魔力を押さえ込むもう一つの方法
口を塞がれながらもテスフィアは精神を集中する。
そこへ不意に発せられた小さな謝罪。
「少し赤いな。すまなかった」
頬に触れるアルスの手をはひどく冷たく、テスフィアの頬を冷ました。
塞がれた口では、何も言い返せなかったが、その時テスフィアは何も言い返す必要がないのだと少し呆れた目を向ける。
自分の身体から分かりやすいほど力が抜けていくのがわかった。たった一言、何も解決したわけでもなかったが、それでもテスフィアにとって安心する言葉だったのだろう。
今はそれで十分だった。
妙な緊張や強張りが抜けきった状態で、テスフィアは意識を集中する。体内を循環する魔力の流れに意識を向けた。
訓練の成果もあり、魔力を知覚することぐらいは容易にできた……のだが。
「おい、何してる」
「うっ……」
魔力を完全に押さえ込む、その魔力操作に注力しているテスフィアに向かって、アルスは小声の中に苛立ちを含ませて発した。まるで今の謝罪などなかったかのような口ぶりである。
魔力操作といってもこれは外界へ出るにあたって最低限修得しておきたい技術の代表格だ。が、その難易度も含めて、現代魔法師が不得手とする技術であることも確かである。
アルスはテスフィアの魔力の動きを見て小馬鹿にしたような調子で口を開いた。
「いい度胸だな。この数を相手にやる気があるのは結構だが、今は分が悪い」
彼女の魔力は手に取るようにアルスにはわかった。一言でいえば混迷しているのだ、留めようとする意思はあるが、それは表面的なものであり、魔力はその者の心や感情と密接な関係にある。つまり、今のテスフィアは内側の整理がまったくできていない状態。
アルスの腕を掴んで口元から離したテスフィアは小さく「そんなこと言ったってどうすればいいのか」と躊躇いがちに告げた。
あんなことがあった手前、彼女の心理状態は極めて不安定であり、それに加えて体外へと自然に漏れ出る魔力を留める方法を知らないのだ。単純に体内に留める行為は言葉で説明する以上に難しい。もっといえば魔力の操作ができるからといって放出される魔力を留められるとは限らない。
魔力は体内を巡る段階で体外へと漏れ出る。その要因は保有魔力容量を超過した場合や、情報の劣化といった避けられないものだ。
それを体内に押さえ込むというのは、いわば蓋をすることに等しい。これまで行ってきた魔力操作の次の段階にあたる技術だ。もっとも、現役の魔法師は魔力操作を怠る傾向に、体外放出を押さえる訓練へとステップを飛ばすため、かなりおざなりになっている。
端的にいえばアルスの要求は今のテスフィアには難題であり、そんな僅かな期待は最初からしていなかった。無論、魔法師としてできて欲しい一方で、どこか安心する気持ちもアルスにないこともなかった。
木片が押し潰されるような乾いた音は、すぐ背後にまで迫り、一刻の猶予もない。
目の端でそれを確認したアルスは強引に身体を密着させ、再度テスフィアの口を塞いだ。そして耳元に口を近づけ……。
「仕方ない荒療治だが、声だけは上げるなよ」
「ひっ……ちょ!?」
テスフィアの足の隙間にアルスの膝が差し込まれ、片手が彼女のローブの中へとスルリと分け入った。腰を引き寄せるように添えたかと思えば、もぞもぞと……。
直後、直に伝わるヒヤリとした感覚をテスフィアはお腹の辺りに感じた。冷気が入ってきたわけではなく、それは紛れもなく触られる感触。
「ん!? んんんんーー!!」
咄嗟に口を塞ぐアルスの腕を掴み抵抗するが、その力は弱々しくギュッと握り締めることしかできなかった。
必死に身じろぎするが、アルスは力強くテスフィアを幹に押さえつけた。口からの呼吸は難しい程に密閉されてしまい、辛うじて漏れたのは吐息だけだった。
じわりと寒さが肌をなぞるが、その一方で顔はすぐさま熱を持つ。冷たかったアルスの手もお腹から撫でるように上に上がってきた頃には人肌の温もりが宿っていた。
腰からお腹へと掌が肌の上を優しく這う。微かに押し込まれる手の圧は触診でも受けているようにお腹や脇腹を擦った。
薄い肌の上でアルスに覚られていく感覚。指は肋の位置を確認するように段々と這い上がってきた。
テスフィアは身体を捩って胸へと上ってくる手から逃れようと努めた。捲れる上着を気にする余裕はなく、その手は徐々に、そして確実に胸部へと上っていく。
つま先立ちで、顎を上げたテスフィアは口を塞がれながら必死に首を振り、アルスへと訴えかける。だが、彼女が見た光景は一瞬にして抵抗する力を抜くにたるものであった。木々の隙間から見える火の玉、それは紛れもなく魔物の接近を知らせるものだったからだ。
