拭えない永遠の苦悩
無茶をすること、無茶ができる自分をフェリネラは嬉しそうに語った。
しかし、ふと紅茶を運ぶための手が力なく降りていく。一片の翳りを見せるのは彼女にしては珍しいことだとアルスは思った。
淑女としての振る舞いは洗練され、本来ならば彼女の巧みに隠蔽された気掛かりをアルス程度では察することができないはずなのだ。
もっとも、それはアルスの前でのみ見せる気の緩みなのかもしれない。
どちらせによ、彼女が無茶をした戦場をアルスは知っており、大凡の検討はついていた。不安を感じるフェリネラの核心にアルスは触れる。
「テレサ准将の噂は俺も聞いている」
「――!! あれがっ! ……あれが正しいのか……私にはわかりません。仲間を仲間と思わず、目の前で殺されても眉一つ動かさない……そんな……」
フラッシュバックする戦場をフェリネラは唖然として思い返す。一瞬にして湧き上がる憤りを深く考えもせず勢いに任せて口にする。
尻すぼみに語気を弱くした彼女は。
「あれが……人間同士の戦いなのでしょうか」と訊かずにはいられなかった。フェリネラの葛藤は現実を受け入れようとするもので、己の未熟さを理解しているがために拒絶したい気持ちとは別に言い聞かせるための結論を欲していた。
ハイドランジ軍との衝突は避けられないものだったが、相手の魔法師は全てを知っているわけではなかった。自分達が何に加担しているかなど知らずに、上とすげ替わったオルネウスの命令に従っただけなのだ。
苛烈を極めた戦場は外界と違い無益な凄惨さしか生まなかった。咳き込んでしまいそうな血の臭いと、無闇に撒き散らされた魔力残滓、それが混ざりあって自分がどこに立っているのかすら覚束なくなるのだ。
いくら悩んでも答えはでない。でも、最初からそういう物と区別してしまえば幾分自分の中での収まりが良いはずなのだ。
魔物との戦いとはまるで違い、テレサの戦い方はお国のためと忠義溢れる部下の願いを叶えるための戦術なのだろう。フェリネラの毒を吐き出すような言葉の苦味をアルスは聞いたような気がした。
裏の仕事として人間を相手にしてきたアルスだからこそ、フェリネラは問いたかったのだ。できればその意図を悟られたくはなかったが、彼がそうだと言うのならば彼女は苦悩を克服できる予感がした。
間違っているのは自分で、正しいのは今の世界なのだと。
いつまでも理想を掲げていては肝心な時に何も成し遂げられない。だから確認するかのようにフェリネラは真っ直ぐアルスの目を見た。
今度の協会主導の外界調査。そのテスト運用で責任ある立場を任されることとなったフェリネラはどうすれば良いのか、どうすればこの重責から逃れることができるのか。
テレサのように部下に死ねと告げる命令を、心を殺して言い放つことが本当の役目なのかわからなくなっていた。
相手が魔物であろうと人間であろうと敵である以上、上のする指示は変わらない。
フェリネラの不安、それが根ざす場所はやはり今度の外界調査にあるようだった。彼女の向かい側でアルスは視線を少し落す。真っ直ぐ見返してあげられないのは答えを持っていないからだった。
アドバイスができるほど何かに成功したわけではない。部隊とは常に最大にして永遠の課題を抱えているものだ。
百戦錬磨の指揮官であろうとフェリネラと似た苦悩を常に抱えている。それはアルスにも言えることだ。故にアルスは常に一人で外界という場所に孤独に立ち向かったのだから。
残酷な言い方をすれば、死ぬやつは死ぬ。外界に限らず、早いか遅いか程度の違いしかないのだろう。だが、これはアルスという稀有な例になぞらえた一つの方策であり、一般的ですらない。
「フェリの悩みを解消することは俺にはできない。すまない」
「……いえ」
俯き、精一杯に微笑み「私も変なことを聞きました」と謝意を込めるフェリネラにアルスは遠い目を向けてから少し閉じる。
きっと順序が逆だったのだろう。彼女は間違いなく大勢の魔法師を率いることのできる逸材だ。だからまずは外界で経験を重ねていかなければならない。そうして精神をすり減らしいつか気づくのだろう――気づいていくのだろう。
