはりという感は否めない。
そもそも部隊部屋についているシャワールームが共同で使用される、というだけで、実際軍部には男女別々に大浴場やシャワー完備の更衣室が設けられているのだ。もっともロキが知る限り、アルスの軍部での生活はそういった施設を利用することがなかったのだろう。
「良い悪いはともかく、異性も一緒だったというのはアルが特別だったからではないでしょうか。軍部でもアルの功績を知る者はいましたし、といいますか、アルがまだ子供だったからではないでしょうか」
アルスが軍部で仕事を始めたのは確かに子供と言って差し支えない年齢だ。学院を卒業してから軍に入隊するため、周りは一回りも上の大人ばかり。ヴィザイスト卿の下で任務に就いていた時も子供扱いは現にあった。
頭を洗われたり、それが当たり前だと思っていたわけだが。
「アルが組み込まれる部隊が実質的に即席のものだとしても、やっぱり回ってくる任務の難度から考えると有事とも言えなくもないのでは?」
確かに言われてみれば、そんな思いがアルスの泡立った頭の中で駆け巡る。
ロキの常識とアルスの常識、それは同じ軍という場所においてもやや異なっていたのだ。当然、シングル魔法師の扱いは別格であり、その年の頃が子供となればやはり何もかもが違うのかもしれない。
つまりは――。
「それってやっぱり一緒に使うのは普通ないってこと?」
「端的に言えば……規則はありませんけど、マナーとかの問題ですかね」
アルスは急にお湯が冷水に変わったようなそんな気配を背中に感じた。
「はは~ん。上手く丸め込まれるところだったけど、常識的に考えておかしいに決まってるじゃない!!」
一度は下げた容器をテスフィアは再度持ち上げて構えた。通路を挟んで容器がヒュンと空気を割いていく気配はロキにも感じ取れた。
「え~っと、出るタイミングだけずらしてね、アル」
「わ、わかった。イテッ」
アリスの提案を当然のように承諾するアルス。
まさか当たり前だと思っていたことが、この歳になってから覆るとは思いもしなかったのだろう。
「アルはなんだかんだで有名でしたからね。女性魔法師には」
棘のあるロキの声が容赦なく浴びせられる。もちろん探知魔法師を取らない、ということも話題にはあったが、独身女性の多い魔法師は何かと面倒見の良い者が多かったのだろう。もちろん、放っておけない母性みたいなものが働いたのかもしれない。
「エロガキね」
「…………」
テスフィアの一言は痛烈にアルスの胸を刺した。ぐうの音も出ないとはこのことだ。
順位を笠に着るわけではないが、何も知らないのはアルスのほうだったのだから。
「アルス様、お背中でもお流ししましょうか?」
茶化すような浮ついた声が隣の個室を使っているロキから、悪魔の如き囁きで発せられた。
随分と楽しそうである。
「勘弁してくれ」




