始まりの出会い
研究室を出た頃にはまだ陽は、その全貌を遥か彼方から淡い陽光を注がせていたはずだった。確かに傾斜しており、今にもフッとその姿を隠してしまいそうではあった。
が、まさか理事長室に到達する僅かな距離で、神隠しにでもあったかのようにいなくなるとは思いもしなかったことだ。
季節柄、冷やされた風が気温を下げ、肌の上をなぞるように体温を奪っていく。それも陽が落ち、本校舎に入る直前では辛うじて太陽の抵抗が見て取れる程度。
それも後数分もせずに消え失せてしまうのだろう。
理事長に用向きの無いシエルは女子寮へと引き返し、いつものメンバーが校舎内へと入っていく。どうにもこの学院内では物々しい空気を漂わせている一団ではある。傍から見たら、さも抗議のために立ち上がった猛者のようにも見える光景だ。
アルスとしてはもう少し距離を置いて欲しい、と思って先頭を歩く。背後から聞こえる、テスフィアとアリスの会話はアルスがいなかった出来事に対してしてやったりな主旨のものが主だ。要はアルスが一時とはいえ、犯罪者として世間に白い目で見られていた時期、彼女たちも学院で一苦労あったようだ。
それに対して先頭を歩くアルスの足は少々重い。打って変わって会話に参加していないはずのロキの足はアルスを追い越しそうであった。ただ、彼女の性格上、実際にアルスを追い越すことはなく、意識的に速度を落とすということが何回かあった。
上機嫌な調子で二人の会話が歓声のように聞こえているのだろうか。
苦労を掛けているのがわかっているため、アルスは無言を貫いた。
そうして到達した理事長室は以前と変わらぬもので、その音だけでアルスの調子を表すかのように気の抜けそうなノックが数回。
すぐさま入室を許可する声が室内から漏れてきた。
「あなたはいつもそんな調子なの? 相変わらずと言うべきなのかしら……ロキも大変でしょう」
「いえ、もう慣れましたし、原因はアルにない以上仕方のないことかと」
システィの第一声にロキは縁の下の力持ちとして事実を述べた。相手が理事長とはいえ、滔々と一歩も引かずに口火を切る。
「そうとも言うわね」
しかし、なんとも含みのある言葉とともに綻ぶシスティは机の前で柔らかい視線を一同に向ける――力ある者……それ自体に原因があるとでも言いたげに経験者は口を結ぶ。
そしてシスティは長大な机を前に座り直して……一言発した。
「お疲れ様……アルス」
囁いたように紡がれた言葉は多くの感情が内包されているように響く。故に気持ちが籠もっていないようにも聞こえるものだった。ただ、その声はこの室内において驚くほど良く通る、澄んだ慰労の言葉。
失調感さえ抱いたアルスだったが、彼は軽く目を伏せただけに留めた。
取り巻く、和む空気がロキやテスフィア、アリスの頬を自然と持ち上げる。そんな満ちるムードを一新するかのようにシスティはアルスの脇に控える二人の少女へと話題を移す。
「二人共よく戻ったわね。依頼の完遂はこれから受付で受理するようにしたから二人共学生センターに行ってちょうだい。単位の免除がされないと困るのはあなたたちだから」
そう忠告するシスティに、テスフィアとアリスは声を重ねて返事をする。
これで二人の用事は済んだわけだが、当然のように小首を傾げる不自然な沈黙。理事長の意図を察せられたのはアルスとロキだけだ。
だが。
「理事長……構いませんよ。今更除け者にもできないでしょうし」
「そうね。どうも軍と結びつけて考えてしまう癖は抜けないわね。なんだか終わってみれば拍子抜けするほど変わらないのが不思議なのよねぇ」
言外に込められた意味はシスティとアルスの間でのみ交わされる。続いて「あなたたちはどこで何をしていたの?」という単純な疑問に。
「外界を散策です」と発せられたアルスの声は気軽なものだった。
「なるほどね。防護壁が解かれてから、当分は慌ただしくなるかと思ったのだけれど……勤勉なこと」
茶化すような台詞。
事実、防護壁が解かれて、その代替バベルが稼働したとはいえ、完全にバベルの効力を引き継げたわけではない。バベルの効力、その由来が変化したのであれば、それを機敏に感じ取る魔物はいる。これまでは驚異的なクロノスの魔力をその身に宿したラティファの存在が畏怖される防護壁を構築していたのだ。
それは魔物の生存競争において本能的な恐怖を植え付けるものだった。だからこそクロノスの片鱗をその防護壁に感じ取る魔物、特に低レートに関しては至近距離に押し寄せることはなかったのだ。とはいえ、その効力は風前の灯となっていたことも事実。
クロノスの片鱗という意味でいえば、ラティファの侵食率から色濃いものであったのは確かだろう。唯一のその効力の低下は否めなかったのだ。
故に低レートの魔物は以前にも増して距離を詰める傾向は予想できていたことだ。
理事長の口ぶりをアルスは軽く流す。結局はただの散策だったのだから。
協会が上手く回りだせばいずれは解消される問題だ。
