孤独だった頃は遠い過去へと去り朽ちる
休息地とした洞窟に小さくも小刻みな気息が鳴った。
アルスは目の端を押さえるように、それこそ脱力して壁面に背中を預ける。
アルスの些細な舌打ちすらもこの洞窟に反響するかのように響いた。
静寂とは程遠い、多くの苦慮が渦巻いているのだろう。外界でアルスが見せる顔としては今までになかったのは確かだ。
小川のせせらぎは、か細く静寂を阻害することなく流れていた。
洞窟内部はロキによって用意された枯れ枝に火が灯り、パチパチと小さな明かりが灯る。
一方で、焚き火の近くで座ったアリスは、炎の中心に視線をぼんやりと向けていた。
ロキからだいたいの経緯――アリスが気を失ってからの出来事がロキによって語られた直後のことである。
元を辿ればアリスの些細なミスから始まったように彼女には感じられたのだろう。そしてアリスもテスフィアが叱られる原因が未だわからずにいる。いや、言葉では言い表せない落とし穴が、暗くぽっかり空いた穴を空けていることだけは薄々わかるのだ。
まるで別世界の常識であるように感じられ、それは平和に暮らしていた内側の世界では考えられなかったことなのだろう。それこそ経験からくる落とし穴だとアリスは思うのだ。だから今はわからない。そんな不可解なしこりを残して、小さくアリスの口から吐息として漏れた。
このままではいけない、ということだけは確かだろう。部隊のことなどろくに知りはしないアリスでも、きっと現状は正しくない。いつものように、とまではいかなくても、こんな亀裂の入った状態では部隊として正しく機能しないはずだ。
そんなアリスの憂慮をすでに理解していたかのように、アルスの隣にロキが歩み寄った。そして何事もなく、ふっと背中を壁面に預ける。
「アル…………アルス様、もうフィアさんを許してあげてはいただけませんか。アルス様の方針に反対するわけではありませんが……やはり、私達が生きてきた環境で彼女達を図るのは違うような気がします」
ロキは以前のように距離を置いた呼び方をする。何故ならば、今のアルスはあの時に戻ってしまっているからだ。魔法師育成プログラム、そこで育った環境や水準を彼女達に求めてしまう。
何も知らない子らを、無感情に外界へと放り出す所業。自ら生きる術を模索しなければ明日がない。そんな環境で育ってきたのだから、ある意味では正しい方法などアルスもロキも知らないのだ。
知っているのはどうやって生きてきたか、そういった泥臭い生き方なのだ。
必死の度合いなどではない、真面目という問題でもない。ただ、生きるか死ぬかの判断を常に自分に問い続ける。抜け道のない思考迷路を彷徨うだけ――。
ただそんな中でもアルスやロキは最善とは言えずとも、生き残る選択を最後まで放棄することはなかったのだろう。だからこそ今がある。
その術をアルスはテスフィアに求めてしまったのだ。本来ならばいくつも死線をくぐり抜けて行く過程で経験として身につく類いの嗅覚や直感。
アルスはそんなロキに一瞥すらせず、口を開いた。重たく声の出しづらさを感じているかのように、言い難さを聞く者に与えた。
「わかってる。だが、こういうことは危機的状況に陥ることで身につく」
「その一度が命取りになるのが、外界です」
釈迦に説法するが如く、苦笑しながらロキは口の端を持ち上げた。
何故ならば、この先は堂々巡りになるのが目に見えていたからだ。いつまでも反論が続くことになる。
危機的状況はアルスがいることで回避されてしまう。だが、ことの本質がアルスのいう教育にあるとはロキも思っていなかった。
教えることの難しさはアルスがそれだけ彼女たちを気にかけているということの証でもあるのだ。それが少しだけ空回りしただけの話なのだ。アルスとロキが生きてきた世界は例外中の例外。
それが一般的ではないことは確かである……が、それしかやり方、教え方を知らないことも確かなのだ。自身が経験したことしか自信を持ってテスフィアとアリスに教えることができない。
「アル……」
そんな今にもか細い声を発したのはアリスであった。そよ風にすら負けてしまう弱々しい声音で、彼女は炎の向こう側にいるアルスへと柔らかい目を向ける。
