大きな爪痕
通り雨のようにそれは移動していた。まるで樹海というベールの中から、炙り出すように怪雨を散布している。
黒い蛇の形をした何かが霧の奥に黒い影を映して天を覆っていたのだ。
不気味な音と体内魔力を掻き乱す作用のある雨。
それをロキはもがき苦しむアリスを押さえ込んで堪えていた。
周囲が再び、早朝の冷たい空気を取り戻してからもロキはアリスの胸の上で荒い呼吸を繰り返していた。
二人は押し潰されんばかりの魔力に堪えていたのだ――それもただ頭上を通過していったというだけで。
下敷きになったアリスの身体の方が大きいせいか、その上でぐったりするロキの身体が上下に揺れる。
直接心臓を掴まれ、揺さぶられたかのように、目眩すら起こす激しい動悸がしていた。
アリスの胸の動きに合わせてロキの身体も連動して揺れる。胸の辺りに顔を横たえたロキは、やっとのことで弱々しく口を開いた。
「大丈夫ですか、アリスさん」
「ハァ、ハァハァ……うん、なんとか」
白い息を無限に製造するアリスの呼吸は、声を出すことも躊躇われるほど忙しなかった。
あの黒い影が去ってから、朝日が少しずつ霧を晴れさせていき、小川のせせらぎすらも耳に届くようになった気がした。それでもすぐに立ち上がることはおろか、息を整えるだけでも時間を要するだろう。
二人が平静を取り戻したのはそれから十分近くも経ってからだ。一先ず休息地として使っていた洞穴へと引き返すことになった。
残念ではあるが、重たく感じられる身体に鞭を打ち、身支度を整え出した。ロキに焦りが感じられるのは、この外界が明らかに正常ではないからだった。
アルファで幾度と経験した外界とは遥かに異なる場所。
積み上げてきた経験が通用しない危機感に、ロキはすぐさまアルス達と合流する必要性を感じていた。
当初、ここも安全だと考えていた一方で、その考えすらも実は間違いなのではないかとさえ思い始めているのだ。
何より……。
――あれはこれまでの魔物を凌駕する。
言葉で言い表すには非常に難しい。単純な魔力量による脅威などではない、実際に見て、それを身に刻んだ今ならば理解することができる。
そう、あの魔物は魔物であっても、禍々しい人類の天敵とは違い、少し異質なのだ。
いうなれば一つの完成形。生物として超越した何か……異形ではなく、生物としてである。
故にこれまでと同様に魔物と一括りにすることは何かが違う。
ロキはそんなことを思いながら自分の左腕をローブの上から握りしめた。痛みはやはりない。動かすにも支障はなかった。
だが、そこには間違いなく何かがあったことを告げる物が残されている。
「こっちの準備は整ったよ、ロキちゃん」
「はい、こちらも整理できました。アルの荷物は私が持ちますので」
「大丈夫? なんだったら私が持とうか?」
「いえ、重くもないですし、機動性は確保できていますので大丈夫です」
きっぱり告げるロキにアリスは不安げな目を向ける。彼女が気遣ったのは重いからなどではなく、その左腕を気にしたからだった。
あの一件があり、戻る時にロキの血まみれの腕を一度洗い流したのだ。
そこには確かに浅く細かい傷があった。しかし、その傷だけでは彼女の腕を染め上げるほどではなく、多くの血を流せるはずもない。だが、現にロキの腕はかさぶたのような血の塊が覆っていた。
とはいえ、問題はそこではない。
洗い流している時、そのほっそりとした腕の皮膚に克明にそれは姿を現した。
白くきめ細かな肌には到底似つかわしくない、黒い模様。
それを見た時のロキの表情は、驚愕と同時に一連の出来事に理屈をつけたような不思議なものだった。彼女にはきっとそれが何であるか予想できているような気がした。
が、アリスはロキにそのことを誰にも言わないで欲しい、とそう口止めされていた。ただならない事態に一先ずアリスは頷くほかなかったが、心配は心配だ。何故ならば、その模様はとある文字のようでもあったからだ。
魔法師ならば必ず目にする。そう、その形はどこか【失われた文字】を思い起こさせるものだった。
その後、二人は小川を上流に向かって上り、道中ロキは慎重に探知魔法を行使しながら歩を進めた。
元々この小川周辺には魔物が寄らないだろうとアルスとロキで結論付けていたが、それでも彼女の足運びは慎重と言わざるを得ないものだった。
