心の支え方
最上階へと上り詰めたアルスは妙に落ち着いた雰囲気のある廊下に出た。
この階は最上級生や寮長の部屋があるらしく、階下の若さ溢れる空気感とは違い、ゆったりとした上品な雰囲気が階を彩っている。
調度品や淡い赤のカーペットがシックな内装を演出していた。階下の色めいた活気は急かされるような気持ちになるが、最上階は安全地帯のように安らぎすら抱かせてくれる。
足取りもいつの間にかゆったりとカーペットの微かな反発を踏みしめるように緩やかなものへと変わっていた。
等間隔に置かれる花瓶がこの階にしかないのは、事故で割られる心配がないからかもしれない。
守衛の指示通りの部屋番号を見つけ、そこに寮長であるフェリネラの表札を確認する。脇に備え付けられているインターホンを軽く押し込むと扉の隙間から、澄んだ音色が漏れてくる。
「少し待ってもらえますか」という声が室内の奥から微かに聞こえ、アルスは一先ずドアの前で待機する。女性の部屋の前で待つ姿を誰かに見られたくない、という心理状態であっため、アルスは若干ソワソワしていた。
先程はイルミナのおかげで難を逃れたが、立て続けに助けてくれるとは考えづらい。彼女はアルスとは別方面に歩いていってしまったのだから、今見つかることはできれば避けたかった。
まさか、許可証がこれほど頼りないとは思いもしなかったのだ。首から下げているただの飾りと化している。
それからほどなくして扉のノブが六時の方向を指し滑るように開いていく。そこから顔を少し覗かせたフェリネラは目を見開いて一瞬硬直した。
来訪者が誰なのか、確認しなかったのだろう。ここが女子寮であることを考えれば大凡同性がその割合を占めているはずだ。
であるからして彼女は友人の誰かとでも思ったようだ。
「アルスさん!?」
「こんな時間にすまない」
やはり日を改める必要があったようだ。彼女の顔は驚愕とは別に端正な顔立ちで、仄かに上気していた。
艶やかな髪からはシャンプーの柔らかい香りが漂ってきた。シャワーを浴びた直後なのだろう。
髪もブラシで梳かされたように、細い髪は一本一本列を乱すことなく真っ直ぐ垂れ下がって光彩を放っていた。
輪切りにカットされたようなオフショルダーの部屋着。乳白色の肩は照明の灯りを反射しているかのように滑らかだった。ゆったりとした作りの上下、育ちの良さが窺える服装だ。
さすがにテスフィアの部屋に訪れた時のように、更に待たされることなく、フェリネラは少し気恥ずかしそうに中へと勧める。
「疲れているところすまなかったな。そんなに長居するつもりはないんだ」
「お気になさらないでください。一人ではあまり気が休まらないので、ご迷惑でなかったら話し相手になっていただけませんか?」
少しやつれた頬、その笑顔はアルスには儚く映ってみえた。肉体的な疲労というよりも精神的なものが原因だと一目でわかる。規則正しい生活をしているはずのフェリネラの目は十分な休息が取れていないことを表していた。
「俺でいいなら」
彼女の申し出を断るわけにもいかず、アルスは先導されるがままに入っていく。寮長はその特権なのか、相部屋ではないようで、その分間取りも他の生徒と比べると広い。必要最低限の家具に嫌らしくない調度品、高価なものなのだろうが、決して鼻につくものではない。良いブランドの物は得てして用途を履き違えないものだ。失礼を承知でアルスは吸い寄せられるように室内を見渡した。
テーブル一つとっても過剰な装飾はなく、凝ったデザイン性を重視している。室内にある一つ一つがフェリネラという人物の感性の断片であるかのようだった。
入った時、ここに彼女がいることが凄くしっくりくる気がする。
アルスに二人がけの小じんまりとしたソファーを勧めて、フェリネラはキッチンへと入っていく。
そして先程のシャンプーの香りが室内に滞空しているのか、フローラルな匂いがする。どこかで似た匂いを嗅いだ気がするのだが……。
「不思議な匂いだな……」
懐かしい気はするのだが思い出せない。ただこれだけはわかる。この匂いの記憶はおそらく外界のものだ。
「お気に召しましたか? 以前、外界で爽やかな香りの花を見つけて、作っていただいたんです。外界にだけ自生する種類だとかで」
