約束の日 Ⅰ
「アル? いい加減に起きてください。だから昨日は早く寝るようにあれほどいったのに」
弱々しい陽射しと呆れ混じりの優しい声音の目覚ましからアルスの早朝は始まった。ついでに傍らにベッドが沈み込む。
眩しくて腕で目の上を覆っていると「させませんよ」と嬉しそうな声と伴に腕を掴まれて薄暗い視界が一気に明るくなる。
重たい瞼をゆっくりと開けると、眩む視界内で陽の光を浴びて煌く髪を垂らしてその少女は覗き込んでいた。微かに口元が弧を描いたようにも見える。
「おはようございます、アル」
明くる朝。
ロキにとって待ち焦がれた朝。
アルスとロキが長く険しい旅路の羽休めとして、この学院に戻って来たのはほんの数日前のこと。
今朝の天候は紛れもなく本物であり、やはりあの神々しさは地上のことなどまるで気にしていないのだろう。そう思えるほど何も変わらない陽光を注がせていた。
ロキに叩き起こされること三回。
珍しくやっとのことで目を覚ましたアルスは眠気を払うために、一先ず本日の天候状態を確認していた。
今日の予定はびっしりとたった一つの項目で埋め尽くされており、それは違えることが難しい「約束」という名の固い盟約である。
つまり、今日はロキと買い出し、もといお出かけの約束をしている日だった――余人を一切交えない二人きりの。
無論、アルスに約束をキャンセルする意志はない。
というのも今朝からやけにテンションの高い銀髪少女が鼻歌交じりにキッチンに立っているからだ。彼女の調子が良いことの一つには平日であることも含まれているのだろう。
つまり、学生はお勉強の時間なのだ。
少し前まで毎日呆けたように繰り返し通っていた勤勉な生徒であった身からすれば、ロキとアルスの二人だけが休みというのも存外心地が良いものなのだ。
昨晩調べ物をしていたアルスだったが、翌日の予定を忘れていないか再三に渡ってロキに念を押されていた。それだけ彼女にとって楽しみなのだろう。ロキにしてみれば比較的貴重といえるほど嬉しさが表面化しているのだから、アルスの寝起きは当然上々――嘘でも絶好調であるとわざとらしく背伸びをして身体の節々に活を入れている最中だった。
そうやって無理やり言い聞かせ、アルスは陽光を浴びて身体と脳を叩き起こす。
「今日は調子が良いようだ」
白々しく口を開くが、三回も寝て起きてを繰り返してしまうほどには疲れていた。だが、そうも言っていられない――約束は約束だ。
恨み言を言うわけではないが、季節さえも跨ぐ間、空けていた研究室内で葬られた数々の日用品やロキお気に入りのティーセット、その買い出しの約束をした日である。
朝の挨拶を上機嫌のロキと交わし、寝坊してしまっただろう時間を取り戻すために手早く身支度を整える。朝食で出てきたのは簡単な軽食のみだった。明らかに調理済みの料理と数が合わない。
もちろん、ロキが意地悪でしていることではない。
彼女が少し爪先を立てて、キッチンで何やら忙しなく準備しているものを見れば一目瞭然だ。
「はい、できました」
ロキも朝から正真正銘絶好調である。柔和な笑みを浮かべて大きめのバスケットがテーブルの上にずしりと乗る。
「気合い入ってるな」
「当然です。久しぶりにゆっくりできますから。今日はよろしくお願いします」
エプロンを外しながらロキは軽く頭を下げた。
エプロンの下は当然外出できるように普段見ないおろしたてのシャツ。ロキはその上から薄手のセーターを羽織った。
準備が整い、いざ出かける時になってふと、ロキの足元を見る。いつもより背が高くなっているのだ。
高めのヒールにどこか大人びたロキを見る。
靴から伸びた紐を足首に巻きつけてシンプルな装飾の留め金で固定。履き慣れていないのか、少し落ち着かない様子で手間取っていた。
案の定体勢を崩したロキはアルスに寄りかかる。
「しょうがない。足を出せ」
しゃがんだアルスの肩に手を置いて、ロキは更に落ち着かない様子で「お願いします」と片足を伸ばす。
左足と同じように足首に巻きつけて最後に留め具を嵌める。
「良し、できた」
「ありがとうございます」
恥じらいつつロキは足首に巻かれた留め具を触れ、腰を伸ばすアルスへと軽く微笑みを向けた。