走ろうと思えば、多少足場は不安定だが問題ないはずだ。アリスもそれぐらいには回復していた。体内の魔力を掻き乱されるとはいっても、それは雨に触れたからだ。今思えば凝縮したような短期的な風邪を味わった気分に近い。それ以上のことと言えば、あまり覚えていないのが実情だ。ただ苦しむだけで、そこに抵抗しようとする力は意識的というよりも、本能的に近く、抗う術などないような気さえする。
そしてアリスはロキの後ろを歩きながら小さくため息をついた。
ふと酸っぱいような匂いを嗅ぎ取ったためでもある。昨晩から身体を洗うこともできず、それに加えて先程の出来事だ。生乾きの洗濯物のように全身がジメジメしていた。
多分それは前を歩くロキも同じなのだが、彼女からはそういった匂いはしなさそうだ。
――うぅ~もうどこかどれだけ濡れてるのか、わからないよぉ。
全身をひんやりとした空気が常に纏わりついているような気分だった。自分でも信じられないほど汗を掻いたのは事実である。
少しでも身体を流したい、と強く言えなかったことを今になって後悔し始めていた。
隣で心地よさそうに流れる川はアリスにとって恨めしい対象でもある。今ならば水温の低さなど差して気にしない程度には有り難い、恵みなのだが。
本音をいえば有り難いような、しかし、それを許さない状況や自分がどことなく情けない。
自分の状態を確認した時に、ロキの腕ももう一度綺麗に洗って、ついでに身体も洗い流さない、と訊いてみたのだが、せめてアルス達を見つけてから、という返答にあえなく撃沈していた。
その声はもう一度腕を見られることを嫌うかのようにアリスには聞こえた。
いつの間にかアリスはロキの隣に移動していた。
これと言って意味があるわけではないのだが、やはり先程のこともあり疑問は尽きない。
「あの雨ってなんだったんだろ? ロキちゃんは見た? 地面は一切濡れてなかったよ」
「私にも詳しい説明はできないですが、自然現象ではないのは間違いないですね。外界では極稀に怪雨と呼ばれる奇妙な雨が降ります。その大半は魔物の魔力による作用だったり、膨大な魔力残滓がもたらす影響とも言われています。ただ、今回のはおそらくあの魔物の仕業でしょうね」
「あの?」
即座に聞き返したアリスにはロキが示す魔物の正体に心当たりがなかった。それもそのはずで、あの状況下でアリスにそんな余裕などあるはずもない。
「アルと合流したら改めて言いますが、近くに魔物がいたことは間違いありません。私のせいでもあるのですが、正直見つかっていたら死んでいたでしょう」
「でも、見つからなかった」
間を置かずアリスはロキへと小さく微笑を浮かべて事も無げに言う。
「誰のせいとかじゃなくて、そういう覚悟ぐらいは私だってあるよ。びっくりはしたけどね」
健気に強がってはみても、アリスは第三者による魔力の圧迫がどういうレベルのものなのか予想することはできた。昨日戦ったBレートなど比べるまでもない、それがわかっただけでもロキの台詞は単なる事実に過ぎないのだ。
アリスが初めて体験した膨大な魔力の奔流。おそらくそれは人類を殺し得ると感じさせるものだった。自分が暮らしていた生存圏内で感じる魔力とは質も量も異なる。もっといえば人の身では決して到達できない程の量に違いなかった。
まさに生物としての器の違い。持てる武器の違いみたいなものだ。あの魔力を感じれば、自分達が有している魔力や組み上げる魔法が水鉄砲のようなものだと理解させられる。
アリスの背中に担いだ金槍も今は少しだけ頼りなく感じられた。いや、それはアリスに限らず外界という場所に赴く者全員に共通するのだろう。奇しくもあえて口に出さずいたロキの心境に近いものをアリスもまた抱いていた。
でも、とアリスは遠く妙に澄み渡った青空を見据えた。人類の至宝と言われる者たちならば、そしてその頂点に君臨する彼ならばと。
何よりもすでに屈しかけた心が彼の顔を思い浮かべるだけで、奮起したように前を向き始めていた。
――まだ、まだ足らない。先は長いけど、心も経験も何もかもが足らない、けれど……。
それでも諦めるわけにはいかない。何故ならば、完全にアリスの心が折れたわけではないからだ。あの死を連想させる訓練が彼女に耐性をつけてくれたのかもしれない。
アリスの隣ではムスッとした顔で返答に困っているロキがいた。彼女が口を開きかけたのは、アリスが唐突にクスリと笑みを溢したからだった。
