囚われる少女を紐解く鍵
追い立てるような冷気が至る所からフィオネの身体を打ち付けてくる。
ぼんやりと灯った街路灯が誘導するかのように二人を女子寮へと導いていた。
言葉を紡ぎづらい空気感は普段感じることのないノワールの機嫌の悪さが原因であった。表情でもって表してくれるのならばもっと普段通りに口火を切れたのかもしれない。
しかし、隣を半歩下がって歩くフィオネにはノワールの身体から微量に漏れる魔力がピリピリと伝わってきていた。
まるで気が立った獣のような――そんな足に重しを乗せる気配が声をも忍ばせてしまう。
女子寮までの道のりも一本道へと変わって、遠目に見慣れた建物が闇の中で存在感のあるシルエットを覗かせている。ともすればそれは自分の家のような温かみのある明かりが灯っているようにも感じられた。
自分の足下へ視線を落とすフィオネは帰るべき女子寮が受け入れてくれないのではないかと、今は不安さえ抱いていた。
すると、これまで足音すらさせない品の良さを感じさせるノワールが立ち止まり、不意にバッと振り向いた。
「いい加減にしてくれます? 用があったのでしょ!」
「えッ! でも、さっき声を発しないでって……」
ついいつもの癖で揚げ足を取るような言葉が口をついて出た。
冷ややかな視線が肩越しにフィオネを突き刺す……が、その直後、深い溜め息が彼女のピリピリとした気配を消していく。
呆れるように「じゃ、なんで待ち伏せていましたの?」と視線を戻したノワールは疲れたように言葉を溢す。
虫の鳴き声すらない静寂でフィオネの足音だけがピタリと余韻を残して制止する。人の行動には何かしらの理屈と理由が伴う。でなければ、それはただの奇行。余程の偉人か頭をやってしまっているか。
ぐっと何かを吐き出すようにフィオネは内に溜め込んだ想いとは裏腹に先行して口が開きかける。
「な、なんでそんなことをするの……それって系統のせい……なの?」
続いてノワールの足が止まった。息を呑むほど苦しい間をフィオネはただ待つしかない。彼女が何と言うのか、微かな期待と答えが知りたくて待つことしかできなかった。
灰色の髪がくすんで見えたのは闇が纏わりついたからそう感じたのか。
ゆっくりと首だけを背後に回すノワールの表情を見た時、フィオネは全身が総毛立つような危機感を感じた。
肩越しに覗く半分だけ見える表情は……うっとりするほど美しい顔は……酷く歪んでいた。眉間に寄った皺に釣り上がった眉に、冷徹な怒りすら宿すその瞳、全てがフィオネを拒否しているかのようだった。
向けられる視線を無防備に受けて、フィオネは胸の前で両手を組み合わせることしかできなかった――捕食前の小動物のように身体を縮こまらせることしかできなかったのだ。
突如として張り詰めた空気が霧散したのはノワールが身体ごと向き直ったためだ。
感情にさざなみを立てるのが馬鹿馬鹿しくなったというふうに無垢な微笑を口元が彩っている。
そしてノワールは小鳥が揚々とさえずるように。
「したいからするの。殺したいから殺すの。そうやって自分を否定するから歪が生じるの、我慢すると身体に悪いわよ」
「――!! 知ってたの……?」
「不本意ですけど、同じ穴のムジナですから」
ゾクリと核心をついてくる言葉がフィオネの心を挫こうとする。しかし、心を完全に挫くにはノワールとフィオネは少なからず時間を共有しすぎたのかもしれない。
「それ、本当?」
「えぇ、欲望のままに行動する開放感ったら……何にも勝る悦ですの。あなたはこちら側ですの」
嗜虐的な瞳がぼんやりと灯る街路灯の中で怪しく光った。
しかし――。
「ノワール、気づいてないかもしれないけど……ノワールって気まずくなったり、後ろめたいかったり、隠し事とか嘘をつく時、視線が一回、相手の胸元に落ちるんだよ」
フィオネをこちら側に引き込もうとするノワールの言葉は直接視線を注がせたものではない。もっともそれまでは視線すら向けていなかったので本当のことなのか判断しかねるが、声音から嘘だとは思えなかった。だが、この一言は違和感をフィオネに抱かせた。
嘘をつくための技術はノワールには皆無だった。成長過程で嘘を付く必要がなかったことも原因だったし、会話した人数など数えようと思えば数えられるだろう。
「ち、違うんですの……」