アルスの知る指揮官とはそういう者たちだ。アルスも同様に幾度と失敗を重ねて屍を重ねて、次は、次こそはと屍の山に謝り続ける。そういうものなのだ。今の優秀な指揮官とはそうして出来上がった、死体の山を這い上がってきた者のことを言う。
あくまでも通例、それもまた一般的ではないのかもしれない。傾向が強いというだけで。
紅茶を置いてアルスは徐に立ち上がった。すでに時間など関係ないのだろう。テーブルを挟んで回り込むとアルスはフェリネラの隣に腰を落ち着けた。
向かい側だと自分の顔を、表情を読み取られてしまうかもしれない。そんな予感じみた懸念がアルスにそうさせたのだ。
少しだけお尻をずらすフェリネラは横目で窺い見るようにアルスの片側しか読み取れない顔を目の端にいれる。
「フェリ、無責任なことをいうかもしれない。俺は不器用なほうだから、真に受ける必要はないからな」
「……はい」
前屈みになって思い出したくもない記憶を――戒めとした記憶をアルスは呼び起こす。今、必要なことだと感じて。
「昔、部隊にいた頃。多くの仲間を失った。特に珍しい話でもないが、少なくとも俺に気を遣い、同じ部屋で寝食をともにした。精鋭部隊だと一部で噂されもしたな、任務の達成率は100%だったから。後で気付いたが俺のために集められた部隊だったのは確かだ。部隊とは何であぁも賑やかなんだろうな」
可笑しそうに頬を上げるアルスは少し乾いた笑みを誰もいない向かいのソファーへと見せる。
「だから俺も部隊のために機能しようと必死だった。連携や命令に文句を挟まず、言われるがままに従った。騒がしく、鬱陶しい連中だったけど……こうしても思うと楽しかったんだろうな」
横で語られる往時の記憶。フェリネラはその話を思い出していた。彼女も聞き及んでいたからだ。父であるヴィザイストが隊を率いた特殊魔攻部隊でのものだ。そしてすぐに行き着くべき結論をフェリネラは先読みして表情を暗くする。
聞いているだけで当時のアルスが何を思っていたのか、何を感じたのか補足されていくようだった。悲惨な顛末を少しだけ装飾しても何も変わりはしないと知りながら彼は吐露する。
「俺もそれが正しいことだと思っていた。でも、正しいことをしたから、誰かを守れるわけじゃない。その正しさは軍の中での正しさでしかなかった。だから、失敗した」
喉が詰まりそうになるが、フェリネラは引き出してしまった言葉を今更止める手段を持ち合わせていない。失敗とは、当時の部隊がほぼ全滅したことにある。
喉を震わせてフェリネラは「もういいから、もういいですから」と胸の内に吐き出すことしかできず、コトンとアルスの肩に寄りかかるので精一杯だった。
頭を肩に乗せ、伝えられない想いを不安と一緒に乗せる。声に出せない思いを接地面から流し込むようにフェリネラはアルスの肩に寄りかかった。
それでもアルスが口を閉ざすことはなかった。
傷口を抉って得た教訓を今度は彼女に伝える必要があったからだ。
「だから、自分で決めれば良い。軍の規則は大事だが、時に一生拭えない杭を打ち込まれる。テレサ准将の戦い方を不服に思うなら、フェリは別の選択をすればいいだけのことだ。その時の最善が最良の結果を生むわけじゃない。だから悩めば良い、それで自分で決めろ。俺みたいにどっち付かずじゃなくてな」
自虐するように目をゆっくり細めたアルスはそのまま視線を下げる。右肩に乗ったフェリネラの頭をアルスは左腕を持ち上げてそっと前髪の辺りを撫でた。
「はい」
「今度フィアやアリスを連れて一度外界に出るつもりだ。だから俺もフェリと同じ不安を感じている」
「アルスさんもですか?」
「こればかりは一生治らないものだ。細心の注意を払うつもりだが、絶対なんてないからな。だから最後には個々に委ねられるものなのかもしれない。隊長の責任はその前の判断程度のことで、大概の場合はやはり個々人の判断が優先される。それで良いと俺は思っている。俺らは人間だ、魔物ほど割り切れもしないだろう」