「それでかな……凄く落ち着く」
湯気を上げるカップを二つ持って、フェリネラはクスリと微笑んだ。髪が入ってしまわないように膝を曲げてガラス張りのテーブルの上へと置く。
「まるで外界の方が落ち着くようなことを言うのですね」
差し出されたのは香草の香りがする紅茶だった。以前、ロキにもアルスの好みを把握するためいくつか試飲させられたが、そのどれにも当てはまらない深く身体を抜けていくような香りだ。オリジナルなのかもしれない。
「そっちの方が気は楽だ。内側はごちゃごちゃしすぎるからな」
「アルスさんらしいですね」
「らしいか?」
「はい。世界広しと言えど、そんなことを言うのはアルスさんぐらいでしょう」
「特段不思議がられるようなことを言ったつもりはないんだが……そうか、それは残念だ」
多くの意味が込められた言葉をフェリネラは(あぁ、やはりこの方には世界がそう見えているのですね)と感慨深く胸の中でつかれた。一方で心が満たされるようでいてチクリとした寂しさをも抱く。知れたことの嬉しさは、彼が外界で見てきた物の美醜を物語るのだ。
いやという程、外を知った彼の口から出た外界を指す言葉は、魔物以外の多くを、見るべき多くを語る。
それこそ見てきた者が知っている優越感のようにさえ感じられた。
フェリネラが向かいに座るのを見て、アルスは紅茶を一口含んだ。香りが濃いという表現をアルスは好まない。紅茶に好みはあるが、言ってしまえばそれほど詳しいわけではないのだ。だから香りだなんだと言っている自分が通を気取っているように思えてしまう。
しかし、今回のは段違いに葉の香りが全身を包んだように錯覚した。身体が温まる一方で嗅覚以外で香りを感じ取れたのだ。自らが芳香を放っているかのようだった。
じわりと胸の奥が軽くなるのを感じる。
今ならば決して神経がささくれ立つことはない、と断言できるほどにリラックスできていた。
「紅茶にこんな楽しみ方があったとはな」
「専門知識はありませんが、ブレンドする茶葉の比率を考えているんですよ。ロキさんほど上手に淹れられませんけど、嗜み程度には」
客人であるアルスが先に口を付けてからフェリネラも一口……両手で温まるように持ち、口へと運んだ。
たった一口で堪能したのか、フェリネラはふぅ、と細い吐息を漏らす。そうすることで彼女は悟られないように緊張を解そうと試みていたのだ。
自室に男を入れることなど生まれて初めてのことで、それが夜ともなれば、最近の寂れかけた心が勝手気ままに跳ね出す。
だからいつもより香りの強い茶葉を選んだのだ。ある意味では気分が一新したことに変わりない――ある意味では。
心強い相棒でも得たようにフェリネラはカップを持ったまま膝の上に軽く載せる。いつの間にか、その足は膝がくっつく程に閉じられていた。
彼女は少し上目遣いにアルスの様子を窺った。
「アルスさん、外界の方が危険は多いと思うのですが……それでも、そちらの方が気が楽ですか?」
「んーいや、単純に悩みごとが少なくて済むからそう言っただけなんだが。改めて聞かれると考えさせられるな。でも、単純に気が楽だから、という理由だけでもない、な」
少なくともこれから協会主導の各学院から選抜されたメンバーでの外界調査を控えた身としては気になる言葉だった。外界という場所が戦闘以外に何も生まないと思っているからなのだろう。それは魔法師全員に言えることなのかもしれない。外界では全神経を外敵に向けていなければならないからだ。
自身も幾度と外界へと出てはいるが、今回は部隊の指揮を任されている。
故に隊の生命を預かる身として訊いておきたいと感じたのだ。このままでは及び腰になってしまって正しい判断を下せる自信がなかった。重圧は実戦前に彼女に精神的負荷を与え続けていたのだ。
それも隊員のメンバー全て顔見知り、副官を務めるのは旧知の仲であるイルミナだ。だからフェリネラが指示を間違えれば彼女たちはあっという間に帰らぬ人となる。
隊長という重責はフェリネラが考える以上に神経を磨り減らせた。協会からの戦術マニュアルを何度読み直しても不安は拭えない。
彼女は寝る間際になって毎夜想像しているのだ。あーしよう、こうしよう、あの時、この時……だが、振り返る言葉はすでに手遅れな状況となっていることに気が付く。