つまらなさそうに、それでいて焦ったようにノワールは背中を向けて歩き出してしまった。
先程のような重苦しい空気感はなく、目の前の怪しくも魅力的な美女に引き寄せられるようにフィオネも後に続いた。
「そう望まれたからそうなっただけ……それだけ…………系統? 馬鹿ですの――ホント」
小さく呟かれた声は本来ならば掻き消えてしまうほどであった。それでもこんな静かな夜でフィオネの耳に届かないわけがなかった。声量などさしたる問題ではないのだ。ノワールの言葉には彼女の内から溢れたような、後悔や悲哀、憧れといった同情してしまいたくなる感情で構成されているように感じられたのだ。
大きく目を見開いたフィオネは目の前の少女が脆く映った。崩れそうな――いや、今にも崩れてしまいそうな積み重ねの上で辛うじて立っているように思えた。
喉から出掛かった声は近寄りがたいノワールの一端を垣間見た。
殺すことを生業としている彼女がいかように育てられたのか、想像を絶することは容易に察せられた。踏み込んではいけないことに爪先が触れてしまった感覚。
それを押してもノワールは一つの解答をフィオネに示した。それがどうしようもなく彼女の心を震わせる――心が捩れるほど震わせるのだ。
「ごめ……」
「やめてくれます? それ以上は腸をぐちゃぐちゃにされるほど不愉快になるの。殺したい、とあなたがそう思わせてくれるの?」
フィオネの謝罪を遮ったノワールは淫靡かつ残忍な笑みを向けてくる。なおも言い募って、彼女にとって刃となりえる言葉を用いた直後、一瞬の躊躇いもなく刃は現実となってフィオネの首を掻っ攫っていくのだろう。
思考を巡らせても言葉は出てこない――ただ一言を除いては。
「…………ありがとう」
それしか伝えることができなかった。生きてきた歴史に差などない。どれほど辛く、どれほど順風満帆に生きこようともそこに優劣は存在しないのだ。だから、フィオネは自然とそれだけを口にする。
一瞬唖然としたように見えたが、ノワールはすぐに女子寮へと指針を向けて歩き出してしまった。一応、彼女の腸にダメージはなかったようだ。
ただ、何かぶつぶつと年相応に不満を漏らすノワールにフィオネはクスリと微笑んでから隣へと移動し、並んで歩く。
――私が私であることに系統なんて関係ない。
身体は軽く、隣を歩く同級生を追い抜いてしまいそうだった。どこか魔法師としても遠い存在であった彼女が今は凄く近く感じる。
お目付け役として半ば断る余地のなかった頼み事だったが、今は彼女の友達になれそうだとフィオネは不機嫌面のノワールを覗き見る。
「これからもよろしくねノワール」
「鬱陶しいの、三馬鹿の一人のくせに……」
「もう、フィオネだってばぁ」
女子寮までの僅かな時間を清々しい気分で過ごした……のも束の間だった。
「あっ! 門限過ぎてる!?」
玄関前で上級生が待ち構えているのが見えて、フィオネは頬を引き攣らせた。ゲートを潜った直後、その上級生がよく知る人物であった時のフィオネの安堵感は不謹慎だが大きいものだった。
普段は――今は寮長の代わりにイルミナ三年生がその務めを代行しているのだが。
扉を開けて心配そうに見つめる目にフィオネは罪悪感で視線を落とした。
「ごめんなさい、アリス先輩」
「うんうん、遅れただけならよかった。何もなかったのなら……本当によかった」
フィオネ以上に安堵を覚えたらしいアリスは胸に手を置いて憂慮を吐き出した。
その横を素通りしていくノワールは口角を持ち上げて「説教、ご苦労様フィオネさん」と上品な言葉で飾る。
「ノワちゃん……一応反省文提出だって。寮長からね」
「…………」
ピクッと頬を引き攣らせて、足を引きずるようにノワールは階段を昇っていった。彼女はフィオネのせいで大幅に遅刻したとは一言も発さずに……僅かも関心を寄せずに立ち去った。
「フィオネもだよぉ。少しならともかく……」
アリスの指が時計を指す、針は純然たる事実として門限を一時間以上も過ぎた位置で超過した時間を突きつけてきた。戻ることのない針が遅刻時間を計算しろといわんばかりに、短針が時間を示している。
「本当に心配したんだからね。連絡も入れないで門限を過ぎたらダメだよ。食堂も閉まっちゃったし……」
