最悪の遭遇戦
【名もなき無存在】は比較的【闇夜の徘徊者】に似た体躯を有した魔物だ。縄のように蔓で編まれた肢体は人型の形を取っているだけだった。
まるで藁人形のような模倣しただけの形。
胴体やいたるところの部位は軟性的であり、顔に至っては木にできる洞を彷彿とさせる。砂を手で掘ったような穴を顔面に空けて、闇を宿していた。
――運が悪いが、幸いというべきか。
過去の報告事例は二回。その僅かな間に判明した特性は大きなアドバンテージになる。
「変異体だ。Sレートだが、二人いればこいつのレートは一先ずAまで落ちる。相手は俺がする……お前がやるべきは、絶対にこいつから目を逸らさないことだ……絶対にな」
「う、うん……」
レートが変動するということに要領を得ないまでも、刀を引き抜きながらテスフィアはじりじりと後退する。その不気味な体躯を持つ魔物を視界に収めているが、果たして見ているということがこれほど不安になることもない。
それはあまりにも存在として不安定なように彼女には見えた。これほどの巨体を見失うはずはないと思うが、魂が抜けたようにだらりと腕を垂らした姿は、とてつもなく影が薄く見えた。
その希薄さは、視界の中にいるのに見失いそうになるのだ。
目を一つ擦ってテスフィアは再度鋭く睨みつけた。
が、瞬き程度の一瞬だったというのにその化物の姿を見咎めることができなかった。
「えっ!?」
突然の出来事にテスフィアは焦ったように視線を振った。が、そこには魔物はおろか、アルスの姿すら認めることができなかった。
すでに戦闘は始まっていた。それもテスフィアの背後で。
彼女が目を擦ったその隙は、この魔物を相手に致命的である。まさに一瞬、そう形容できる程【名もなき無存在】はテスフィアの背後に出現していた。
――この暗闇じゃ!?
テスフィアの背後でしなる巨腕を振り下ろす【名もなき無存在】。その横合いから後を追ったアルスがAWRを引き抜き一閃。
刃に宿る高密度の魔力は【次元断層】を発現させていた――が。
予想していた通り、全てを断ち切る刃は【名もなき無存在】の身体に触れることなく、空を切った。霧のように姿を晦ましたわけではなく、存在自体が完全に消え失せたのだ。
これが無存在と言わしめる特性である。
その存在は曖昧にして希薄。他者を認識する上で「見る」という行為は、それだけで存在を定義し得るものだ。自分にも相手にも多くの情報が発生する。それ故に存在が空間に定着する。
アルスは即座にテスフィアの背に自分の背を合わせる。
「え! な、何」
「【名もなき無存在】は二人以上で視認しなければ捉えることができないんだ。幸いにも二人いるから安心していたが、油断した」
そして【名もなき無存在】の場合、その定着を確定するために最低二人以上で魔物の姿を視認しなければならない。
でなければ、【名もなき無存在】はそこに存在しないことになる。
情報を定着させる最低条件は二人ということだ。でなければ【名もなき無存在】を捉えることはできない。その間に【名もなき無存在】は自由自在に空間を渡り歩くことができてしまう。
そして【名もなき無存在】は見られることを極端に嫌う。それが本能的なのかは分からないが、弱点であると知っているのだろう。
だから一度視界から外すと再度捉えるのは困難になるのだ。人間の二つの目では視界に限界があり、必ず【名もなき無存在】はその死角を狙う。
完全に視界から消え失せた【名もなき無存在】を今は見つけることができなかった。
「捉えることさえできれば、それほど難しい敵じゃないんだが、一度見失うとかなり面倒な敵だな。いいか……!!」
続く言葉を紡ぐ前に突如アルスの背中がテスフィアから離れる。それは温もりが離れていったというよりも突然なくなったような……。
「私は何をすればいいの!」
不安が心を縛る。不吉な暗闇の中でテスフィアは刀に魔力を流し込み、必死に敵を探す。
何かが起きているということは彼女にもわかった。
しかし、それはあまりに速く、そして動いているわけでもないため、テスフィアには捉えることができない。魔物とアルスが戦っている、ということだけはわかるのだ。
彼のAWRが魔物を捉えるような音は、時折鈍い音も発した。
攻防が一帯で行われているのに、テスフィアはそれを視認することができなかった。
アルスにしても敵を倒すためには決定打を与えられない状況にあった。そこに存在するという情報が希薄なせいで、すぐさま消えてしまう。
これは転移門などと同じ原理だ。
もっといえば……。
――【2点間情報相互移転】以上だな。存在を移動させる以前に存在自体を定着させないという意味では手の出しようもない。
だが、まったく打つ手がないわけでもなかった。確実に攻撃するためには物理的な情報が加算されるため、その瞬間は実体を有することになる。つまりは攻撃があたる瞬間でもあるのだ。
だが、その一瞬では致命傷を避けられてしまう。
今も即座に魔物が移動した後を追って、アルスも追随する。だが、全力で駆けても空間を飛ぶノーフェイス相手では圧倒的に追いつけない状況である。
今、アルスが必死に追いすがっていられるのも、視覚に頼らず移動の痕跡――魔力情報の痕跡を追っているからに他ならなかった。
――ちっ、体が重い。
目まぐるしく魔力の痕跡を知覚しては、即座に移動を開始する。一々止まっていたのでは次に踏み出すための一歩が遅延に繋がる。
だが、確実にアルスの速度ではノーフェイスを追えなくなりつつあった。
