手加減なしの訓練
「ちょっと待って、手加減しないって嘘でしょ?」
殺気に怯まず、テスフィアは虚勢を張った言葉を紡ぐ。これはあくまで訓練の一環、その延長線上であることを念を押して確認するように。
未だ、状況を理解していない彼女にアルスは冷めた目を向けて告げた。
「甘いことを言うな。お前らがなりたい魔法師は、そういうところで常に生命の危機に晒されているんだ。きっと大丈夫、最後には必ずなんとかなる、そんな希望は捨てろ。自分で考えろ、生き残る術を見つけろ。そして慣れろ。この訓練を意味あるものにするかはお前ら次第だ」
「でも、ここは学院よ。それも訓練場……」
縋りつくような悲痛の声をテスフィアはアルスの目を直視せず、そのすぐ下、首元あたりに視点を固定してやっと紡いだ。
「うだうだ考えるな。お前らは今、必死に自分を守ることだけを考えればいい。言っただろ、これは裏技だ、リスクもなしに得られるものはない。だからお前らは余計なことは考えるな、軍でも毎年この手の演習で何人かは重症を負う者もいるし、最悪死ぬこともあるんだからな」
絶句したように言葉に詰まる二人を他所にスゥッとアルスは思考を戦闘モードに切り替えた。これから全神経を集中しなければ恐らく、事故は起こるだろう。彼が手を抜けば訓練の意味はなく、かといって言葉通りに手加減をしなければそれこそただの……暴力だ。
「アリスもいいな」
「…………うん」
真っ直ぐ見つめられ、アリスは反射的に頷く。それから一拍おいてから返事をした。
ロキが参加しないのは彼女には不要であると同時に、万が一のためだった。アルスの思考が二人を敵と認識してるため、外野からのアクションを想定していない。そのため、一瞬とはいえロキが介入すればアルスの思考を寸断することができる。
だから、もしかするとこの中でロキがもっとも神経を研ぎ澄ませているのかもしれなかった。彼女はほぼ常に魔力ソナーを飛ばし続けなければならないのだから。
置換システムの置換値は大凡見当がついているアルスは少なからず二人にダメージを負わせることを覚悟の上で臨戦態勢へと入った。
本当に殺されるという認識をまずは二人に植え付けなければならない。憎まれ役ではあるのだろう。それでも飛躍的な効果が望める以上、避けて通ることはできなかった。
開始のブザーは必要ない。殺気を放った時点ですでに始まっているのだから。
そのあたりも二人にはわからせなければならない。
本質的な死の回避方法……それはやらなければ、やられるという至極単純なものであり、それを彼女達はまだ知らない。
だから、まずアルスは弾かれたようにテスフィアとアリスの間に移動し、右手側、テスフィアの腹部へと蹴りを見舞った。そのまま、軸足を回転させて振り返り様にアリスへとAWRを薙ぐ。
「これぐらいはまだついてこれるか」
速度的には彼女たちが反応できるか、というギリギリラインだったが、テスフィアは瞬時に刀を引き抜き蹴りを防いでいた。そしてアリスも金槍の柄で防御している。
が、二人ともその威力に耐えることができず大きく後退を余儀なくされている。吹き飛びながらも体勢を維持しつつ、アルスから視線を一瞬たりとも逸らしていない。
――やはり、これだけの戦闘技術があればいつでも実戦投入できるレベルだ。だからこそ早く見極めさせない、と……。
確実に外界の洗礼を受ける、と続く言葉をアルスは飲み込んだ。学生の今しか、多くを学ぶことはできない。その時間が卒業後では少なすぎるのだ。
「本当に、本気なのね」
蹴りを防いだ刀越しにテスフィアが決心のついた瞳を向けてくる。
じっと見守るアリスも同様に覚悟を決めたようだ。
しかし――。
「本気、か。今ので済むわけがないだろ……これからだ」
最後まで言い終えるか、終えないかの刹那。
アルスの姿は確実に二人の視界から掻き消えていた。
テスフィアは背後でぞわりと背中が泡立つのを感じた。それは殺気というほど感覚的なものではなく、もっと明確な死の予兆。勝つ勝てないといった過程の話ではなく、すでに決まってしまった確定事項として身体が受け入れてしまっていた。心が奮い立つことをやめてしまったのだ。
背中越しでもわかってしまうほどの濃密な魔力、攻性魔法が構築された証だった。その標的は無論テスフィアであった。
「…………!!」
振り向いた時、テスフィアは目の端で何か……真っ赤な光の瞬きを見た気がした。それは一瞬で真っ赤な熱と衝撃を直に伝えてくる。
