傷物の美貌
開かれたドアの先には手をお腹の下で組んだロキが伏し目がちにすらりと立っていた。
フォーマルなエンパイア・ドレス、腰に着いた大きめのリボンが羽衣のように棚引く。
首元で柔らかい光を照り返す宝石のついたチョーカー。
細い腕には白いオペラ・グローブ。
いつものロキより身長が少し高く見えるのは、細いヒールのせいなのだろう。
背後の使用人達は小さな微笑をその顔に浮かべて、目を伏せていた。最高の仕事をした後のような充足感だけが彼女達のプライドに応えたようだ。
ドレスは背中が大きく開いており、ロキはそれも含めて少し複雑そうな顔をしていた。
「良く似合ってる」
自然と……それこそ自動再生のように本音は優に喉の奥から言葉を紡ぎ出す。アルスが何を口走ったのかを理解したのは声を発した後のことだった。月並みとは言っても、この世界にはどうしようもない程語彙は限られている。であるならば、月並みな言葉こそがやはり最上なのかもしれなかった。
撤回することができないほどに。
ゆっくりと室内に入ってくるロキは視線を上げて。
「ありがとうございます、アル」
突然の感謝の言葉にアルスは小首を傾げる。しかし、その背後で使用人の変わらぬ姿勢を見てなんとなく察してしまった。もしくするとリンネが裏で小細工をしたのかもしれないが。
「良いのでしょうか。こんな綺麗な服をいただいてしまって……」
全てを知った上でロキは感謝をアルスに告げる。無論、この服はアルスが事前に用意しておいたものだ。
「良いんじゃないか、似合ってるのは本当だしな」
「アルもいつになくカッコ……イイですよ」
「そりゃどうも」
微笑でもってロキははにかんでアルスの襟を正すように有りもしない、服の皺を伸ばそうと手で袖を掴む。だらしない弟にでもするようにロキはアルスの着崩した服装を仕方がないとばかりに直す。
それでも最終的にはアルスは首元のボタンを一つ開けてしまうのだが。
「気になるのか?」
アルスが何を言っているのか、ロキにはすぐわかった。自分のことで、しかもそれは女性としてはコンプレックスでもあるのだから。昔は気にもならなかったが、アルスの傍にいられることでそれはやはり恥ずかしいものでもあった。
肩から背中に向かって走る古傷。
魔法師としては、それは誇るべき傷なのだろう。それでも彼の周りにいる女性は身体に傷なんて一つもないような美少女ばかりなのだ。だが、仮に治せるとしてもロキは即答できない。
この傷は魔法師としての勲章などではなく、ロキにとって彼の背中を追いかけ続けた証なのだ。だから、傷痕は過去から今へと繋げているのかもしれない。
「気になるか」と訊ねられ、曖昧な頷きしか返せなかった。女性としてこういう格好ができるのは嬉しいことだが、それはつまるところ普通の女性として見られるということなのだ。魔法師としてではなく……。
「――ひゃっ!?」
背中を仰け反らせたロキは咄嗟にしがみつくようにアルスの服を握りしめた。
その原因はアルスの指先が傷跡をなぞったことにある。
「俺はこれも含めてロキの魅力だと思うんだがな」
「ちょ、アル……わか、わかりましたからぁ~」
ツゥ~とアルスの指先が背中をなぞっていく。触れるか触れないかといった微妙な力加減は明らかに悪戯心が働いていた。
全身から力が抜けていくのをロキは感じ、甘い吐息が漏れた時、ロキは全気力を振り絞って薄っすらと浮かぶ涙目でアルスに抗議の視線を向ける。
無意識にそうしていたのか、アルスはハッと我に返ったような反応を示すと即座に「悪い」と冗談混じりに謝罪を口にした。
大きく息をついたロキはフラフラしながらも姿勢を正してキッと鋭い視線でアルスを射抜く。
「良いですか、アル……こういうのは……と、時、と…………場所を選んでください!!」
赤面した顔でボソリと呟き終えたロキは、アルスの返答を聞かないように、そのまま捲し立てる。
一先ず平静を取り戻すべく、努めて普段通りを意識した口調に戻す。
溜息なのか、判断がつかないような息を一つついて。
「傷についてはいいんです。アルならそう言ってくれると思ってましたから。でも、他の方はそうは思わないでしょう。私も気にならないと思います。それでもアルがどう見られるかは別の話です……」
「下らないな」