羞恥に染まった顔で、抵抗の意思を喪失させたテスフィアはアルスに身を委ねるように力を抜き、目を閉じる。
今、テスフィアの全神経はその指の動きに注がれていた。どう動き、どう上っていくのか。そしてどこに触れようとしているのかさえも目を閉じたことでより一層想像できてしまう。
「ん……あ……」くぐもった甘い吐息が自然と口から漏れ出て、塞がれたアルスの手を湿らせる。
「んん!?」
指先が胸の間を触れようかという直後……テスフィアは掴んでいた手を反射的に突っぱねた。すると微かに口を押さえていた手の間に隙間ができ。
「それはまだダメ……」
絞り出すように吐かれた羞恥心の塊のような言葉。その弱々しさはある意味で身体の力が抜けた今だからこそ出せる精一杯の抵抗。後戻りができない、やすやすと踏み越えてはいけない一線を感じ取ったがための反射的行動だった。
テスフィアは慌ててたくし上げられた服を元に戻す。
「ちッ!」
「――!?」
舌を打ったアルスの背後で、すぐ傍まで迫った蠢く人型のシルエットをテスフィアは見た。動く度に軋みを上げる肢体は病を患った枯れ木を思わせる。二メートルはあろうかという体躯、そこに顔というものは存在せず、不気味な木目だけが顔らしきものを作っているだけだった。
異様に長い腕の先には鳥籠のような木組みの籠をぶら下げ、こちらを照らすために持ち上げられた鳥籠内部の火の玉がアルスとテスフィアを闇から炙り出した。
「やっぱりこうなるのか」
呆れた声を発したアルスは背後を見もせず、テスフィアの頭を強引に押さえ込み、自らも頭を下げる。その直後、二人の首裏を重苦しい擦過音が通過し、無造作に振り払われた【闇夜の徘徊者】の腕が幹ごと木をへし折っていった。
それと同時に周囲にあった無数の明かりがピタリと止まる。まるでこちらを捉えたかのような不気味な停滞は、ゾワリと悪寒に変わって一帯を包み込んだ。
「ここまでだ」そう発したアルスはすぐさまテスフィアを抱え上げて、容赦なく魔法の行使に打って出た。
へし折れた幹を足場に跳躍する。その浮遊感の後、置き去りにした【闇夜の徘徊者】の身体がバキバキと割れだした。
すれ違いざまに直接魔物の体内に向けて発した【振格振動破】は均一に枯れ枝の身体を粉砕する。
「お前のせいだぞ」
「いやいや、あんなの突然されたら誰だって……」
モゴモゴと尻すぼみに濁したのは、思い出すだけでもテスフィアの顔は火を吹きそうだったからに他ならない。それでも暗がりでさえテスフィアの赤面を隠し切ることはできなかった。
アルスの意図を考えれば更に混乱する頭。どういうつもりだったのか、それを問おうと口を開きかけた時――。
「前に言っただろ。魔力は感情や心理状態と密接な関係にある。つまり羞恥や恥ずかしさは比較的魔力を内側に押さえ込む働きをするんだ……だが、まぁ予想通りといえば予想通りの結果にはなったな」
「予想してたんなら最初からしないでよ。本当に私が抵抗しなかったら……」
いったいどこまでされていたのか、それを想像しただけでテスフィアはそれ以上先を口にできなくなった。
「それよりもどうしよう。そもそも私のせいよね」
逃げ出した結果、夜に活発化するとされる魔物に見つかってしまったのだ。
「魔力を押さえ込めれば問題なかったんだがな」
「ごめん。まだ本調子じゃないけど、そんなこと言ってられないわよね。私も戦うから」
「殊勝な心がけだが、それは悪手だ。俺がやってもいいが、この辺りは焼け野原になる。それに他国に面する地じゃ、他に何が出てくるかもわからない」
テスフィアは両腕で抱えられながら背後を見る。明かりが一つの命令に従って追随してきているのは確かに見て取れた。だが、アルスの速度ならば距離を詰められることもないだろう。
自分でいった通り、テスフィアは回復しきっていない。この夜道を走る体力もなければ、これほど軽快に動けもしない。
それを理解してか、テスフィアは振り落とされないようにアルスの首に手を回してしがみついた。遠ざかるポツリとした明かり、そこでふと、心に引っ掛かった疑問をアルスに問うた。
「ねぇ、なんで怒ったの。私、それがわからないの」
「…………」
バツの悪い顔を浮かべたアルスを見て、テスフィアは疑問を強くする。
「いや、叩いたのは悪かった。すまん」
「本質はそこじゃないでしょ」
「本質ねー、こういう時には的確だな、お前は……」
少し間を置いてから、アルスは言いにくそうに口を開く。
「倒せる魔物とそうでない魔物がいる。実力や状況でそれらは変わってくるだろう。だから……」
「だから?」
「だから、少しでも苦戦しそうな時は遠慮なく頼れ……」
