不測の事態につき
◇ ◇ ◇
きっとこれを真っ暗闇というのだろう。
穴底のような深い闇というわけではないが、薄っすらと影のような暗さが色づくもののことごとくを侵している。
見上げれば、たまに顔を出す月の明かりはあらぬ方向に降り注いでおり、この谷川を照らすことはないように感じられた。それも屋根のように伸びた枝葉が上手く隠してしまっているからだ。
今、ロキとアリスはじっと休息地内で二人の帰りを待っているところだった。
気の利いた会話は不思議と交わされることなく、刻々と時間だけが過ぎていく。
どれほど経ったのか、正確にはロキにもわからなかった。ただ、時間の経過をやり過ごすような会話は二人の間にはない。だというのに、外界が暗転するその瞬間を意識することはなかった。
ロキには瞼を閉じた一瞬の隙に、世界が闇に呑まれていたように感じられた。
それも無理からぬことなのかもしれない。闇とは認識の合間をすり抜けるようにして飲み込むのだ。そこに疑念が浮かばないのは幾度となく体験しているからなのだろう。
夜とは、そういうものなのだと。
しかし、この外界の暗色は生存圏内しか知らない者にとっては、不安に駆られる類いのものだった。
特にこんな月が隠れてしまった晩は尚更だ。
数メートル先で、誰かが手招きしていようとも気づくことはおろか、目視ならば気配すら察知できないかもしれない。
外界の闇とはそういう類いの闇なのだ。そこにどんな不安や恐怖をも具象化させてしまうような、不定形の毒――神経を蝕む毒に他ならない。
「焚き火なんてして大丈夫かな」
ふと、アリスはローブに包まってぼんやりと火を眺めながら口を開いた。
「本来であれば火は熾さない方が良いのですが、これから更に冷え込みは厳しくなりますし、ちゃんとその辺りも考えて休息地を選んでますよ」
「そっか、そうだよね」
自ら訊いたにも関わらずアリスの相槌はどこか力なく萎む。
これが間を繋ぐための会話であるのは確かだった。しかし、それと同時に肝心な話題に中々切り出せないのも事実だ。
そんなアリスの不安を察してか、ロキは視線を落として、すぐそこまで迫った闇へと一度だけ目を向ける。
「アリスさん、あまり深く考えないで欲しいのですが」
「……うん」
「アルは部隊での活動経験がほとんどありません。無論、知識は誰よりも豊富なのですが、それを人に伝えるには……アルはたぶん、最善の方法だと信じきれていないのだと思います」
要領を得ないロキの会話は昔を――アルスの過去を掘り返すように紡がれていたためだ。
「アルは昔一度だけ部隊に属していた時期があります」
「――!! そっか、そうだよね」
本来ならばそれが当たり前のことだと知っていても、アリスには彼がずっと一人で戦っていた、という思い込みがあった。彼女が知っているアルスは最初から1位だったのだから。
「ですが、その部隊も大侵攻のおり、壊滅的死者を出しました。後にも先にも、アルが部隊に所属したのはその一度きりです。ですから今回はアルも手探りな部分があったのかもしれませんし、思わずハードルが上がってしまったのかもしれません。ですが、私が見たところ初陣にしては上々かと思いますよ」
少なくともBレートの討伐を成し遂げただけでも、外界に出た成果としては十分である。
「気を失っちゃった私が言うのもあれなんだけど、ありがとう」
「あくまでも初めてにしては、という意味です」
焚き火のオレンジの光を浴びた顔でロキはアリスから視線を逸らす。
状況によっては隊員は課せられた命令に対して正確な分析が必要とされる。それは無論勝ち負けに関しても同様だ。今回はアルスが隊長というポジションにあるが、彼の下す命令や指示を絶対視する必要などないのだ。
できないならばそう進言しなければならない。それを言わないために役割を果たせないというのは隊全体に影響を及ぼすのだ。「頑張る」や「何としても」といった意気込みを言われたところで役にも立つまい。
各人は命令を確実に遂行しなければならない。その可能性が半分を切れば隊長に再度指示を仰ぎ、作戦の練り直しを要求することができる。
きっとこれが健全な隊の機能性というものだろう。少なくともアルスはそう考えているはずだ。
それについてロキがアリスに教えてあげることはできない。それはアルスの役目であり、責任なのだから。
しかし――とロキは意識を現実に戻して、気掛かりな現状に思考を割いた。
「それにしても、さすがに遅すぎますね」
「そうだねぇ、フィアがだいぶ離れちゃったとかかな?」
「それはないでしょう。私の探知でも十分確認できる距離でしたし、アルも気づいている様子でしたから……」
そこでロキは難しい顔で手を口元に当てて考え始めた。
多少の誤差、というか、外界において少しでも遅いと感じたら、予期しない悪いことが起きている場合が多い。
「ロキちゃん? もしかしたらフィアと言い争ってるとか、それとも迷ったとか?」
「そんな頓珍漢なことであったなら良いのですが、ここでは常に最悪の事態を想定する必要があります。そもそもフィアさん絡みだったら担いででも連れて帰って来るでしょう。アルに限って迷ったというのは……」
