天然な来訪
秋から冬へと明確な四季の変化を生存圏内に満たし始めた。
陽が空を占有する時間は短くなり、夜が一日の多くを染め始める。
第三のバベルには旧来のような天候調整機能や疑似映像を流すような機能は備わっていない。そんなものがあったのでは真に人々が籠の世界から解き放たれることはない。欺瞞に満ちた安全神話を疑うことなく滅ぶその時まで何が起きているのかすら理解しないままなのだろう。
故に外界とを隔てる守りの壁は自然の摂理を受け入れるようにできているのだ。
バベルの役目はあくまでも魔物を遠ざける、近寄らせないことのみに特化している。それさえあれば良いのだ。それ以外は寧ろ余計と言える。
目を背けるのではなく、向き合う。ただそれだけのこと、それがアルスの望む現実の共有でもある。
そんな乾いた風は学院をも包み込む。
それこそ外界を知らない者は初めて息が白くなることを体験することになった。学院内でも面白おかしく息を吐き続けた結果、酸欠になるというような馬鹿の姿も見られた。
だが、外界を知る者にとっては厳しい季節でもある。一定の割り合いで身体を覆う魔力は防寒対策にもなるが、それができるのは魔力操作を日々の鍛錬として課している者だけだ。魔力を捕食する魔物にとって中途半端な魔力操作など自ら居場所を知らせているだけなのだ。だから大抵の魔法師は衣類で寒さを凌ぐ。
季節の変化に一喜一憂するべくもなく、研究棟最上階の主は変わらず室内に引きこもっていた。
これから教え子を外界へと連れて行くため研究室でのアルスはいつも以上に様々な作業に追われていた。
学院内にいて、尚且つ一応は生徒としての肩書もあるため本来ならば勉学に励んで然るべきなのだろう。
だが、アルスに限って言えば一般的な生徒より遥かに机に向かっている時間は長く、膨大な資料が散乱している。これもロキが片っ端から片付けるのがいつもの光景だが、今回に限って言えばアルスの調べ物に対して彼女も微力ながら手伝いに忙殺されていた。
今回の任務で下見をしている暇はなく、今は資料を取り揃えてひたすら詰め込む作業である。
アルスは地図を見て、細かい地形を頭の中に入れておく。本来ならば任務についてもう少し詳細な情報が欲しいところだが、それも時間の都合上止むを得ない。
依頼者側に直接聞くことで任務の詳細な内容が貰える手はずになっている。いくら協会の任務とはいえ、第三者に内情を開示するような真似まではできないのだ。
当然、問題があれば協会に報告もできるが、基本的には任務に関する裏の事情までは口外できない規則になっている。
――とはいっても、外界任務の時でこれじゃ情報不足も良いところだな。
魔法師の派遣業務とはいっても、他国とでは外界の事情は異なる。
――それはそれか。任務に際した最低限の情報は盛り込まれているし……。
ここまで徹底した情報収集をするのはアルスぐらいなのも事実だ。
だが、国の事情に不干渉を掲げる協会に依頼の詳細な内容ぐらいは告げておくべきかもしれない。それが必要かどうかの判断は依頼者側によるのだが。
「ガイドラインぐらいは必要か……」
「なんのことですか?」
声に出して発した独白にロキはすかさず反応する。
もちろん、独白しただけなので、結論はすでに出ている。話し合う意味は実際にはなく、アルスは話題を変えるように手元の地図に視線を落とした。
「この地図を見る限りではアルファとだいぶ地形からして違うものだと思ってな。ハイドランジは防衛だけに徹していたようだしな。領土の奪還という意味じゃ、てんで進んでいない」
無論、当時のシングル魔法師であるクロケルが外界に出ていないことも大きな要因だ。シングル魔法師の最大の任務は領土の拡大であり、少なくとも橋頭堡としての拠点作りにある。
「こちらも同じです……」
ロキが必死に勉強している、もとい情報を詰め込んでいるのはハイドランジ近辺にいる魔物の報告書だ。
それと合わせて全国のデータベースにある魔物大典を見比べている。もちろん、これは軍関係者、アルスだからこそ閲覧ができるものだ。一般的には図鑑のように纏められているが、最新データでいえば大典を見るほうが良い。
眉間に寄る皺はこの任務が表面上だけの難易度を孕んでいることに対してだ。
地形や微妙に気候も変わればそこに住み着く魔物も様変わりする。
特にアルファ近郊に生息するような魔物はハイドランジにはいない。
それに……。
