教えの教え
さすがのアルスでも見ない顔はできない。吹き飛ばされた少年へは一瞥もくれずにアルスは項を軽く擦った。
それでもロキのこんな顔は今までに見たことがない。
感情を表現するための表情は一切窺えず、唯一感情が籠もったのは殴り飛ばした拳だけだった。
「申し訳ありません」
この先の厄介事を先読みしたのか、ロキはすぐさまアルスへと勢い良く頭を下げた。
彼女が行動に移さざるを得なかった理由をなんとなくアルスは察した。いいや、我関せずと距離を取っていたから失念していた。
アルスが聞き逃せない言葉ならば、ロキにとってそれは我慢を超える言葉なのだ。
だから、アルスは「いいや、たぶんそれが正しい」とロキの頭に手を置いた。それは暴力を正当化するための肯定ではなく、彼女の感情の昂りに対してだ。もっともこの訓練場において暴力による被害というのはピンきりではあるが。
「ただ、ちょっと短気過ぎやしないか?」
「アル、謝罪はしましたが、これは短絡的な行動に対してではありません。同じ言葉を吐くなら何度でも……」
瞭然たる害意、とでも言うようにロキは無感情に手を開閉してみせた。
溜息を吐きたくなるのをアルスは堪えた。厄介なことではあるが、自分のためであることを考えれば言葉に詰まる。
危険な目に……そう少年は言った。
外と内とを隔てる壁が取り去られたものの、直接的な脅威に繋がるものではない。だから、生存圏内での安全神話は擦り込まれた固定観念なのだろう。そして、それは今も続いていた。
アルスはたまに思うことがある、これほど人類が追い詰められておきながらそこに暮らす人々はどこかで安心しきっているのだ。
そう、人は自分や身近な存在に危害が加わらない限り、遠くで起きた事柄についてやはり他人事である。いや、表面的に擦り込まれた常識や行動規範に従って装うのだ。親身に考えることなど本当の意味ではできないのかもしれない。
誰かが事件に巻き込まれるとする、それは映像一つ通すだけで容易く現実味を薄れさせる。そして一般的な反応・常識に従って「心配だ」と知らない誰かへと空々しい言葉を吐く。
今までそれは気持ちの悪いことだと考えていた――自らを偽る言葉に……しかし、今、少年やロキの行動を考えれば、ふとアルスは思う。
もしかすると、誰かを本心では心配したり、励ましたり、喜ばせたりするのはそうありたいと願っているからではないだろうか。
人は誰しも正しくありたいと願う、だから正しい姿を思い浮かべて言葉を紡ぐ。それに感情が追いつくようにと。
そう思えば、ロキの怒りは彼女の中にある正しさに従った故の行動なのかもしれない。だからアルスはロキの行動を咎めはしなかった。
少し嬉しく思えてしまったのだから。
とはいえ、できれば自らが率先したいところではある。やはりアルスにはまだ感情を優先させるだけの行動力はないからかもしれない。時には感情に従って身体が動く経験をしてみたいものだ、と考えていた。
そんな感慨深い考察をしていると、さっそくロキは熟達した魔法師独特の鋭い目を無知蒙昧な少年へと向けた。今のが開始のゴングだとでもいうように。
「さて、無知が罪であることを彼に教えてあげなければ、少し待っていていただけますかアル。すぐに終わりますので」
「やめとけ……」
時間はかけません、と告げるそのぎこちない笑み。
しかし、アルスは腕を上げてロキの進行を遮った。彼女の目にはその先の少年しか映っておらず、また、制止が急だったためにアルスの腕はロキの細い首へと綺麗に嵌った。
「またそれですか」と顎をアルスの腕に乗っけ、制止が掛かるとわかっていたような呆れた目が向けられた。
「それより、おい!」
しかし、アルスは返す言葉もないままに機を逸したテスフィアへとぞんざいに声をかける。
テスフィアとアリスは後輩に拙いながらも手解きをしていると聞いた。おそらくそれが少年のことなのだろう。少なくとも新入生にしては魔力の流動がスムーズではあった。魔力操作の基礎、それは誰かの助言なくてしては気づくことすら難しいはずだ。
アルスが二人に教えた技術は全ての魔法師にとって非常に有用であると同時に、学院の生徒にとっても実力を付ける近道ではある――必ずしも順位に反映させるものではないが。
だが……。
「お前ら……」
居心地が良さそうにロキの顎は今もアルスの腕に乗っている。さすがに疲れたアルスはそっと腕を降ろした。それを名残惜しそうに落ちる腕の後を追っかけて見下ろすロキであった。
「な、何かしら? 目がちょっと恐いわよ?」
それからアルスの冷たい眼差しを受けてテスフィアは恐る恐る応対する。
「呆れてるんだ。お前ら、技術だけを教えただろ」
「うっ……それは……」
「別に責めるつもりはないが、罪悪感を抱くぐらいなら、あまり無責任なことをするな。……それにしても、酷いな」
テスフィアやアリスは下級生に対して持てる知識や技術を教えたのだろう。それはいい、学内でも多く見られる光景だ。
ただし、面倒を見る、という段階までいったのならば魔法師というモノを理解しなければならない。外界というものを肌で感じなければならない。
傷? 怪我? そんな単語すら出てこなくなるはずだ。ようは怪我すらしたことのない者が魔法師として外界に出るつもりらしい、なんの冗談だと、アルスは眉間を摘んで気を紛らせようと試みた――それで何かが解消するはずもないと知りながら。
しかし、テスフィアとアリスの性格を知っているアルスからすれば、この二人が魔法師としてのあるべき姿を説くことなどできないだろう。本人達が知るのはアルスだけなのだから。そういう意味でも二人は今、その魔法師――外界に出る魔法師――というものを少しは自覚できたはずだ。
軽く眉間を解したアルスは今の新入生に対して「酷い」と溢さずにはいられなかった。
昔のテスフィアを見ているようでもある。
アルスの視界ではメインが毅然と立ち上がり、変わらぬ目を向けていた。
そこへ猛スピードで近寄る少女はアルスを追い抜き、一直線にメインの隣まで駆け寄った。クルンッと慌ただしく反転して向き直ると、強引にメインの頭を鷲掴みにして下げさせた。
一緒に頭を下げたのはフィオネだった。軽く視線を隣に移しながら声を押し殺して隣の少年にだけ聞こえるように調節する。
「あんた何やってんの!! アルス様に向かって一度ならず、二度も……少しは目が覚めたでしょ!」
「この程度の頭痛」
「バカッ! 誰に何をされたかすらわからなかったくせに。いい? あんたは世間知らずなんだから余計なことはしないで、お願いだから」
フィオネは遠くから見ていたし、話し声も聞いていた。おそらくパートナーであるロキという少女がメインを吹き飛ばしたのだ。1位のパートナーというだけでもその実力は遥か高みのはずだ。そこまでは予想できた。
しかし、根本的な問題として相手は本来気軽に話すことすら許されない存在なのだ。
「友人が失礼をしました。先輩方も訓練中にご迷惑をおかけしました」
だからフィオネは一先ず、先輩方に頼らざるを得なかった。奇しくもテスフィアとアリスは1位と仲が良いようなので、間に入ってもらい難を逃れる、という案しか残されていなかったのだ。