経験からアルスは、美しいことのように語る。外界でアルスを逃がすためだけに散った部隊員は今でも馬鹿だと思うが、それでも止めることなどできなかっただろう。誰も命令で動いたわけではなく、自分らが勝手に生命を託したのだから。
「とはいえ、テレサ准将にも信条があるのだろうな。准将はその地位に似つかわしくない事情を抱えているとも聞く。上に疎まれ厄介者扱いされてきたとか。だから彼女の下には彼女を敬う部下が大勢いるわけだ」
彼女のところに集められた芯を貫かんとする魔法師の正体。居場所をなくした魔法師の拠り所がテレサなのだ。
「アルスさんは准将を買っておられるのですか?」
「まさか、ほとんど面識もない人だ。しかし、話を聞く限りではフェリが同行した戦いは彼女でなければ負けていただろうな」
「はい……それは、私も思います」
やり方自体にフェリネラは不満を抱いても、倍以上もいる敵を相手に勝利を収められたのは間違いなくテレサがいればこそだ。そして彼女の実力も然ることながら、その一言は自軍の魔法師を狂気へと容易く誘う。一人でも多くの敵を道連れに、テレサ率いる部隊はそんな、端から生きて帰還することを誰一人望んでいないようにさえ見えた。
それが正しいのか、フェリネラでさえ判断ができなかった。あれほど苛烈を極めた戦場で勝利を収められたのはテレサでしか不可能だとさえ思えたのだ。だから心が揺らぐ。
途絶えることのない会話なのに、妙に室内は閑散とした落ち着く雰囲気が漂っていた。紅茶のせいでもなく、風呂上がりだからでもない。アルスが傍にいるからで、今は胸の高鳴りはなく寧ろ安らぎすらフェリネラは感じていた。
脱力するように心地よい。
「だが、フェリが無事に帰ってきたのだから、俺はテレサ准将のやり方に文句はない。助けるべき生命を間違えなかったんだから」
ポッと染まる頬に反応しないようにフェリネラは寄りかかったまま瞼を閉じる。
「俺から言えることは迷うな、というだけだな。誰にも未来なんてわからないんだ。自分が信じる道を進めばいいさ。こんなことしか言えないが、フェリなら大丈夫だろう」
「はい……私にできることを精一杯……」
ゆっくりと紡がれる声はフェリネラの目尻を下げていく。積もった不眠が静かに彼女を眠りへと誘いつつあった。
「あぁ、俺にできることがあれば言ってくれ」
彼女が生命を懸けて戦ったことに対して、アルスはお礼にそう口をついた。
すると、夢と現の狭間でフェリネラは甘えたような声を発した。それは半分睡魔に襲われ、辛うじて薄ぼんやりとした意識の表層を無意識に口にしたに過ぎなかったのだろう。
だから今、最も彼女が欲した言葉が紡がれた。
「でしたら、もう少し……もう少しだけこのままで……いさ、せて」
「お安いご用だ」
肩に頭を預けてフェリネラはすぐに小さな寝息を立てた。随分と寝ていなかったのだろう、目の下の隈が休まることを強要するかのように彼女を深い眠りに連れ行く。
その間、アルスはただただじっと支えとなって彼女に肩を貸し続けた。彼女の意識が最深部で休まるのを待ってからアルスはそっとフェリネラを抱えてベッドへと運ぶ。
見かけによらず、というべきなのか、見かけ通りというべきなのか。どちらにしても羽のように軽く感じる。それは今の彼女が酷く憔悴しているからなのか、はたまたその寝顔が綿毛のように安らかなのか、いずれにせよアルスは軽々とベッドにフェリネラを運んだ。
布団を掛け、冷たくなった紅茶を空にしてから、室内の明かりを消してアルスは部屋を後にした。
・「最強魔法師の隠遁計画」書籍化のお知らせ
・タイトルは「最強魔法師の隠遁計画 1」
・出版社はホビージャパン、HJ文庫より、2017年3月1日(水)発売予定
・HJ文庫様の公式サイト「読める!HJ文庫」で外伝を掲載させてもらっております。
(http://yomeru-hj.net/novel/saikyomahoushi/)




