舞い降りる害悪
硬い地面の上で、アリスは瞼を透かす陽光に眩しさを感じ、顔を逸しながら目を開けた。意識が次第に覚醒すると同時にアリスは改めて身体を小刻みに震えさせた。保温性の高いローブで体を包んでいても、隙間から入り込む冷気には抗いようもない。
ツンと鼻の奥を突き刺すような空気は意識を明瞭にしていく。
そこで初めてアリスは気がついたのだ、焚き火の火が完全に消えていることに。
加えて、陽も顔を出して少し経った頃だ。番を交代すると言っておきながら熟睡してしまったのだろう。
「ごめんね、ロキちゃん」
目を擦りながらアリスは上体を起こした。
しかし、返ってくるはずの返事はなく、針のような風だけが吹き付けてくる。
「ロキちゃん?」呆然と呟かれた声が虚しく響いた。顔を慌てて振り、周囲を見回しても彼女の姿を認めることはできない。まるで母親と離れ、迷子になった子供のような心細さが一気に込み上げてくる。
ハッと立ち上がり、すぐさま洞窟から出て、更に視界の範囲を拡大させても同じことだった。
小川の周囲に限らず、濃い霧が白く辺りの景色を覆い隠していた。雲が地上まで降りてきたような、昨日とは違った光景が目の前に広がっている。
その頃には焦燥感は自己嫌悪へと変わっていた。
なんとなく、そう薄っすらと予感はしていたのだ。ロキは納得してくれたはずだったが、それは自分を安心させるための嘘だったのだ。
――どうしてッ!?
居ても立ってもいられない、が何をすべきなのかアリスにはまるでわからなかった。
どこへ向かうこともできず、朝という経過した時間の長さだけが悪い予感を抱かせる。
特にどこを目指したわけでもないが、アリスはポツポツと小川に沿って歩き出した。無闇矢鱈と出歩くのは良くないとわかってはいるのだが、じっとしていることなどできるはずもなかった。
だが、その直後。
川幅が広くなった先で、人影を見つけることができた。
霧のせいですぐには気づけなかったが、それがロキであるということはシルエットだけでもわかる。
彼女はアリスの存在に気づかないまま、どこか呆然と遠方の空を見上げていた。この切り立った崖を透かすようにじっと何かを見据えていたのだ。
「ロキちゃん、どこに行ってたの? 心配したよぉ~」
「…………」
一気に安堵が溢れ、いっそその場でしゃがみこんでしまうほどアリスは肩を撫で下ろした。
小石を踏み鳴らしてアリスは彼女がいったい何に目を奪われているのか、確認するように視線の後を追う。だが、やはり見えるのは急勾配の断崖だけだった。
気になるものなど、何一つない。
疑問に思いながらもアリスは小川の反対側にいるロキの後ろに回った。こちら側の地面には湿った枝などが転がっており、おそらく彼女は切らした枝を集めに行っていたのだろう、とアリスは思う。
これまで考えた不吉なことはすべて洗い流された。
「薪木を集めに行くんだったら起こしてよぉ。まぁ、ぐっすり寝ちゃってたんだけど」
へへへっと調子良くアリスは頬を掻きながら自虐の笑みで誤魔化す。それはもしかすると会話するための雰囲気作りのようなもので、ともすれば直前まで抱いていた不安の栄養剤として話を振ったのかもしれない。
今も蟠るようにしてアリスの中で不安が居座っているのだ。
「…………起こすのも悪いと思ったので」
突然、発せられたロキの言葉が、先程の返事であることにアリスは一瞬遅れて気づいた。少し間があったからというだけではなく、彼女の声は空返事だったからだ。
こちらに顔を見せず、じっと顎を上げて一方向を見たまま。
そっけない態度というよりも、どこか異常を感じる姿だった。
ここが外界だから、というだけではないだろう。普段見るロキはあまり感情を表に出さないまでも、そこに見え隠れするのは紛れもなく人間味ある感情なのだから。
人形のように見えても、人形であるはずがない。
しかし、今は……。
今はまるで人形のようで、それがアリスの不安を増長させていく。会話がこれほど無味乾燥に思えたのは初めてのことだった。
そしてやっと、その声にロキを意識できたのはアリスが「薪木は私が持つから、今は帰ろう」と言った直後のことだ。
「アリスさん、昨晩少しだけ空けて、様子を見に行ってきたんです……夜会の」
「――!! へぇー、もぉあれだけ言ったのに。こ、これはじっくりお話を聞かなきゃね」
驚愕を押し殺して、予感が的中したことも押し殺して、精一杯に明るく努めた。なぜならば、今ここにロキがいることこそが重要なのだから。
説教の一つでもしてやりたい気持ちもあるが、不思議とそんな気分にはなれない。目覚めた時にロキがいなかったことで、アリスは嘘を吐かれた、という以前に寂しさを感じたからだ。
「行かなければよかった。アリスさんの言う通りに……いえ、違いますね。戻ってこなければよかったんです」
一度視線を下げてロキは独白する。そしてもう一度霧で隠れた空を仰ぎ見た。湿気を吸ってもなお、髪の揺らめきは軽やかで、霧の中で彼女の髪は朝露のような透明感を持ち、光って見える。
やっとのことでロキは岩の上で反転した。
「――!!」
そこで斜め後ろからの姿しか見ていなかったアリスは初めて気づく。ロキは夜会の調査に向かったと言っていたが、まったく変わりない姿で帰ってきたと勘違いしていたのだ。事実、彼女の一部分だけを除いて、ローブや中の服までも綺麗なものだった。