「…………そうかもしれませんね。だからこれは私が見栄を張りたいだけなんです」
最高位たるアルスが女性であるロキを傍に連れているならば、自分はできるだけ見合う女性でありたいと願ってしまう。努力してしまうのだ。
乙女らしい背伸びだとロキはよく理解している。外界に出ていた頃はなんとも思わなかった。この心境の変化はきっとテスフィアやアリスに感化されたものなのだろう。だから身長も気になってしまう、他人から見ればロキは子供に見られてもおかしくはないのだ。
少しでも釣り合いが取れればと、ヒールの高い靴を選び、頑張ってしまう浅ましい自分をロキは受け入れて……そしてこれは自分の我儘なのだと少しだけ後ろ暗さを微笑の中に込めた。
「強制はしないさ。なんか使用人の人も気を利かせたみたいだしな」
すでに使用人はロキが入って後、華麗な一礼を見せて出ていっている。万事抜かりはないとばかりにドアのすぐ隣に置かれたハンガースタンドをアルスは指差した。
そこにはロキのドレスに似合うようなボレロが掛けられている、という見透かしたような徹底ぶりだった。
するりとハンガーから抜き取ったアルスは襟を両手で持ち、ロキの背後で腕が通されるのを待つ。
「すみません」そんな弱々しい声でロキは薄い生地のボレロに袖を通した。絹のような肌は引っかかる気配を見せず、滑るように腕が通される。
さすがに使用人が用意しただけあり、ドレスの上から羽織ったところで彼女の魅力が損なわれることはなかった。寧ろ――良く似合っていた。
率直に感想を述べるには彼女はどこか意気込みだけを表情に宿しており、あえて何も言う必要はないのだろうと口を閉ざす。すでに二人の準備は整い、バラール城もまた着々と名ばかりの懇親会へと近づいていたのだから。
「そろそろ行くか……下の方もだいぶ集まってるみたいだしな」
「はい!」
揃って部屋を出た時、嵐の前の静けさに似た空気が廊下に満ちていた。憂鬱なのか肩が下がったアルスの腕は少し重そうに揺れて見えた。ロキはそんな姿に小さく微笑んで腕を組もうかと逡巡するも決断までに掛かった時間は瞬き程度だった。余所余所しくする必要などないのだ、何の気兼ねもいらないはずである。二人の格好を見れば寧ろ、自然と熱に浮かされるのもいいのだろう。
密着した状態でロキはアルスの腕に自らの腕を絡ませて、貴族がそうするように強引にアルスにエスコートさせてみる。この手の気遣いはあまり彼に期待できないが、今はそのぎこちなさが心地よく感じられる。
ロキの期待通り、アルスは流されるがまま受け入れていた。
が――そんな僅かばかりの和やかなムードは唐突に終わりを告げた。
「御機嫌よう、アルス」
唐突な呼びかけに振り返るまでもなく、アルスは「お早い到着ですね」と何の気無しに相槌を打った。
慌てて振り返ったのはロキで、彼女は反射的に組んでいた腕を解いてすぐさま頭を下げる。
「お久しぶりです。シセルニア様」
「そんな畏まらないでロキさん。これでも私はあなたを気に入っているのよ」
艶やかなドレスを身に纏ったシセルニアは屈託のない笑みをロキに向けていた。季節を感じさせる色合いのドレスは胸元が大きく開いており、きめ細かな肌と胸の谷間が優美に覗く。彼女を前にすると扇情的な姿は一切見られず、あるのはただ美という芸術じみた奇跡だけ。
魅入ったしまったロキは咄嗟にシセルニアが何を言っているのか理解できず「えっ?」という言葉だけを漏らしていた。
背後にはリンネもいるが何故か困ったように頬が引き攣っている。
気に入るも何も、二人は実質的に顔を合わせたのは数度。それもルサールカ元首、リチアのように談笑など挟んでいない。会話らしい会話はなかったはずだった。
「私ね。一人っ子なのよ。だからロキさんは妹みたいな気がして……ね」
元首の仮面は剥がれ、シセルニアの顔は親しみやすい表情を作っていた。ロキはすぐさま思考を巡らせた。アルスに取り入るためと邪推してしまう程には、シセルニアの目は不気味なほど穏やかである。
「はぁ~」と不敬にも当たりそうな相槌だったが、実際それしか言いようがないのも確かだ。
「気にしないでくださいロキさん。最近ゆっくりできる機会も増えたせいか、変な方向に走ってしまいまして」
と、まるで病気に罹ったような口ぶりでリンネは冗談めかす。