疲労が蓄積されていくが、走り続ける分には本来ここまで消耗するはずもなかった。身体の芯が加熱されていくような、ともすれば思考する速度さえも鈍化しているようだった。
長年自分の身体一つで戦場に立っていたアルスには、肢体を動かす伝達に遅延が生じているのを機敏に感じ取れた。
身体の不調、その原因はわからないが、何かが内部で起きていることだけは確かだ――いや、その原因をアルスは理解している。しかし、それを解消する術が今はない。
――視認できていないフィアを狙うよな。
高速で移動するアルスは次の目標であろう、テスフィアにあたりを付けて、幹を勢いよく蹴り出す。
だが、その直後。
突如として空間内に出現するノーフェイスは、まさに蹴り出したアルスの背後であった。
腕を身体に巻き付けるほど振り被ったノーフェイスは、身体を捻りながら鞭のように弾く。それは音速にも匹敵するであろう高速の一太刀。
空中で体勢を整えるだけの余裕はなく、アルスが感覚で察知した頃にはすでに手遅れであった。
辛うじて身体に薄膜の防壁を纏うだけでも本来ならば称賛に値する高等技術である。
が、膨大な魔力とともに放たれた腕は射出するが如く、アルスを弾き飛ばす。
「グハッ!!」
地面に叩きつけられ、容赦なくバウンドする身体。その凄まじい衝撃に振り返ったのはテスフィアであった。
またも何が起こったのか、彼女にはわからない。ただその衝撃の強さは音以上に土埃を舞わせ、アルスが最後にぶつかった木を大きく揺らしていた。
視界も脳さえも揺れる中で、アルスは歯を食いしばる。口の中に広がる鉄の味は嘔吐感を呼び起こすが、意識だけは繋ぎ止めていた。裏をかかれたことに気づくのも遅れ、対処すべく発した魔法さえも僅かに遅れる。身体の不調が少しずつ歪みを生んだ結果がこの有様である。
体内の魔力がごちゃごちゃに掻き混ぜられた気分だ。いや、実際その通りだった。今、アルスの体内ではグラ・イーターが喰らい、吸収した魔力の殆どが置換されていなかったのだ。
プッと血を吐き出すが、そんな時間はすでになかった。
【名もなき無存在】はすでに空間を渡るのを止め、しなやかに腕をテスフィアへと差し向けていたのだ。それも中ほどから突如プツリと千切れた。注がれた魔力量もさることながら、その腕の一部は細く集束していき、もはや真っ黒な闇と同化した杭のようだった。
【縫杭】と呼ばれる情報固定の魔法に似ているが。
――闇系統か。
アル!? そう呼びかけるテスフィアは吹き飛ばされた先のアルスを視界に入れつつ、刀を構えて敵を探した。恐怖に打ち勝つなんて余裕はすでに彼女にはなく、ただただ敵の姿を探し、僅かな油断も見せず全神経を尖らせていた。
それでも先程からいくら探そうと、アルスの姿はおろか、魔物を捉えられることもできなかったのだ。先程の音が辛うじて、彼女に方向だけを示す。それでもこの暗闇では、時折姿を見せる月の明かりが届かないのだ。それほどまでにこの場所は木が空を塞いでしまっていた。
刹那――。
魔法の行使、その分かりやすいほど魔力が注がれた改変結果の予兆に、テスフィアは弾かれたように気づく。アルスが構築したものではないと判断できたのは、異様とも思える魔力の質によってだ。
首を振った時には、黒い何かが確かに見えていた。
それもそのはず、放たれたわけでもないその黒の杭は彼女が振り向いた時、すでに眼前に移動しており、その先端を突きつけていたのだ。
魔法さえも回避不可能なほど緻密な制御の下、それは空間を移動して放たれていた。発現後の座標の切り替え――魔法そのものを転移させたといえばいいのだろう。
瞬きすら許されず、その杭は眼球はおろか、いとも容易く脳髄を貫通していくかのように思われた。
それを黙って見ているはずもないアルス。彼の瞳、その眼球に一筋の靄が浮かび上がっていた。
――【2点間情報相互移転】。
一瞬の内にテスフィアとアルスの位置が入れ替わり、今度はアルスの目前、数mmにまでその杭は迫っていた。どの位置に放たれたのかさえわかってしまえば防ぐには十分な時間である。
アルスが出現した直後、杭は瞬く間に……喰われた。
実体なきグラ・イーターが杭を捕食するが、それと同時にアルスは首をひねった。杭は魔物の身体の一部で作られたため内部には実体として捩れた杭があり、それが頬を掠めていったのだ。
アルスの読み通り魔物が扱った魔法は【縫杭】であるのは間違いない。アルスの知る内容とは違い、内部に触媒となる物を含ませている。
魔法は魔法で対抗するのが定石である。しかし、その定石を崩す魔法というものも存在するのだ。それが【縫杭】である。
対攻性魔法として情報強度や魔力量に関わらず、接触したものの情報をその場に定着させてしまう。だが、魔物が使う魔法を完全な状態と指し示すならば、今放たれたそれはおそらく一度の接触に限らないだろう。
その効果を分析し、更に際限なく考えた場合に到達する最終形の魔法とは。
それは人間に触れても情報を定着させてしまう。つまり体内に流れる魔力情報が全て強制的に情報を追加されるということ。無論、手足はおろか、身体を動かすこともままならないだろう。
だからこそ、アルスは【暴食なる捕食者】でその魔法ごと吸収したのだ。
そして一息つく間もなく、アルスは鎖を引き、AWRを構えて駆け出す。
だが、その直後外界ではありえないほどの大声が響き渡った。夜は息を殺すように隠れ潜むべしとされる外界で、その少女は声を響かせた。
「アル、お願い私についてきて!!」




