約束の日 Ⅳ
帰りの道中で見つけたファーストフード店で夕食を済ませる。こんな時間だからか、あまり人気はなく落ち着きのある雰囲気だった。
美味しかったか、と訊かれればアルスは不気味な愛想笑いを浮かべるのだろう。不味かったわけでもない、ただリーズナブルな価格に似合った料理だったのは確かだ。
しかし、アルスが旨とする食事に求める物をこれほど皿の上で再現されては脱帽する他無い。つまるところ、必要最低限の栄養や腹を多少満たせればそれでいい、何故か原点に戻った気がして感慨深くもある。
ロキは色々と分析しながらの食事で、何とも二人らしい夕食となった。必要以上の談笑も会話もなく、店内の静けさ故に、他愛ない会話を数言交わすだけだった。決して料理に文句があるわけではない――無論、そう思っているのはアルスだけだったのかもしれないが。
ロキの眉間の皺が今にも文句でも言い出しそうな空気を漂わせたかと思うと、不意に「少しいただいてもいいですか?」とアルスの皿に手を伸ばして失礼します」と誰も見ていないことを確認して一口含む。
あまり咀嚼せず飲み込んだことから評価はいわずもがな。
幸いにも軽食程度のつもりだったので、残すことはなかったが、逆にロキの反応が面白くアルスはついつい向かいの少女の食事姿を覗き見るのであった。
結局胃の中に入ってしまえばそれまでなのだから……食欲は減退するだろうけれど。
ともあれ、それすら今日という一日を色褪せさせるものではなく、寧ろ忘れらない記憶の一つとして刻まれたはずだ。
「酷い目にあいました」
研究棟へと向かう道中、そんな憤慨をロキは力なく溢し、過ぎてしまったことを諦めるように盛大な溜息をついた。
「良いじゃないか、普通っぽくて」
何の気なしに答えた「普通」は平凡や人並み、といった言葉以上の重みが乗っているようだった。普通だからこそ最上とでも言いたげな哲学的であり情緒的な感想。
それも外界での生活が長かったことを考えれば、真っ当な価値観なのかもしれない――正常ではないのだろうが。
こんな些細な出来事の積み重ねに目を向けられるだけ幸せなのだろう。
ロキはゆっくりと瞼を閉じて、胸の内で肯定する。少し前までは考えられなかったことだ。軍を離れたアルスを追ってきた欺瞞に満ちた世界の幸福。人並み、ありふれた経験がこれほどまで感情を揺さぶるのだから忙しない世界だ。
それも今や、内外の壁を取り払ったのだから区別する差異は名残でしかないのだろう。欺瞞が現実を投影しだすのも時間の問題だ。取り払われた鳥籠は、人が行き来するための境界線を希薄にする。一日の価値は高騰するに違いなかった。
ゆっくりと風に背中を押されるような速度で二人は夜の学院へと帰ってきた。
外界の気候に当てられた生存域内の木々はその性質からすでに葉を散らしつつあった。急激な環境の変化は一度や二度ではどうしようもない。それこそ外界のように一世紀近く経って初めて順応してくるというものだ。
「そうですね。普通っぽくて、それで特別じゃないものにするのもいいかもしれませんね。だからまたお誘いしてもいいですか?」
さり気なく次の約束を取り付けに掛かるロキに羞恥は見られなかった。肌寒くあるこの気温が彼女の熱を冷ましているのかもしれない。
「たまにはな……」
「はい! たまには」
嬉しそうな表情は声音から容易に察することができた。
学院の敷地内とはいえ、時間的に誰もいるはずもなく、出歩く生徒はまず皆無だ。見渡しても人の気配はない。ぼんやりと先を照らす街路灯がカーブする道に沿って足場を照らし出していた。
葉擦れの音は小気味よく、背中を後押しする――少女の小さな勇気の後押しをも……。
研究棟が見えた辺りでロキは足を早めてアルスの進路上で立ち止まった。
「でも……今日は特別な一日でした。だから、ありがとうございます。アル」
「どういたしまして」
「それで、その……お礼というか……その行動で示す、というか……」
しどろもどろしながらロキは上目遣いでアルスを見上げる。その顔は冷めることのない熱を帯びていた。
「お礼なんていいよ。ロキにもだいぶ助けられたしな。これぐらいはお安い御用だ」
「い、いえ。そうではなくて……そっ! そうです、アル。 今日買った茶器見せてもらっていいですか?」
「ここでか? もうすぐ研究室に着くんだ。それからで良いんじゃないか?」
「お願いします」
「ふぅ~仰せのままに」
