譲れない感情
◇ ◇ ◇
区画内に響いた声は誰が聞いても、含まれる感情を読み取ることができる怒声。
もちろん、区画内への出入りは自由である。それが蝶番の付いたドアだったならば軋みを上げるほどの勢いで開け放たれていただろう。
実際、アルス達が訓練をしている区画へと無遠慮に入って来たのは見るからにひ弱そうな体躯の男子生徒だった。
アルスから見ても華奢な体つきである。それでも少年の瞳は確かに男であることを証明するかのような力強さがあった。
テスフィアを抱えながら、闖入者によってアルスの足は動きを止めていた。訓練中に区画内に誰かが入ってきたことは初めてだし、何より今の訓練を見てもなお、接触を図ろうとする者がいようとは思いもしなかった。テスフィアやアリスが1位に手解きをしてもらっているという事実はすでに多くの生徒が知っているだろう。
いずれは不公平だという声も上がるはず。二人にその不満が向くか、もしくはアルスへと指南を求めてくるかのどちらかだ。
だからこそ今の訓練を見ればその気も失せるだろうと予想していたし、ほぼ確実に断念すると思っていたのだ。
つまり、この少年はアルスにとっては予想外であった。
「先輩を放せ!!」
感情の赴くままにメインの身体中から魔力が迸る。無意識なのだろうその魔力は腰に下げた剣型AWRを象り始めていた。それは威圧といって差し支えのない敵意だった。それでもなお、半透明の魔力は靄のような細い揺らめきをみせる。
言い草こそ威圧的だが、アルスとしては手間を省いてくれるのであれば何も問題はなかった。腕の中では少年の強引な登場に対しての意外感から、テスフィアはすぐに自分のことだと気が付かなかったようだ。
が、少ししてこの状況を後輩に見られるという羞恥が襲ってきたらしく、テスフィアは軽くアルスの服を引き、降ろして欲しい、と暗に告げた。
アルスは射抜くような鋭い視線を真っ向から受け、ふとどこかで見た顔だと思っていた。名前は知らないが。
特段気にかけるような重大な見落としではないはずだ。それこそ意味のあることならば早々アルスが忘れるということもないだろう。
故にアルスはテスフィアを降ろしてそんな気がした程度で、それ以上深く考えなかった。
直後「どうしたのメイン?」とテスフィアは、普段見ないメインの怒りの感情を問う。少なくともテスフィアの知るメインは積極的というよりは消極的な性格をしており、真面目で温厚な人柄であった。
だから、彼が今、何に対して本気で怒っているのか、すぐさま理解できなかったのだ。
当のメインはテスフィアの拍子抜けするほどの、それこそいつも通りの声音に毒気を抜かれたように慌てて駆け寄る。
「大丈夫ですか、テスフィア先輩……」
「う、うん……ちょっと痛いけど」
二人並ぶとテスフィアよりも身長が低いせいか、姉弟のように見えなくもない。
メインの視線はテスフィアの身体へと隈無く注がれる。その顔は次第に苦々しくも強張っていく。あまりにも痛々しい傷。健康的な白さと傷や染み一つない肌には似つかわしくない生傷が走っていた。
その中でも紅く割れたような傷はこの訓練場内ではありえないものだった。いや、この安全という守りで固められた学院内では重症でしかない。
メインは「すぐに保険医に見せましょう」そういってテスフィアの腕を掴んだ。
「ちょっとメイン、待って! ッツ!?」
強引に連れ出そうとする後輩に、テスフィアは急な動きによって駆け抜ける傷の痛みから顔を顰めて抵抗する。
「あ、すみません。大丈夫ですか?」
「大丈夫大丈夫、だから少し落ち着こう、ね。これは訓練なんだから」
「――!! 何を言っているんですか!? あれが訓練なわけないじゃないですか。現に先輩は……一方的に暴力に晒されただけ、で……これだけ深い傷を」
「いや、だからそれは……」
実際のところテスフィアもアリスもこの訓練の真相を知らない。裏技だとロキは言ったがその効果のほどは実感し難いものだ。だから上手く言い返すことができずにいた。これまでの訓練とは主旨も目的も何もが同じ模擬戦でも違っていたのだから。
一先ず、言えることは少しの安堵は覚えているのだろう――偽りだった本気に。もっとも、明確な変化も感じていた。それは意識の深くで靄が晴れたように冴えた気がしていた。
おそらく座り込んだままのアリスも同じはずだ。生と死をこれほど実感できたことは過去一度としてなかった。
今でこそわかるが、一年時の課外授業では生にしがみつき、どこか死というものが麻痺していたようにも思えた。
だから今の二人はそうした根源的な恐怖と向き合えたのだろう。少しだけ視界からフィルターが外されたようにクリアな景色を見せていた。
自らが発する呼吸、その息遣い、身体中の筋肉の動き、血の巡りと魔力の流動。そうした見過ごされるべき当たり前のことが、今は鋭敏な神経で感知できていた。これを言葉で言い表すことは難しい。
メインはテスフィアを追い抜き、丁度背中に隠すような位置にまで歩くと、鋭くアルスへと視線をぶつけ。
「あれが1位の、魔法師の頂点と言われる方のする訓練だって言うんですか。僕にはあなたが先輩方をいたぶっているようにしか見えませんでした」
「いたぶっている、か。まっ、間違ってはいないな」
その言い草にメインの視線は一層険しくなり、握られた拳はなおも力を込め続けている。
背後ではテスフィアが「他に言い方!」などと言いたげに天を仰ぐ。
もっともこのイレギュラーすらも、さしたる問題でないようにロキは変わらずアリスへと歩み続ける。しっかりと聞き耳を立てているあたり内心穏やかとは言い難いのだろうが。
「ふざけるな! 一歩間違えれば先輩だってこの程度じゃ済まなかった」
「かもな……」
「――ッ!! あなたの道楽で先輩方を危険な目に合わせるな!」
いつか見た瞳の色を見て、アルスは頭痛を覚える一方で、聞き逃せない言葉に耳を傾けてしまった。これを入学時に聞いていたら、きっと喜んで少年の肩を叩けただろう。
しかし、今は……。
「メインッ!!」
「――!!」
声を張ったのはテスフィアだった。だが、彼女の言葉は少し遅かったようだ。
一瞬アルスは目を見張った。目の前まで一瞬で移動してきた人影、その勢いのまま少年の横っ面を拳で強打したのだ。
盛大に殴り飛ばされた少年は地面を無様に転がり、土煙を昇らせて止まった。呆然とすぐに身体を起こして自分が元いた位置へと目を向けた。
そこには銀髪の少女が小さな拳を振り抜いた姿があった。
アルスは普通に対話を以って答えを出しておきたかったのだが。それは少年に対してではなく、自分に対しての答え。今となっては答えもろともどこかに吹き飛ばされてしまった。
魔力を纏った拳程度故に一応置換設定が低くても頭痛へと変換はされたようだ。
これでもう、軽くあしらうだけでは済まなくなってしまったかもしれない。まさかこれも揉め事として理事長に呼び出しを食らうことになるとは考えたくないものだ。
アルスの頭痛は置換によるものではなく、間違いなく憂慮からくる精神的ダメージによるものだった。