「死に目にあったというのに良く笑えますね」
「え、ごめんね。たぶんアルとの訓練の成果なのかもしれない、かな?」
初めての経験ではあっても、死線を越える感覚はやはり直前までアルスの冷徹無慈悲な訓練のおかげだ。心の立ち直りは思いの外早い、というよりもその死に目があまりにも無自覚の内に起きていたためだろう。
おそらく一人だったならば、こうして歩くことすらままならず、今もあの洞窟で膝を抱えていたに違いないのだ。
「今回のことに関しては私もアルも考えが至らなかったのかもしれません。でも――」
「それが外界でしょ?」
わかった風、ではなく、予想した言葉を代わりにアリスが継いだ。
周囲を警戒しながらもロキは、そんなアリスにどこか呆れたように「そういうことです」とだけ返してきた。もちろん、それだけで片付けられる問題ではないのだが。
言葉を切ったロキは唐突に立ち止まり、意識を集中し始める。
「――! いました。分断した場合の集合地の更に奥ですね」
集合地として候補に挙げていた場所の三番目に当たる付近だろう。
「本当!?」
「はい、ちょっとテスフィアさんの魔力は探知できないですが、アルのならはっきりとわかります」
その探知結果はアリスに不安の色を浮かべさせるが。
「大丈夫です。探知できない、とは言っても外界で常時魔力を放出している方が不自然ですので。ただ意識的に魔力を押し留めていたり、寝ていたりする場合は比較的魔力は無意識の内に抑えられるものです。もしくは気絶しているか、ですけど」
「気絶ッ!」
「いえ、もしもの場合です」
無論、すでに死んでいる場合も含まれる。ただ、アルス程の魔法師がこれだけ明確に魔力を放出しているというのはただごとではない。
気持ち急かされるように足早になる。
「アリスさん、距離が予想以上に離れているので少し急ぎましょう。気になることもありますので」
「うん。私は走れるよ」
小川に沿って二人は不安定な足場で器用に駆けた。ロキもアリスも心的疲労はあるものの、肉体的には十分回復できているのだ。
そして距離が縮まる度にロキは細かく探知を繰り返した。同時に周囲に魔物が少ないことも確認済みである。ただ、アルスがいるとされる場所は傍まで来てもその正確な場所は中々特定できなかった。
何と言ってもそこは落石の跡が多く、人を隠せる程の巨石が散らばっていたためだ。
狭く薄暗い。足場は巨石がぶつかった破片が不規則に敷き詰められており、転べばガラスで切ったような傷ができるだろう。
それほどまでに鋭利な破片が散見された。
そして二人が迷路のような岩の隙間を進み続けて、ようやく辿り着いた場所は隠れ家としてはピッタリな洞穴だった。狭いながらも天然の休息地である。
その入口には二人と同じローブが風を凌ぐために掛けられている。
ロキは顔色を明るいものへと一瞬の内に変化させて、勢い良く仕切りのローブに手をかけた。
「アル、一体昨晩は何が――!!」
薄暗いながらもローブを取り除いたために採光が内部を照らし出した。そしてロキは呆気に取られて言葉を喪失させた。
大きく見開いた目は彼女に予想外の物を突きつけた。
そこには一つのローブに包まった二人の男女――アルスとテスフィアの姿があった。
小さく身体を丸めてアルスにひっつくように眠る赤毛の少女。彼女の肩は本来露出するはずがなく衣類で包まれているはずだったが、今は白く艶めかしい肌が日光を反射していた。
そして当然、隣で眠っているアルスは、確認するまでもなく上半裸であることは確定している。ローブでは隠れ切れていない足がロキに嫌な想像を膨らませていた。
見回す必要などなく、この場には枝や突き出た壁面に掛けられた衣類が、眠っている二人の状態を明らかにしている。
アルスのズボンや上着、そういった諸々は今彼の身体から離れた位置にある。そして上手く隠したつもりかは知らないが、テスフィアの上着の内側から下着だろう一部が覗いていた。
程なくしてアリスも内部を窺い見るように顔を出す。
そして「あれれ?」と思考がショートしたような声を上げた。状況の整理ができないのはアリスだけではなく、寧ろアリス以上にロキは口をパクパクさせて膝をついた。
「ん、何? もう朝?」陽の光に目を細めてテスフィアが起き上がろうとした直後。
「ななななな、ま、まさか子作りですかッ!!!」
狭い洞窟内部にロキの悲痛な叫びが響いたのであった。