三つほどの手荷物の中から一際重たい袋を広げる。街路灯の明かりも夜の月光も袋の中までは照らしてはくれなかった。薄暗い袋の中身を覗くべく、アルスは手を差し込み、屈む。
幾つか梱包された箱があり、小さめの箱はおそらくカップだろう。
「で、どれが見たいんだ?」
そんなことを言いながらアルスは薄暗い袋の中を覗き込む。
一息、本当に一息だけ余分な感情を吐き出し、心を落ち着かせるためにロキは浅く息をついた。
ゴソゴソと中身を漁るアルスを尻目にロキは髪を耳に掛け、傍にまで寄る。どこも不自然なところなどない。「どれを見たい」の返答として自分で確認するために近寄った。きっとアルスはそう思ったはずだ。
そんな油断とも取れる彼の意表を突き、ロキも一緒に腰を曲げ、その顔を近づける。
目を細めて窺い見るアルスの顔にロキは自らの顔を傾けてそっと唇を当てる。
微かな感触が唇を通じて伝わってくる。妙に生々しい感触がロキに実感を湧かせ、身を委ねるようにそっと瞼を閉じた。
ただ唇を触れさせただけの、ままごとのような触れ合い。それでも今、ロキが持てる最大限の行為で好意。
ただし……それは彼女が自覚した上で行える行動でもあった。
つまり、この刹那的な時間の中でふと、ロキは思ったのだ。満たされるからこその時間に紛れ込む違和感。
アルス自身や加えてレティの話では昔から彼は女受けがよかったのだ。だから妙に慣れているというか……年相応の欲を抱かないのかもしれない。
何が言いたいかというと、アルスは妙に女慣れしている節があった。つまり年上の女性に人気があったのだ。
事実、アルスは幼少期から配属される部隊で特に女性に気にかけられることが多かった。決して可愛げのある子供ではなかったが、戦場を駆け回る女性にとっては一種の癒やしだったのかもしれない。更に突き詰めるならば……女性で尚且つ外界に出る魔法師ともなれば、女としての幸せは断たれたと考える者も少ないのだろう。
故に当時のアルスはそうした女性達の間で母性をくすぐる格好の的だったのだ。
だから、こんな唇をあてがっただけのキスなど彼からしていればたかが知れているのかもしれない。
そう思った直後、ロキの中で妙な対抗心らしきものが湧き上がった。
ここからの行動はロキ自身説明できない突発的衝動に近しいものがあった。
唇を離す直後、彼女は淫靡にその小さな舌の先でアルスの頬を一舐めしたのだ。
擬音を付けるとすれば「ペロッ」といった具合に……。
そしてみるみる顔を真っ赤に染めるロキ。
自分の行動が誰かによって操作されたかのような錯覚さえ覚えた。
「おい……」
チラリと覗くアルスの目は驚きや戸惑いとは違った疑問を宿していた。
「ちょっと待て、なんで最後舐めた」
「あっと、え~っと……その……知りません」
尻すぼみに声は小さくなってその説明を拒む。ロキ自身でさえもその説明はできないのだから。
訝しげなアルスの視線を遮るためにロキは赤くなった顔で俯く。前髪を遮蔽物とするかのように身体を縮こまらせた。
狂ったようにバクバクと脈打つ心臓の高鳴りを叱咤したい気分だった。
きっとこの心がそうさせたのだと、思った。身体を操ったのは馬鹿みたいに舞い上がる心で、顔は火すら吹きそうなほど羞恥を自覚していた。
が、どちらもロキ自身に他ならないことを彼女は知っている。
だから理由を付けるとすれば彼が体験したことのない、そんな心に残るワンシーンであれば……僅かな勇気が心に留まるための抵抗を示したのだ。
「ふぅ、じゃもうカップは良いんだな?」
「なんでそんな平然としているんですか……」
「そう見えるんなら、俺も少しは上手く世渡りができそうだ」
「……なんか、釈然としないんですけれど」
顔の熱は冷めないまでも、振り絞った勇気が残滓のような消え方をしたのでは報われない。二度と同じことはできそうになかったが、それでも……。
「ま、さすがに頬を舐められたことは一度もないがな」
頬を掻いて視線を逸らす、そのらしくない姿にロキの頬は微かに持ち上がった。衝動的なところはあったが、それでも無意味に終わらずよかった。
言葉を用いればきっと彼に自分の気持ちを伝えられる、行動で示せば自分の想いを伝えられる。どちらが良く、どちらが悪いという話ではない。
どちらも、彼女の願いを叶えるためには欠いて良いものなど一つとしてないのだ。
こうして忘れられない一日が……恋色の夜に紛れて、そっと幕を閉じるのであった。