だが、その一部分は昨晩の彼女と大きく異なる。
左腕の袖は肩口から弾け飛び、露わになった真っ白いはずの肌は、二の腕から赤黒く変色していた。それを彼女は痛みはとうに引いたとでも言いたげに持ち上げて見せたのだ。
軽やかな跳躍で、小川を越え、アリスのところにロキは降り立つ。
ロキの左腕を間近で見れば、それは乾いた血が腕を染め上げていることに気づく。見た限りでは指一本動かせないほどの重症で、血は余すことなく腕に纏わりついていた。
絶句するアリスの目の前でロキは申し訳なさそうに腕を下ろした。その動作は確かにロキに痛みを与えていないようにも見える。
「す、すぐに治療をしよ!! ま、まずは何からすれば……そ、そうまず洗って患部を」
触れることすら躊躇うアリスに。
「アリスさん、傷自体はかなり浅いので大丈夫です。それよりも今は――」
膝を曲げてロキの腕の状態を確認するアリスの目の前で、まさにゾッとしたといった具合でロキは身体を強張らせた。
その様子を見上げた直後、アリスは腕に冷たい感触を覚え、意識を向ける。
「こんな時に雨なんて……雨……?」
腕に落ちた水滴からアリスはそう判断したのだが、雨が降るには霧は濃くとも少々天候が良すぎる。霧はあれど、雲は見当たらないのだ。
それにロキも気づき、真上を見上げる。
「怪雨……ハッ――なんで気づいた。いや、これは!! いけないアリスさん、この雨に触れないで!」
「えッ! そんなこと言っても――!」
ロキは即座にアリスの手を取って木の下へと飛び込んだ。そしてローブを広げて雨を凌ぐようにアリスごと覆い被せる。
何が起きているのか、アリスには理解できない。ただ、仰向けで押し倒され、自分の上で重なるように必死に二人の全身を隠すロキの表情は、尋常ならざる事態であると告げていた。
気づかなかったが、彼女は小さく小刻みに震えていたのだ。上手く呼吸もままならないほど、白い息を細く何度も吐いていた。
「アリスさん、ごめんなさい。自ら招いたことですが、堪えてください」
「うん。よくわからないけど。言う通りにする」
「これから酷いことが起きます。たぶん経験したことがないものです。ですがしっかりと自分を保って魔力を抑えつけて」
ロキの顔は指示を出すと同時に、何度も謝っているようにアリスには見えた。
続いて「こんなことになるなんて」と呪詛のようにロキは呟いたのだ。
そんなロキを前に事態を把握できないまでも、アリスは穏やかな表情で彼女の頬に両手を添えることができた。
「大丈夫だよ。ロキちゃんがいるもの、何が来たって……」
すべてを言い終える前にアリスは理解する――彼女が何に怯えていたのかを。
最初は、そう……角笛のような空気が震えるような異音だった。それは一定の音調でありながらも不規則に鳴り響いた。遠くから近づいてくるのではなく、その音は突然、頭上から降ってきたのだ。通り雨が一帯に激しく降り注ぐかのように、耳慣れない音が怪雨とともに落ちてくる。
アリスの喉が止まる、呼吸するための方法を忘れてしまったかのようだった。
この音がなんなのか、それは音という変化はあってもその根源にあるのは想像を絶する魔力だ。そして微かに頭上、木の上を巨大な何かが蠕動するような音も混じっていた。およそ人の営みの中で耳にすることはないだろう異音。
底も見えぬ穴から聞こえてきそうな、低い音であった。ふとすればその音は大地や空気といった超自然的なものの鳴き声のように聞こえてくる。そこには間違いなく生存圏内はおろか、外界ですら聴くことのない奇っ怪な音階も含まれている。
徐々に耳元で発せられるロキの声が遠のく。彼女は何かアリスに訴えかけているような必死さが目に映る。その様子は到底アリスに気遣う余裕がないほど、血の気の引いた顔だった。突如として身体の全神経が途絶えてしまったような、不思議な感覚に見舞われる。痛みはない、ただ身体が外側に向かって引っ張られている気配が段々と強まっていくのだ。
そんな中で、ロキが必死に意識を保つように、呼びかけている気がするのだ。
アリスは身体が内側からバラバラになりそうな感覚に見舞われた。直接的な痛みはないが、それは心底恐ろしいことなのだと理解できる。体内の魔力は身体を突き破って出ていこうとするかのように混乱していた。
その発生源は焼印でも押されたような熱を持つ、腕であった。そう、雨に触れた箇所である。
喉から掠れる悲鳴が小さく漏れ、アリスの身体はビクッと仰け反る。
その身体をロキは両腕を使い、全力で押さえつけた。
「アリスさん! アリスさん……」
毒を盛られたようにアリスは不自然に身を捩ったりとのた打ち回った。誰かが操っているかの如く、彼女の意思に反して。
それでも確かにアリスは意識を繋ぎ止めていた。ロキの服を掴む手は汗ばみ、目一杯堪えるように力が込められている。彼女は必死に抗っていた。
自らの身体を内側からバラバラにしてしまいそうほど、荒れ狂った魔力を抑えつけていたのだ。
アリスを押さえつけながらロキはその膨大な魔力を降り注がせる源へと振り返った。
そこには霧の上で這うようして浮く、黒い影が目の端に映る。どこまで続いているのか、その影は巨大な蛇の形をしていた。