【空置型爆轟】であった。もっとも、アルスとレティが得意とする【空置型誘爆爆轟】は改良型であるため、アルスが今使ったのは改良前の魔法だ。
それでも最上位級に属する高位魔法である。
反射的にテスフィアは氷の壁を生み出したが、一瞬の衝撃は構成もろとも破壊していった。そして至近距離で暴力的なまでの衝撃と熱波をもろに受けたテスフィアは全身を強く打って吹き飛ばされた。
それこそ、砲弾にでもなったかのように。
これを訓練だからと安心して見ていられるはずもない下級生たちは皆、一様に蒼白となった顔で目を逸した。置換システムがあることすら忘れて目の前の攻撃に対して、自らを守るように顔を腕で覆う。
そしてゆっくりと再度戻された時、彼らは限界まで目を見開いた。それはこの訓練場で、あってはならない光景を連想してしまったがためだ。
そして肝心のアルスの姿は親友の安否を心配するアリスの背後。
振り向くことすらせず、アリスはなりふり構わず、真っ先にしゃがんだ。その頭上を短剣が凄まじい速度で抜けていき、毛先が斬り落とされる。
魔力を纏ったAWRであろうが、その切れ味は最低に設定された置換上限をゆうに越えていた、ということだ。
アリスはしゃがんだまま金槍の柄尻で背後を突く。
この攻撃自体、彼女の固定された訓練によって習慣付けられたものだった。アリスはこの展開をも予想していたのだ――それを甘さと知らずに。
きっと間一髪で交わしたアルスが不敵な笑みを浮かべて互いに距離を取る、のだろうと。
それで仕切り直しだ。これまで通りだ。こちらの魔法を容易くいなし、弱点を指摘するように掻い潜ってくるのだろうとパターン化された思考。
その間違いに気づいたのは背後へと突いた金槍とは別にその殺意は真正面へと移動していたからだった。
彼女達はこれまでの訓練がいかにアルスの手心が加わっているのかを知らない。だから、まさに今起きていることは手加減なしの攻撃だった。
そう、今まで彼女達が魔法を繰り出せたこと自体、アルスが手加減していなければ不可能なこと。
「……!?」
真正面を見ていたアリスでさえもアルスの姿は捉えきれなかった。
だって、まるで視界を遮られたように目の前には掌が至近距離で広げられていたからだ。そしてアリスの身体は見えない壁に撥ねられたように吹き飛んだ。
それはドンッと魔導車に撥ね飛ばされたように全身が軋む衝撃を伴った。
金槍を手放さなかったのが、意識を手放さなかったのが不思議なほどの威力。同時にズキンッとこめかみに電流が走ったような痛みが刺した。
辛うじて吹き飛んだ後の対処に思考を割くアリス。
どんな状況でも油断するな、その教えに従うべく、彼女は暴力的なまでの衝撃から脱しようと薄く目を開ける。
が、視界に映る色は薄暗いものだった。
どんどん濃くなる。
ハッと気づいた時には着地すら許さず、頭上ではアルスが短剣から伸びる長大な魔力刀を形成して、かつそれを高らかに振り降ろす寸前だった。
もう、何もできない状況。防ぐだとか、逃げるだとか、それすら許さない一瞬。もう目の前には鮮やかでありながら、鋭い魔力刀が鼻先まで迫っていた。
その刹那……アリスは目を瞑っていた。
しかし、その時は訪れなかった。
そして、地面を転げ回るほどの速度で吹き飛んだ身体はふわりと抱き止められるように停止していた。
目を開けた時にはアリスは地面に寝かされた状態。
慌てて身体を起こす。傍にはアルスの背中があり、彼は立ち尽くして顔をもう一人の少女へと向けていた。
「いいか、最後の最後まで目は瞑るな。身体が硬直するから怖がるな……いいな」
殺意に満ちた今のアルスは吐き捨てるように言い渡すことしかできなかった。何せ、もう一人の赤毛の少女はなんとか立ち上がろうとしていたからだ。
そう、傍目には凄まじい威力に見えただろう。無論、本人たちでさえ、死を直感したはずだ。
その辺りの調整は魔力操作を極めたアルスだからこその絶技といえるのかもしれない。
アリスは口から血を流して呆然とテスフィアを見た。あれほどの爆発を受けても立った彼女を見て、自分もと思うが膝が笑って上手く立つことができなかった。
何故なら口から伝った血は置換システムを越えたがために、身体へと反映されたダメージだったからだ。
脅しではなかった。本当に事故が起こり得る訓練。
いや、すでにこれは訓練ではない。本物の戦闘だ。アルスとロキ以外はそう確信した。
当事者であるテスフィアやアリスはまさにその脅威の中心にいる。