「何それ……私だって必死になって挽回しようと思ったのに」
「あえて挙げるならそれがダメなんだ。隊で動く時には個人の頑張りや努力ほど足を引っ張る。挽回なんてのは最悪だ。お前は一人かもしれんが、隊は全員で機能する。俺が言えた義理じゃないがな。その辺りも言わなかった俺に責任がある。ロキとアリスにも散々言われたしな」
ムッとするアルスの顔にさすがのテスフィアも呆れ顔を作る。寧ろ、戦術などのミスが彼を怒らせたのではなかっただけでもどこかホッとする自分を感じた。
そして責任はやはり自分にあるのだと、テスフィアは首を振る。
「ううん、力もない私の独りよがりだった。もっと早く自分の限界を認めてたらこんなことになっていなかったんだと思う。だから、ごめん」
「俺じゃなくロキとアリスにもちゃんと言え。今回ロキも相当無理をしたからな」
「うん。なんか気が楽になったら、頬が痛くなってきた」
「酷い返しだな。わかったよ。子供でもわかるように丁寧に教えてやる。それで文句はないだろ」
「棘を感じるけど…………うん、ありがとう」
「現金な奴だな」
「じゃあ、さっそくいい? なんでアリスとロキが休んでいる休息地から離れてるの」
核心をついた疑問は、状況の把握とアルスの行動に違和感を抱いたからだ。そこに自分では知り得ない情報を感じ取ったのだろう。
「【闇夜の徘徊者】は魔力を探知するからだ。以前出くわした時は、三日三晩追いかけ続けられた。しかも戦闘ともなると奴らは無差別に魔法を行使する。このまま休息地に帰れば包囲されるな。そのまま夜戦に入ると最悪散り散りになる」
「そんなことって」
「常識の埒外こそ、常識みたいなところだからな。とはいえ結構稀な魔物だ。レートはB。倒せない魔物じゃないがあの数だ。【闇夜の徘徊者】は昼間は決して姿を見せず、夜のみ活動を再開する」
「じゃ、これからどうするの?」
魔力を探知する、という言葉から対処法を考えて欲しかったが、教えてやると言った手前、アルスは早々に諦める。
それでも方策を模索する問いかけなのは確かだ。
「幸いにも奴らはそこまで速くはない。距離をあけたら魔石を使う。魔力を流し込み至る所に散らばらせる。それと魔力残滓なんかも散らせればベストだ」
「なるほどね。私も手伝う」
【闇夜の徘徊者】が徘徊する一帯では他種の魔物は姿を晦ますのだが。
――相当な数がいるが……!!
「――!! 追跡をやめた!?」
「え、な、何?」
「【闇夜の徘徊者】が追跡を断念した」
「えっ、追ってくるんじゃなかったの?」
「追ってくるはず、だった。だが、こういう習性に反した行動はその裏が必ずあるものだ。逆に不可解過ぎる。休息地からはだいぶ離れたし、奴らが向かう方角も違うようだ」
その間もアルスは決して足を止めることはなかった。
魔物の異常な行動、その理由として思い当たるのは。
「夜会か」
思考が導かれるように仮説を立てるが、それは説明の付かない【夜会】という現象とリンクしているように感じられたのだ。
「【夜会】って任務よね。それと関係があるってことよね」
「確信はないが。いずれにしても探りを入れるには、この状況じゃ手がつけられん」
とはいえ、夜会に関しての情報入手は任務目標以上に必要なものなのだろう、とアルスは感じ始めていた。
「仕方ない。様子を見てからお前を一端ロキ達に送り届ける。じゃなきゃ俺が動けないからな」
「魔力を押さえられない私じゃ足で纏いね。わかったわ」
「またワーワー喚かれても適わんしな。まぁ、魔力を押さえられるようになってからだ」
意地の悪い顔をテスフィアに向けるも、彼女は何も言い返すことができなかった。その見開いた目は間違いなく羞恥のそれを映していたのだから。
またあんなことをされたら、今度こそどうにかなってしまいそうな自分が馬鹿みたいに恥ずかしい。
多少の余裕、テスフィアの心にゆとりが生まれた直後のことだった。
アルスは抱きかかえたテスフィアを突き飛ばして、即座に離れた。
二人がいたその真上には覆いかぶさるような黒い何かが腕を振り下ろし、その指先が地面から盛り上がった太い根を容易く寸断する。
「な、何よ。いきなり!!」
空中でなんとか体勢を整えたテスフィアは、無事に着地してすぐにアルスを探す。
幸いアルスとはほとんど離れていなかったが、代わりに二人の間に降り立った黒い影。それは枯れた木のようにほっそりとしており、そして高い。
「何これ……」
テスフィアの対面で、これまでにない鋭い目つきのアルスが悪態でもつくかのように言い放った。
「どう見ても魔物だな……それもとんでもなく厄介極まりない化物。【名もなき無存在】」




