系統外
手術痕は重傷でもない限りわからない。
それが内部を探るスキャン程度でわかってしまうということはそれだけ杜撰なものだということだ。
「アリス、話したくなければそれでも構わないが、この欠損は不可解だ」
「……」
面と向かうアリスは唇を噛んだ。
悔しいのではない。後悔でもない。そもそもこのことはテスフィアも知っている。
それでも話したのはたったの一度、それ以上テスフィアとの間でこの話題が上がることはなかったが。
だから、アルスの研究が話すことで進むのであれば何も妨げるものはないはずだった。
もちろん公言するような過去ではない。
それでも喉の辺りでつっかえた言葉はビクともしない。それ以上上がることを嫌がるように内に戻りたがっている。
つっかえた言葉は喉で呼吸を妨げるようになった。
気が付けば全力疾走した後のように息が上がり自分では何故そうなったのかわからなかった。
「アリス……!?」
呆然と立ち尽くすアリスは過呼吸に陥っていたのだ。
言葉を発する間すら与えない呼吸。もがくように酸素を吸い込む口。
アルスは尋常でない事態にすぐに駆け寄った。
「――――!」
考えることすらできなくなったアリスの思考を視界毎覆ったのはアルスだった。
「悪かった」
栗色の髪、後頭部にそっと手を添える。
アリスの顔は確かな厚みを持ったアルスの胸に埋められていた。
自分の呼吸音以外に確かに聞く一定の音調を刻む音を。胸板から伝わる確かな鼓動に耳を傾けていた。
そのリズムに合わせるように次第に呼吸も落ち着きを取り戻す。
どれぐらいそうしていただろうか。
10分? 30分? 1時間? アリスにはわからなかったがとにかく長く長くそうしていたように感じた。
寝ていたようにおぼろげだ。
気が付けばアリスの両手は彼の服を握りしめ、皺になるほどだった。涙で濡らしてしまった服も途中から耳を押しあてるようにして片側に顔を向けている。
「ご、ごめんなさい」
途端に恥ずかしくなったアリスは突き放すように跳び退いた。
「俺のほうこそ悪かった。忘れてくれ」
「……うん」
動悸がまだする。恥ずかしさからか、まだ治まっていないのか……締め付けるような心臓はあまり嫌な気はしない。
「今日はもう帰ったほうがいい」
「でも……まだ何も……」
とても訓練ができる状態ではないからの提案だったが、アリスは根が真面目なだけに何もせずに帰宅するのをよしとしないのだろう。
本人も不調を自覚しているからか強くは出れないでいた。
「いや、今日は休め。明日から休みなんだ、時間はいくらでもある」
「うん、わかった。じゃあそうさせてもらうね」
「戻ったらまた来い」
アルスは体調というよりも気持ちが落ち着いてからと含んだが。
「アル、また明日ね」
さっそく明日来るつもりなのかと苦笑いを浮かべて見送った。
一応何かあってはいけないのでロキを女子寮まで付き添わせる。
一段落した研究室。
アルスはどっと椅子に腰を降ろした。
「はぁ~」
机に置いてあるティーカップを口に運んだ。そこで何も入っていないことに気付くともう一度溜息を吐き出す。
迂闊だったと反省の翳りが落ちた。同時に相当根深いなとも思う。
トラウマのようなものだと思うが、魔力情報の欠損、杜撰な手術痕、これらに鑑みても気が塞がるというものだ。
アリス自身の問題とは言え、そのままにしてよい問題でもない。
「ロキが帰ってきたら、珈琲を入れてもらうか」
カップを机の隅に押しやる。この時ばかりは無為に時間が過ぎるに任せるのだった。
♢ ♢ ♢
自室へと戻ったアリスは同居人のいない広い部屋で真っ先にベッドへと突っ伏した。
「どうしちゃったんだろ」
気恥ずかしさはある。思い出すだけでもカッと顔が熱くなるのだ。
それでも決着を付けた筈の過去が今になってフラッシュバックするのはやはり割りきれていないのかもしれない。
逃げられないのだと悔しさが今になって襲ってくる。
彼のように強くなりたい。
アリスは強くなったと勘違いしていた。それがこうも容易く崩れ去ったことで改めて気付かされたのだ。
(私は過去を乗り切ったんじゃない)
違う、違った……乗り切ったわけではなかった。過去を隠していたのだ。自分の中で蓋をしただけ、薄っぺらい布で覆っただけだった。
だからこうも容易く暴かれた。いや、暴かれただけならばうろたえる必要はないのだ。
あの実験施設で何をされて、どうなって両親が死んだのか。
その全てを聞かされ理解した…………でも、納得できたわけではなかったということだ。
全ての元凶、ことの発端となった人物への憎しみはあった。アリスの中でその憎悪は確かに存在していた。一緒に隠していた感情だった。
それを認識した時――