ありえない、と口を開きかけてロキは一瞬口籠る。
本来ならばそんなことは決してありえない。しかし、迎えに行く直前のアルスは明らかな不調を訴えていた。発汗に加えて熱を持った身体。
あの程度動いただけではアルスはまず汗をかかないはずだ。加えて魔法の使用も……そこで思考までもが途切れる。
「【暴食なる捕食者】アルの様子が変だったのはその影響かも……」
独白するようにロキは目を見開いて嫌な予感を払拭せずにはいられなかった。アルスの異能についてはロキもしっかりと頭に叩き込んでいる。
アルスの体調が崩れ始めたのは【暴食なる捕食者】の使用直後のはずだ。
「アリスさん、少し状況が変わっ!?」
「どうしたの?」
ロキのその豹変はあまりにも唐突な切り替わりであった。難しい表情を維持したまま、更に険しく眉間に皺が寄ったかと思うと彼女は顔ごと視線を外へと向けた。
それに釣られるようにアリスもロキに倣って覗き込むように顔を出す。
「なんだろ、あれ。近くに他の魔法師が来てるのかな?」
「…………」
その可能性は限りなくゼロに近いことをロキは知っている。外界の、それもこんな夜更けに明かりを灯しながら徘徊するなんてことはありえない。しかも、これだけの数が出払っていれば事前に報告しておくのが普通だ。
ならば――。
「【闇夜の徘徊者】!!」
「もしかして魔物?」
すぐ隣でコクリと頷くロキを見て、さすがのアリスも表情を強張らせた。
「場所的にはこちらに向かってくるとは考えづらいですが、アリスさん」
「は、はい!」
「ここからは極力魔力を押し留めてください。出来る限り魔力の放出を抑えるんです。あれは魔力情報を読み取って追跡する魔物です。おそらくアルは【闇夜の徘徊者】の存在に気付いたからこそ、戻ることができないのだと思います」
「すごくやばい奴なんだね」
「えぇ、私も初めて見ました。正直いってそうそう遭遇する魔物ではないんですが、どうやらここは別なようです」
アルファの討伐範囲内であれば地形から魔物の種類まで、予想することができる知った場所だ。
だが、ハイドランジともなれば外界という場所は、その性質さえもガラリと変化させる。
「距離も距離ですし、過剰に魔力を放出しない限りは問題ないでしょう。魔力を感知するだけであって、焚き火などはそのままで大丈夫です。ただ、そうなると少し困りましたね」
少し考えてからロキはポーチから魔力結晶を取り出し、万が一に備えてこの辺りに自然漏洩した魔力を散らしておく。
本来ならばとっくに帰還の途に就いていなければならない頃合いだった。無論、最悪の事態も想定してバラバラになった場合の集合地点も決めているのだが。
「今のアルの状態ではフィアさんを連れて任務は難しいはず……」
アリスの直ぐ側でロキはこの後の方針を思案する。部隊としての隊長を欠いた場合の次の指揮権は今、ロキにあった。
ロキが口にする内容にアリスはすかさず口を挟んだ。
「ま、待って! 何を考えてるのかわからないけど、まずはロキちゃんの探知でアル達を見つけるというのは?」
「それができたら手段はあったのですけどね。アルが出ていってからすぐに反応はロストしていますし、あれがいる中で探知ソナーを飛ばすのはこちらの場所を教えてあげるようなものです」
ほっそりとした顎で示したのは、暗闇に広がる明かりの群れであった。
今では行列を作り、まるで一点を目指しているかのように思えた。間違っても徘徊者などではない。
その後、ロキは一人で「【闇夜の徘徊者】が徘徊している間は他の魔物は姿を隠すはず……魔力の漏洩さえ気をつければ……」
「ちょ、ちょっと待って!! 何をしようとしてるの」
「ここなら大丈夫ですよ。少なくとも朝までは間違いなく安全ですから」
いつもとは違い、血相を変えたアリスに向けられたのは安心させるための作られた笑顔だった。
「ダメだよ」
「アリスさん、少しの間だけです、何時間も一人になんてさせませんから」
すでに議論の余地がないのか、ロキは説得のための言葉を口にしていた。
しかし、アリスは頭の傷も構わず顔を左右に振る。
「ロキちゃん、一人でなんて行かせられない!!」
「ですが、アリスさんは傷もありますし、魔力操作も不十分なので連れて行くことはできないのですけど」
「うん、それはわかってる。それでもロキちゃんを一人で行かせることはできないよ」
「ですが、私はこれまでも任務でこういったことは何度か経験があります」
「違うよ。たぶん違う。そういうんじゃなくて上手く言えないんだけど、アルなら絶対に行かせない気がするの」
アルスの名前はロキに一考の余地を生む。
「なんでそう思うんですか?」
しかし、すぐにはアリスから回答を得ることができなかった。
実際に嫌な予感という程の説得力は現時点で存在している。ロキが得意とする探知を封じられた状態、そしてこの不自然な魔物との遭遇、そのどれもが不吉の兆候であるように感じられなくもないのだ。
ましてや今回は【夜会】という得体の知れない現象についての調査なのだから。
 