優しく微笑んでみてもアリスには別の懸念があるようだった。そう、フィオネの最近の様子を見ている彼女からしてみれば遅れただけでも心配は歯止めが利かないほど不吉を予感させる。
思い詰めていることは知っていたのだ。でもアリスは何をしてあげればいいのか、それがわからなかった。
「ごめんなさいアリス先輩」
シュンと項垂れるように頭を下げたフィオネにアリスは「ノワちゃんと一緒みたいだったけど」と疑問を浮かべる。
「はい、少しお話を」
「そう……」
フィオネの表情は、談笑していて遅くなったということではないようだ。
自分が何かしてあげることなく、彼女は自分の力で乗り越えたのだろう、とアリスはもう一度安堵の息を衝く。
「食事は作り置きしてもらったから支度が整ったら食べるように。ノワちゃんにも教えてあげてねフィオネ」
「はい、ありがとうございます」
どこか母を――昔の母を思わせるアリスにフィオネは自分から抱きついた。それは感謝を告げるためでもあったし、謝罪のためでもあったのかもしれないが、いずれにせよそうすることが正しいような気がした。
言葉を用いるよりも多くのことを伝えられるような気がしたのだ。
続いて自分の髪を撫でる手がいつものように優しく一方向に滑り落ちていく。
ハッと気が緩んでいたのか、我に返ったフィオネは慌てて「支度してきます」といって階段へと少し足早に歩き出した。
そして、ふいに足を止めて。
「アリス先輩……先輩もエレメントですよね。失礼かもしれませんが、エレメントであることをどう思いますか」
単純な問いでないことはアリスでもすぐにわかった。二極属性といわれる特殊な系統、それがエレメントだ。この系統故にアリスは人生を大きく左右された。きっとこの光系統でなかったなら別の人生があったはずだ。
絶望など感じずに今日までこれたはずなのだ。他系統は後天的取得であるが、エレメントは生まれつきの先天性。
アルスが言っていた自分ならフィオネの力になれるという意味がやっとわかった気がした。
慎重に言葉を選ぶまでもない。あの事件を解決した日からアリスは自らの系統をこう思うようにしたのだ。
「そうだねぇ。他の系統とは違って両親の愛や想いが詰まっていると思うの。愛してくれたから私自身と凄く結びついていると思う。こんな系統なければって思ったこともあったよ」
「アリス先輩が、ですか?」
想起するようではあったがアリスは精一杯の笑みで応えた。光系統なんて特殊な力を持たなければ自分が被験者となることもなかったのだろう。きっと今も両親は健在でいたかもしれない。そんな可能性の話が一瞬だけ脳裏を過ぎったが、やはり断たれた可能性はもはや不毛でしかないのだ。
だからこそ今を、悔いのない日々を送る。早過ぎる時の流れを踏み締めながら生きていくしかないのだ。あの時、なんて可能性を振り返らないために。
「うん。私もだよ。実際は違うのかもしれないけど、系統なんて関係なくてね。生まれついて力を授かったならばそれはきっとお父さんやお母さんが授けてくれたものだと思うの。悪いことなんて一つもないんだよ、生まれてきて欲しいからその想いの分だけちょっとだけ力を授かったんだと私は思うよ」
頬を恥ずかしそうに掻くアリス。
階段の前で立ち竦むフィオネの瞳に小さな雫が溢れ出した。
非科学的なのに、アリスの言葉は凄く美しかった。力を否定した自分が惨めだった。
突き動かされるようにフィオネはアリスへと猛然と走って抱きついた。溢れる涙を優しく包み込んでくれる胸に、顔を押し付けて拭う。
柔らかい手が後頭部を撫でてくれる。
小さく矮小な自分を包み込んでくれる。
捨てた親への多大なる感謝をフィオネは忘れていたのかもしれない。掌を返した親へと執着して我を忘れてたのかもしれない。
ただ愛して欲しかっただけなのだ。小さかったあの頃のように。
それはきっと独りよがりだったのかもしれない。
この系統は両親が自分を愛してくれていた何よりの証だったのだ。
憚ることなくフィオネは大声で泣いた。子供のように泣きじゃくった。誰の目も耳も気にならないほど吐き出すようにひたすら泣く。
その間、ずっとアリスはフィオネの小さな身体――その背中をトントンと優しく擦ってくれていた。
女子生徒達も気を遣ってくれたのか、正面玄関口は閑散と少女の泣き声だけが響き渡った。