「あいつが生きてる限り逃げられない」
真っ暗な部屋の中でアリスは一人独白した。
過去を忘れることはできない。アリスもそれを望んでいるわけではない。
同時に自分には何もできない歯痒さもあった。だからまずは過去と向き合わなければならないのだろう。
そう決めたアリスの瞼は重たく閉ざされていった。
翌朝、いつもよりも早い、早すぎる時間。
アリスが訪れたのはまだ外に人の姿がまばらな頃だった。
「早い!!」
「えへへっ……昨日早く寝ちゃったから起きるのも早くって」
昨日のことが嘘のようにちゃめっけたっぷりに舌を出すアリスにいつものように面倒臭さを隠しもしないアルス。
アルスの早いは時間だけではなく、昨日の今日だぞという意味合いが強い。
そんなことはお構いなしに上がり込むアリスは一変して真剣な面差で見つめ返した。
「少し待て……」
すでに作業をしていたアルスは液晶画面を閉じて、朝食の支度をしているロキを一瞥した。
「ロキ、外で……」と声を上げた途中で遮る言葉が割って入った。
「待ってロキちゃんにも聞いて欲しいの」
「そうか」
ロキは意外な顔で支度を中断した。そのまま加わった一人分の紅茶を追加して
三人はテーブルを囲む。
アリスは大きく深呼吸すると胸に手を置いて。
(大丈夫)
と言い聞かせてから口を開いた。
「あれは7歳の時…………」
アリスはつっかえながらも一通りを話し終えた。 過去を抉るように掘り起こして。
アルスは顔色一つ変えず、口を挟まずに聞いた。ロキも無表情を貫いていたが、研究者の名前が挙がった時は目が見開いた。
幸いアリスに気付く余裕はなかったはずだ。
全て話し終えたことで多少なりとも憑き物が落ちたような顔。
「なるほどな、これで合点がいった」
「その時の実験が原因で魔力がおかしくなったんだと思う」
アリスは苦く答えた。
「【エレメント因子分離化計画】ですか、どのように役に立つ研究なのかわかりかねる名前ですね」
「あぁ、それにしてもよく被検体になったな」
ロキを一瞥して話を逸らす。
そんな過去があってアルスの研究が自分のためであるとはいえよく引き受けたものだと疑問に思うのも当然だ。
「私の中では決着がついてたんだけど、注射はダメだったみたい。それに実験自体は親に会える手段だったからそれほど抵抗はなかったのかも」
「そういうものか」
てへへっと空笑いを浮かべるアリス。
アルスは親の顔すら見たことがないため、わからない理屈だった。
しかしロキには似たところがある。弄ばれたとまでは言わないが世界の不条理に晒された点では似通っていた。
同情はしない。それでも仲間意識のようなものを感じたかもしれない。ロキにはアルスがいたから今まで生きて来られた。
きっとアリスにも何か支えとなってくれる人がいたのだろうと思う。
この時点でアルスが受けた指令に彼女が無関係でないことがわかった。
それを彼女には知らせない。おいそれとアルスの一存で話すことはできない機密案件だからだ。たとえ彼女が復讐を望んでいてもこれはアルスの仕事。
「おそらくだが、欠損は意図したものじゃないな」
「どういうこと?」
「実験の結果欠損してしまったのだろう。事故だな。無論適当な実験だったのだろうが、何人かいた実験体の中でアリスだけだろう」
アリスは顔を蒼白させた。運が悪かったでは済まない話だった。
「そんな……どうして私だけ」
しかし、アルスはお構いなしに続ける。
「そもそも魔力情報に影響を与えて欠損させること自体理論的に不可能だ」
心臓から供給される魔力核そのものに変革をもたらせば負荷に耐えられず生存は現実的ではない。
では、魔力に干渉できる魔力なら可能かと言えば、もっと現実的ではない。
魔力情報の書き換えを体内で行えば良くて自我が崩壊、高確率で拒絶反応を示した後に絶命するだろう。
以前にロキの体内にアルスが魔力を供給したが、この場合は空の器に入れただけで供給元への干渉はしていないため書き換えたことにはならない。それでも唯一拒絶反応が懸念されたのだ。
「運が悪かったが、運が良かった」
「――――!!」
悪かったというのはわかるが、良い要素なんて一つもありはしないはずだ。
アリスは呆気に取られて二の句が継げなかった。
それを疑問に追随したのはロキだった。
「良いというのは何がですか?」
「ふむ、それについては少し考えさせて欲しいんだけどな」
「えっ!!」
アリスとしては藁にも縋る思いだった。不幸で最悪の過去に僅かでも幸運があるのならば……。
アルス自身も矛盾していることを言っていた。
研究の過程で知り得た情報は開示しなければ公平ではないと言ったのだから。
「教えてもらえない理由を聞いてもいい?」