出かけるには程よく晴れた空。少し肌寒くはあるもののアルスとロキからしてみればどうということはない。慣れ親しんだ陽だまりは早朝にしては温かみを感じるものだ。
研究棟を出て、勉学に勤しむ生徒達を尻目に二人は転移門を経由し、中層の市民街へと降り立つ。
朝市が一段落したのか、どこか祭りの後のような物静かさを感じる。時間がゆっくりと人々を包み込んでいるかのようだった。誰もが忙しい時間を乗り越えたのか、街は今日という一日を踏み締めるかの如くゆったりとした時間を刻み始める。
通称《市民街》と呼ばれる中層は最も人口比率が高い場所であり、多くの店が都市部に集中する。市民街とはいってもルサールカにある【フォネスワ】やアルファの工業都市【フォールン】とも違い、ここは魔法師御用達の専門店は少なく、主に雑貨や食料品といった日用品が多い場所でもある。
そういう意味でもアルスとロキが人の流れに沿って歩いても魔法師と思しき人物との遭遇は比較的少ない。その代わり詰め所のようなところもあり、そこでは民兵や治安部隊といった治安維持に務めている者の姿は見かけることが出来た。
中でも貴族による私兵や協会からの依頼を受けているだろう魔法師の姿は少し歩いただけで何人か目についた。
大通りを歩く度に目につく警戒の気配。陽気な空気に紛れる視線をアルスは探るように意識を傾ける。
こればかりは染み付いた習慣のようなものなのだが。
「アル……こんな日に何も起こるはずがありませんよ」
苦笑気味にロキが見上げてくる。
「あぁ、そうだな。悪かった」
バツの悪い顔で後頭部を掻いてみせるアルス。
せっかく買い物に来ているのに、無愛想に加えて無言ではあまりにも気が利かない。野暮なことをしたのだろう、自覚はあるが、どうにも気になってしまうのだ。
「とはいえ……」唐突にアルスはロキの腕を軽く引き寄せた。往来の激しい大通りでは流れに沿っていても逆走してくる人もいる。
ロキの脇から突如として現れた男とぶつかりそうになった彼女を自分の傍に引き寄せ「ま、こういうこともあるからな」とアルスは視線を彼女が持つバスケットへと移す。
「せっかくの昼飯だしな。気をつけろ」
「ありがとうございます。でも、どうせなら離れないように手……手を握るという方法もありますよ?」
騒がしい音という音がロキのか細い提案を掻き消してしまう。
が――。
「――!!」
差し伸べられた手がロキの目の前に添えられた。強引に握るでもなく、ただ差し出すだけという曖昧な行動。だが、その手をロキが受け取らないはずもないのだろう。
そっと掌の上で自分のやや小さい手を重ねる。
二つの手、その距離は比較的近距離であり、二人の距離に限界ができたことでもある。離れようとしても離れられないかのように。
逃さないよう、引っ張っていってくれる力強い手は人混みの中で小さくも幸福な空間を築き上げていた。どれだけ混雑しようともきっと離れないだろうし、何が何でもロキは放さないだろう。
いずれにせよ、迷子になるということはロキの探知を駆使すればありえないことではあるのだが、きっと無粋なことは誰も望みはしない。
もっともこれで昼食が台無しになろうものならば、ぶつかってきた男の末路は想像するまでもなく悲惨一色。アルスとしてはそういった予防措置の意味合いが強い。
昨晩から下拵をして張り切っていたロキを知っているアルスからすれば不幸な事故というには心苦しくもあった。
日用品の買い出しは午前中に済ませ、気づけばアルスの雀の涙ほどの所持金は桁という概念すら見る影もなくなっていた。もともと大して入っていないのだから、今更なくなって困る額でもないのだが。
とはいってもさすがにあれほど桁違いな財産を持っていた身からすれば貧しさぐらいは感じる。
荷物を一纏めにして研究棟へと郵送してもらい、アルスとロキはそのまま公園のベンチに腰を下ろした。正直一日分は歩いたのではないだろうか、とさえ思える。
肉体的な疲労はないが、人混みにいるというだけでどうにも神経を使うのだ。
足並みを揃えて一般市民を装うことがどれほど苦労するのか、それに加えて昨今の事件によってアルスの顔は国内に知れ渡っていた。前を歩いていた年頃の女性が振り返った時の顔は化粧が崩れそうなほど驚いていた。