あの時に、この時に……自分はこう動き、隊員は……その時にはフェリネラの脳内には隊員など一人も残っていないのだ。
その悪夢は、きっとあの戦いが原因だった――あの人間同士の殺し合いが。
しかし、そんなこととは関係なくアルスは口角を持ち上げて面白そうに語りだす。
「例えばこの淹れてくれた紅茶だが、フェリは外界で取ってきたといったな」
頷き返し、一度自らのカップを覗き込む。個人で取ってくるため量的には少ない。
「外界には魔物がいるが、自然は豊かに過ぎる。魔物は人間と相容れないものだが、自然とは共存できているんだ。もちろん魔物の性質上、自然の摂理から外れているが上手くやっているのは間違いないだろうな。魔物は人間のみを標的とするが、不思議なことに故意に自然を破壊しない。自制というものがあるかは知らんが、昼間は人間さえいなければ大人しいものだ。もちろん、例外はあるがな」
「つまり、理があるということでしょうか」
軽く首を振ったアルスはカップを持ち直す。
「そんな難しい話じゃない。魔物にも審美的感覚があるかもしれないということだ。それは俺ら人間とよく似ているのかもな」
魔物が出現して以来、森林は広がり続けている。その生態は過去類をみないほど進化しており、すでに成長速度は異常なほど早い。
呆気に取られたフェリネラは揺れる湯気の向こうで小さく微笑んだ。
魔物と人間を同列視するのは禁句として暗黙のルールが存在する。そんな中でさも当たり前のように事実だけをアルスは発していた。
それは異端なのかもしれない。
それでも……。
「そのようですね。魔物も花を愛でるだけの感受性があって何よりです。こうして美味しい紅茶が飲めるのですから」
「それを淹れてくれる人もいるのだから至れり尽くせりだ。ようは視野を狭くしないことだ。外界には魔物以外にも見るべき多くのものがあるからな」
穏やかな雰囲気に和みつつも、アルスは自分がここにきた目的を忘れなかった。
それを察したのか、変わらぬ静寂が一呼吸分降りる。
「フェリ……」
「何でしょうか」
「先日の件、力を貸してくれてありがとう」
「――!!!」
先日、それが指し示す出来事はフェリネラもすぐにわかった。何せ今も彼女の脳裏にこびりついて離れない光景があるのだから。
故に、今も尾を引いて隊長としての重責にリスクを考えるようになっている。
目の前で1位に頭を下げられる事態にフェリネラは溢しそうになったカップを慌ててテーブルに置いた。
「アルスさん、やめてください。私が好きでやったことですし、それに……お礼を望んだわけでもありません」
口に出して行動原理を探ればやはり単純な答えしかでてこなかった。きっとアルスを取り巻く人々はそういう人達の集まりなのだろうとも思う。
胸に手を添え感じ入る。あの時は感情の赴くままに父であるヴィザイストに頼み込んだのではないのだ。これまでとは確実に意思決定までに迷いがなく、それと同時に大きな前進でもあった。
我が身を省みない、この一点においてこれまでとは決定的な変化があったのだ。
「私は、私ができることをしたかったのです。アルファのためでもなく、ソカレント家のためでもなく、一人の女として心を偽るわけにはいかなかっただけなんです。これが私のやり方なのです」
「珍しく、無茶をするなぁ」
「はい。私に無茶をさせるのはアルスさんだけですから……ですから無茶をさせてください」
軽く頭を傾けて誇らしげに顔を綻ばせる。言葉以上に感情が込められた台詞は彼女の頬に紅を差した。室内の温度が高いばかりではないのだろう、紅茶を飲んでも暑いというほどではなかった。
しかし、アルスとフェリネラが感じる温度差は確かにあったのだろう。
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・タイトルは「最強魔法師の隠遁計画 1」
・出版社はホビージャパン、HJ文庫より、2017年3月1日(水)発売予定
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(http://yomeru-hj.net/novel/saikyomahoushi/)