「もちろんだ。これを教えればまた実験の被検体になる可能性もある。いや正確にはバレたらだがな」
要領を得ない回答。
その中に被検体という単語が含まれていたことで意味を悟った。
アルスは自分のためを思っているのだと。
「とは言え、決めるのはアリスだ。だからもう一度やってもらいたいことがある」
「うん」
素直に喜んで良いものか戸惑いがあった。
本当ならもっと細かい情報をとも思うが、学生のアリスでは大事に過ぎる上に、またトラウマのようなものが再発しないとも限らない。
最低限の確認だけは済ませてからアリスに伝えるべきなのだろう。
「ちょっと待ってろ」
そういうとアルスは寝室へと入っていき、黒いケースを持って出てくる。
「それは?」
不気味な様相に指を差して問うが、アリスもこれはすでに見たことがあるはずだ。
「俺のAWRだ」
「――!」
「なんでAWR?」
机の上で広げると、中から一振りのナイフを持ち上げた。
「説明はあとだ。一先ずそれに魔力を通わせてみろ」
鞘を逆手に持ち、柄をアリスに差しだす。
それをおっかなびっくりに掴むとアルスの方で鞘から刀身を抜く。
課外授業の時と違う点は、そのまま鎖を引いたことにある。ナイフから10mほどの鎖が部屋に撒かれた。
「いいぞ、いつものように付与するだけで構わない」
「わかった」
両手で握り締め、わざわざ目まで閉じて集中する。
その後ろでロキが怪訝そうに見守るが、その種が明かされるのはすぐのことだった。
魔力がナイフから鎖に伝わり駆け巡る。
「よし、もういいぞ」
「ん? うん」
正確には付与の途中だ、伸ばされた鎖の全てを覆うことはできなかったが、それでも十分確認は取れた。
「アルス様、今ので何がわかったのですか」
「これだ」
アルスは唯一反応を示した鎖の輪を持ち上げた。
「確かにその部分だけは魔法式に反応があったみたいですが、それは適性があったからでは?」
「その通りだ。ではこの魔法式はどの系統だと思う?」
この問いの回答者は二名だ。
「私は光系統だから、光じゃないの?」
「残念、俺はエレメントだけは使えん」
「「――――!!」」
その否定だけでただ事ではないのがわかったのだろう。とは言え当たるまで待つ気はない。
当てられるのはアルスと総督ぐらいだからだ。
「じゃ他の系統ってこと? でも私一通りは試したけど」
「少し意地悪だったな、正確にはどの系統でもない。言っておくが他言出来なくなる覚悟はしとけよ」
無論ロキに対してもだ。
二人は神妙に頷く。その顔は他言出来ないほど機密性の高いことへの覚悟以上にお預けを喰らった子供のように中身が知りたいといった顔だった。
アルスはわかっているのかと不安を覚えながら進行する。
「まぁいいか、アリスの魔力に反応した魔法式は系統外のものだ。俺は無系統と呼んでいるが……」
「…………」
「アルス様、系統外ってなんですか?」
魔法と定義されるものは全て系統に含まれる。ロキも雷系統で、テスフィアは氷系統、アリスは光系統といった具合に。
「無系統と呼ばれる魔法師は俺だけだと思っていたんだがな」
「「――――!!」」
このカミングアウトに驚いたのは当然だ。ロキなんて見たこともないような顔で目を見張っている。
しかし、立て直しは早かったと言える。別の意味で。
「アルス様、パートナーである私に打ち明けてくださったのはこの上なく嬉しいのですが……いいのですか?」
窺い見るように不安げな眼を向けてくるロキ。
それも無理からぬことだろう。魔法の詮索は基本的にご法度。シングル魔法師ともなればその秘匿性は高い。そのうえ、既存の系統体系を根底から揺るがしかねない事実は安々と口にすることができないものだ。
しかし――。
「ま、大丈夫だろ」
素っ気なく決断するアルスに不安を濃くするばかりだ。
少し軽率ではないだろうかと、珍しく指摘しようとした、その時。
「二人なら、な」
「…………」
発しかけた言葉はそのまま来た道を戻っていく。戻されていく。だって――信頼という意味がこれほど胸を満たしていってしまうのだから。
「わかりました。でしたら、どんな拷問にあっても、この生命が尽きようとも口外しないことを誓います」
「あ、あぁ……でもそこまで……」
重く受け止めないでくれ、とまで言うことが出来なかった。さすがに命より重たいものなどない。実際、アルスの無系統が知られても誰も手出しはできないだろう。
が、こんな誠心誠意の宣誓をなかったことにするのは抵抗しかない。
「私も絶対に言わないよ」
「当然だ。脅すわけじゃないが、お前は自分のことだけに特にだ」
うぅ~、と尻すぼみに気勢を削がれたアリスだったが、彼女の場合はアルスほど安全とは言えない。