「ひどい言われようね。ホラ、ちゃんと見てみなさいよ。この銀髪にお人形のような小さな身体」
人目がないからだろうか、シセルニアはブレーキが壊れたようにロキを抱きしめて頭を丁寧に撫でた。綺麗に梳かされたサラサラな髪に触れてシセルニアの口から甘い吐息が漏れる。
「ごめんなさい、ロキさん。凄く綺麗だったから……」
「ありがとうございます。それは構わないのですが……」
などと褒められてもロキは全く動じない。ロキが見てきた女性の中で抜きん出た美貌を誇っているは確かなのだから。「綺麗」だと言うには目の前にいる元首はあまりにも美しすぎた。嫌味にも聞こえない辺り、本当に美しい人は外見だけではないのだとも感じる。
彼女ほど全てを備えた人間ならば誰であろうとイチコロなのだろう。それがアルスであろうとも……。
そんな心の警戒心がふとロキの中で湧き上がった。
「よかったわね。ドレスも似合っているわ」
「ありがとうございます。アルが用意してくださったんです」
わざわざ自慢げにロキは頬を染めながら発した。
「あら、この朴念仁にそんな気の遣い方ができたなんて」
「おい、そんなことよりさっさと向かわないと遅刻するぞ。到着が最後とかわざわざ注目を集める必要もないだろ」
長引きそうな雰囲気に割り込んでアルスは自分に向かってきた火の粉を払った。最もこれは正確ではない、予定時間までは随分と余裕もあるため、単にアルスが話題を変えたかっただけだった。
「それもそうね。私達が到着した時点でほぼ揃っていたみたいだし」
確かにシセルニアはバベルの一件が片付いてからというもの心にゆとりができたように憑き物が落ちていた。事実、元首としての仕事量は変わらないのに、彼女には幾分余裕が見て取れるのも確かだ。
「始まってしまえばゆっくりと話せる時間もないと思って来たのだけれど、それはあなたも同じということかしら」
蠱惑的な笑みでシセルニアは肩越しに見返すアルスへと問う。前回会合時のような駆け引きとは別にアルスにはアルスなりの情報収集があるだろうと推測しての発言だった。
ある意味では図星を突かれたために無言で肯定するという形を取ってしまったが致し方ない。
「俺は代役として参加しているだけなんで……ただ代役が言葉通りの代役ではないでしょうけど」
そう、イリイスの代役ということは協会として来ていることになる。その目的や役目は他国とそう変わるものではない。つまるところ情報収集なのだ。アルスを代役に選んだのは単にシングル魔法師だからというだけではない。実際に目で見てシングルや他国の情勢を探ってくることにある。
とりわけ求められるのは、新たに加わるシングル魔法師がシングルに足り得るか、ということだろう。これは協会の役割として大きな意味を持つ。
そういう意味では、今日集う面々は少なからず同じ目的のはずだ。
一方的に腹の中を探られ、罰が悪そうにアルスは歩きだす。その後をロキが続き、一息ついてシセルニアが追う。
「ねぇ、アルス。今度市井を見て歩きたいと思うの。エスコートをお願いしてもいいかしら?」
「それは命令で?」
「いいえ、ただのお願いよ」
ぎくりと明らかに挙動が不審になったロキを見たシセルニアは口元に微笑ましさを浮かべて。
「もちろん、ロキさんも一緒にね。お忍びになっちゃうけど遊びに行ってみたいの……一度は」
ポツリと儚そうな微笑みとともにシセルニアは溢した。
チラリと様子を窺うアルスは溜息を吐きつつも……。
「それぐらいでしたら、お供させていただきますよ」
「はい! 私も是非ご一緒させてください」
ロキもまた元首の機微に触れたのか、親しみを込めて近づくための第一歩を踏み出す。こんな歩きながらの会話が一国の元首とシングル魔法師の間で交わされているのだから、他者から見ればこのやり取りは随分と平和に見えるのだろう。
だが、この一時の和やかな空気を壊そうとするものはおらず、リンネもまた主の望みが叶う様子を嬉々として眺めていた。
階下では物騒な探り合いが行われているにも関わらず、彼女たちの仲を侵害できるものは何一つとしていない。打算も目論見もこの場には不要なのものだ。
今、地位や権力はこの四人の間ではあってないようなものだった。ここにいるのは知った顔である友人だけなのだから。
 