それもそうだろう、シングル魔法師が日中から街にいるなど誰が予想できるものか。ただ、どちらかというと奇異な視線が大半で接触を図ろうとする者はいなかったのは幸いであった。
それから騒ぎにならないよう、すぐさま大通りを外れたためあまり騒がれていないはずだ。
「どうぞアル」
「ありがとう、少し疲れたな」
買ってきたばかりのジュースを差し出してロキはアルスの隣に腰を落とす。
昼頃だからなのか、公園内は子連れの親や、暇な老人が徘徊していたりして大通りと比べれば随分と静かであった。
少し寒くもある風に負けじと注ぐ陽光。昼ともなれば多少なりとも熱くなってくるというものだ。そうした当たり前を実感できるのはやはり内と外を知っているからなのかもしれない。
「少し早いですが、お昼にしましょうか」
「そうだな、たまにはこういう場所も悪くない」
おそらく行儀的にはよろしくないのだろう。それでもこんな日がな一日、頭の中を空っぽにしてみるのも一興なのかもしれない。いや、そうあるべきなのだ。仮初の平和に浴することも時には必要なのだろう。自らが勝ち取った僅かな戦果と思えば随分と気が楽になる。
自分へのご褒美、というにはアルスの趣向に沿わないが――きっとロキには良い休みになるはずだ。
それに、とアルスは隣で浮かれ気味の銀髪少女を見やった。ほっそりとした足を合わせて膝の上にバスケットを乗せる。
開くと色鮮やかな具材が詰まったサンドイッチが綺麗に並べられている。
お絞りをアルスへと渡し、ロキはせかせかとその中から自信作と思しき一つを取って包装紙を巻く。
「どうぞ、アル」
ふっくらとしたパン生地の弾力が伝わってくる。それにともなって食欲をそそる香りが匂い立つ。それこそフラフラと匂いに釣られて動物なりが集まって来そうなほどだ。
新鮮な野菜とスライスされた肉が挟まれており、中には手製のソースも掛かっていた。
おそらく昨晩から下拵していたのはこれなのだろう。
受け取ったアルスが口を付ける間、ロキは自分の分を用意しながら、その視線を手元と隣へ交互に移動させていた。
一口噛むと意外にもさっぱりした味付けで食べやすかったし、消化にも良さそうだ。
不謹慎ながらもこれぐらいならば外界に持っていきたいと考えてしまうのは悪い癖なのだろう。それでもこうして手頃に食べられることを考えれば……。
「美味いな、これ。外界でもこれを食べられたら……」
つい口に出てしまったのは何も外界の食糧事情があまりにも野性的で原始的だからではない。つまるところアルスからしてみればロキの手料理を食べられれば良いのかもしれなかった。
「ありがとうございます! でもこれぐらいでしたら持っていくこともできるかも……」
真面目に考え始めたロキにアルスは撤回しようかと逡巡する。しかし、結局外界で美味しい食事に有りつけるというのは実は大事なことでもあった。
その重要性と自分が外界で食べる質素な食事を考えるとどうしても撤回の言葉が出てこない。最低限腹を満たし、栄養を取れれば問題ない、と考えていたアルスだ。美味しいと率直に思えるロキの手料理は本当に胃袋を掌握されてしまった、もとい管理されてしまったのかもしれない。
「あぁ、それぐらい美味しいよ」
カーッと熱を帯びるのがロキ自身わかった。一瞬にして顔が暑くなる。恥ずかしさもあったが何よりも褒めてもらえたことが嬉しかった。きっと好きだろうと思って作ったのだから、頬がだらしなく緩んでしまうほどである。
それでも以前のように顔を逸らすことはせず、ロキは精一杯表情を制御して一度だけ切り替えるために俯く――次に上げた時、ロキの顔は満面の笑みを湛えていた。
「アルのためなら、いつでも作らせていただきます」
歯が浮きそうな台詞をロキは断言する。これは再度、表明したというだけの話だ。これまでの食事は誰かのためを思えばこそ創意工夫を凝らせるのだから。
常時変わりないやり取りに初々しく反応してしまう自分を少しは制御できただろうか、と成長を噛み締めつつ、ほんのりと頬を染めてロキはニヤケ顔を色づいた景色の中で浮かべるのであった。