「アル、これなのですが。ハイドランジの魔物はアルファと違い何体か討伐報告がないものもありますよ」
本来あってはならないことだが、魔物と遭遇時に討伐不可能と現場の判断があった場合逃げる選択は日常茶飯事だ。負傷者を抱えていたり、魔力の消耗が激しい連戦後など理由は様々である。
だが、そうであった場合――この場合はBレート以上が対象とされるが、帰投後魔物の情報を共有し別部隊で即討伐に乗り出すのが普通である。
他国の排他的領域内に入ってしまえば、発見した国の不始末とされるためだ。
無論、これにも落とし穴はある。Bレートを取り逃し、後にA・Sとレートを上げた場合、原型がわからないほど身体を変形させた魔物は新種として認定されてしまう。そう、判別のしようがないのだ。
新種とされる魔物が過去に取り逃した魔物であるという可能性は否定できない。だから最低限発見したBレート以上の魔物はその国に討伐責任が課せられる。
困難な状況の場合は当然他国との協力を得ることもできるが、いずれにせよ弊害が付いて回る。
「ま、こういうのを解消していくのも協会の役割ではあるんだろうけど……把握しておく必要はあるな。とはいってもこれにばかり時間を掛けてられないか。悪いがロキ、そっちは頼めるか」
「承知しました」
はっきり言って、魔物の数や性質からしてアルファとは全く異なる、その数は優に百を超える。それを覚えろ、というアルスの提案は無茶であった。
アルスの意図としては覚えられる限り、といったつもりだ。
直接床に腰を降ろしており、自分がスカートであることなど気にせず、手をついて魔物大典と報告書をにらめっこしていたロキはグッと拳を胸の前で構える。
「すでに半分は覚えました!」と紅潮気味に告げた。
できればテスフィアやアリスにも覚えさせたいところだが、学業がある上に彼女達にはもっと根本的なところを学んで貰ったほうが建設的だ。
机の前で仮想液晶を起動したアルスは一通の電子メールを受信していることに気づく。予想していた通り協会からの物だった。
協会の依頼を受けてから、アルスは別の依頼も同時にこなしていた。とはいっても正確には依頼とは呼べない一方的な要件。
つまるところ、直近で金欠だったアルスが稼ぐ方法は、実はその頭脳を使えばいとも容易く湯水のように金を得ることができるのだ。
数日でアルスが考案したAWRの基礎設計図や研究論文を権利ごと売っぱらったのだ。正しくは協会を通して全世界に情報を流してもらい買い取ってもらう。依頼というよりもただの販売である。
規定違反ではあるが仲介料を支払っているため、上手いことやってくれたようだ。
アルスが売りに出した設計図や研究論文、その時点での価格は数百万デルド。
最終的には三案が合計四千万デルドで買い取られたようだ。設計図や論文の製作者を無記入にしたため、分かる者にはそれが誰によって作られたのか一目でわかる。
購入した企業や国が算定した予想価値は数十億デルドと見込んだのをアルスは知らないし、興味のないことだ。即金で支払われるからこその安値でもある。正直、この設計図が他に利用できたとしても変わらない。これまでも魔法式や魔力回路図などを発明したが、それが多くのインフラ設備に使われていようとどちらでもよいのだ。
寧ろ、新たな使い道を模索してくれたほうが作った甲斐もあったというもの。
ともあれ、その入金がされたことの報告がメールで来ていたのだ。
それから少しの間、アルスは仮想キーボードを叩き、手配を済ませる。
作業が終わったのはちょうど学院のチャイムが鳴った頃だった。
そして見計らったようにアルスの研究室を訪問する者がいた。薄暗くなり始めた時間で、コンコンとアルスの背後でノックの音が響く。
そう、背後なのだ。
逸早く気付いたロキは勉強を中断して急いでアルスの背後へと向かう。同時にアルスも椅子を回転させて肘付きに腕を置き、呆れたように頬杖を突いた。
「こんばんは。アルス様」
「リンネさん、そこは玄関じゃないんですが」
研究棟最上階フロア、その窓の外で満面の笑みを向けるリンネがいた。彼女が立っているのは僅かに階と階を繋ぐ庇の上。もちろん、笑みを浮かべられるほどの幅はないはずである。
そもそも出るための窓ではないのだ。いつか割られたため、張り替えた際に開閉できるようにはしているが、正しい使い方ではない。
果たして開けなかったら彼女はどうするつもりなのだろう、と考える前にロキが「お久しぶりです、リンネさん」と開けてしまっていた。