「ごめんなさい。私もフィアも本当はもっとできると思っていたの。きっと成果に応えることができると信じていたの。魔法の腕も上がったし、それなりに外界の知識も付いてきたから。ロキちゃんのようにとはいかなくても、一緒に戦えるところを見てほしかったの」
胸の内を全て吐き出すように、アリスはそんな本心を悄然と語った。だから、やはりアリスが最初に発したのは謝罪だったのだ。
乾いた笑みが儚く、揺らめく炎に紛れて霞む。
油断をしたつもりもなく、全力で臨んで……それでもどうにもならなかった。常識を遥かに越えて、外の世界は未熟な二人を嘲笑う。
「…………」
無言のアルスに堪らず、ロキも言葉を続けた。編入当初、あれほど見放してもいいと感じていた彼女たちが、今はアルスの心の拠り所、その一部となってしまったのを強く感じたからだ。
「アルス様、ゆっくり焦らず教えていけばいいのでは? これまでも嫌々ですけど、そうしてきたじゃないですか。私達が生き抜いてきた方法の全てがフィアさんとアリスさんに当てはまらないのかもしれません。手は掛かりますが、ね」
苦笑を込めてロキは小さく微笑んだ。
しまいにはアルスは現実逃避しようとしたのか、目を閉じた。少なくともアリスとロキには聞き耳を持たないような格好に映ったのだろう。
「アル……」
「アルス様」
魔物への警戒なんてものは二の次だと言わんばかりに、アリスとロキは呼びかける。
「あ~わかった、わかった。ちょっと性急過ぎたのは認める。くそっ、ホント調子が狂うな」
いつものように後頭部をわさわさと掻き乱して、彼女たちの主張に折れたことを誤魔化そうとするアルス。
ホッと胸を撫で下ろすアリスとロキは引き締まった相好を崩すのであった。すかさずロキは探知してテスフィアの場所を報告した。
「――!! アルス様。フィアさんの場所がここから少し離れてしまいましたね」
「何やってんだあいつは」
「…………?」
アルスの声に疑問を持ったロキは、その不自然さに違和感を抱いた。離れたとは言ってもこの距離に加えて、アルスが把握していないはずがなかったのだ。
一瞬脳裏に過ぎったのは、それこそアルスがテスフィアを見放したということも考えられた。が、彼が思い直したことからもその可能性はなかったはずだ。そもそも見放すのであれば、最初から厳しく当たったりしないだろう。
そこでロキは前屈みになってアルスの顔を窺い見た。
「――!! 少し顔色が悪いようですが……それに汗も……」
アリスやテスフィアではないのだ。いつものアルスならばこの程度の運動で汗をかくはずもない。
これまでは暗がりと、炎のオレンジに照らされていたために気づかなかったが、その変調は明らかだった。
「いや、大丈夫だ。少し肝を冷やしたのかもな」
「私がフィアさんをお連れしてきましょうか」
「いいや、俺が行く。こっちでも……場所があらかた把握できた。任務に発つのももう少し先だしな、連れ戻す時間ぐらいはあるだろう」
微かにアルスの目の端がピクリと反応を示すも、ロキの頭の上にいつのもように手を乗せた。
「わかりました。でも……放蕩娘には優しくしてあげてくださいね。それと……」
「わかってる。少しやりすぎた。反省してるさ」
一息ついてから、アルスはテスフィアが走って出ていった場所を目指して歩き出す。その背中に投げかけられた声は、調子が戻ったような明るいアリスのものであった。
「お願いね、アル。で、なんだけどまた色々と教えて欲しいな。フィアも一緒にね」
「あぁ、わかってるよ。それも仕事だ」
「仕事なんだ」
から笑いではあるが、アリスが浮かべるそれは、ここが外界であることを一瞬忘れさせるような微笑みであった。
壁面の縁に手を添えたアルスは薄暗くなった外を視界に収めて、テスフィアがいる方角へと目を向ける。
そして一歩踏み出した直後、肩越しに不満げな目でロキを見やった。
「それとなロキ……」
「はい! 何でしょうか」
「敬称はつけるな」
「わかりました。ではいってらっしゃいませ、アル」
銀髪の少女は恭しく頭を下げて、アルスを見送るのであった。