「でも……本当に成し遂げてしまうとは思わなかったわ」
「良く言いますね。理事長が気付かせたんでしょう。この国の破綻、いや7カ国が抱える問題を……俺はそこから理論的に解決策を探しただけですよ」
きっと初めて出会った頃のことは忘れてしまったのだろうと、システィは思っていた。だからこそ、理事長として改めて彼が学ぶべき忘れたものを与えようとしたのだ。異例ではあるが、テスフィアとアリスを指導するように頼んだのもまたこの学院で時間を共有するためだ。
きっと彼は馴染めないだろう。それは土台無理な話だ。育った環境があまりにも違うのだから。
「ふぅ~これだからできる子は」
彼が覚えていたことがどこか嬉しいような。そんな呆れ混じりにシスティは溢した。
アルスが今回協会を設立したのも、そもそもシスティに遠因がある。彼女が軍で幼きアルスにいらない知恵を授けたというべきなのだろう。現役時代、防衛を一手に引き受けていた彼女だからこそ見つけられた致命的な綻び。ただ、それは理想論だと彼女自身も気づいていたことだ。そして避けられないこととして、7カ国は必ず瓦解するだろうと予見した。
それが内側からであるかはシスティにも予期できなかったが、結果として予想は的中してしまった。
彼女自身、まさか慰めの言葉がこうして現実に反映されるとは当時、まったく思っていなかったことだ。アルスが自らが楽に暮らしたいがための研究の大凡は薄々予感はあった。
彼の功績を考えれば、7カ国に不可欠なものに気づくと。そして気づいてしまった彼は絶対に放っておかないとも考えていた。
だが、軍がアルスを学院に入れる理由もシスティは痛いほど理解していたつもりだった。彼の研究は確かに意義のあるものだ。しかし、それは彼自身よりも優先するものではないのだろう、と総督が判断するのもわかる。
幼い頃より軍で育ったアルスに足らないもの、外しか知らない彼が知らない世界。それは最も身近である内側の世界。人に触れ合うという誰もが通るべき道を彼は知らないまま此処まで来たのだ。
そのツケは確実にアルスの心を蝕んでいた。その兆候が退役だったのだろう。彼が望む願いは、彼の見る限られた世界の中で選んだものだ。だから、もっと世界を広げて……それからでもきっと遅くはないのだろう。そうシスティは思っていた。
◇ ◇ ◇
アルスとシスティの初対面は、激動の只中だった。大侵攻を退け、多くの死傷者を出した、大災厄以降初めての大規模戦闘。
長期化するかのように思われた魔物との徹底抗戦も、蓋を開けてみればその大勢は決定的だった。大侵攻を率いたとされる高レートの魔物が姿を晦ましたのだ。合理的に考えて誰かが討伐したのだろう。
直後に、残党を殲滅するための部隊が組まれるときに、二人は出会った。
当時の三巨頭であるヴィザイスト、フローゼ、そして防衛を一手に引き受けていたシスティらは全員がこの大侵攻に駆り出されていた。
残党狩り、魔法師の死体回収のためにシスティが部隊編成、その一部指揮を担当するために動向を確認がてらヴィザイストの部隊部屋を訪れたのがきっかけだった。
その時に初めて知ったのだ。あの孤軍奮闘を好き好むようなヴィザイストが何故部隊を設立したのか。その不自然な点は部隊員を確認すれば一目瞭然。
あろうことか、件のプログラム生が組み込まれているというあまりの不自然さ。それに加えて大侵攻の大勢が決したのは高レートの消失。
しかし、その討伐を確認した者はいない。この二つの奇妙な偶然を確認する意味合いが当時のシスティを「特殊魔攻部隊」の部隊室に足を運ばせた。
そこで一人、今にも消え入りそうな少年を見て、システィは余計な世話を焼いた。それが件のプログラム生であるということは知っていたが。
彼が瞳に浮かべる色は底の見えない穴のように深い黒だった。
だから、システィは現実を見るのが、あまりにも早すぎる少年を哀れに感じたのかもしれない。最初は簡単な挨拶から……反応を示さない少年にシスティは粘り強く声を掛け続けた。
きっと聞いていない、それでも良いと自分に言い聞かせて、語り続けた。
一切無反応を貫き通すアルスにシスティは姿勢を変えて、後ろから支えるように一緒になって床に腰を降ろす。
『力を持たない者が生きていくには内も外も厳しい。そして力ある者にとっても…………人は仮初めの平和を手に入れ、安堵してしまったのね。人の美醜はその者がどう行動するかで決まるわ。これほどまで追い詰められてもなんとかなってしまう。内側の平和でふんぞりかえるだけの者は自分の生命がなくなるその時まで気づかないのでしょうね。美しくも醜い生き物なのよ人間は……ただ、その中で私たちは選ぶことができるのよ。恥じぬ生き方をしなさい。あなたが思う美しい自分でありなさい……』
そう言ってシスティは幼く、擦り切れてしまいそうなアルスを胸に抱きしめたのだ。頭に手を載せ、髪を梳かすように手を滑らせ続ける。
『きっとそう遠くない日に、7カ国は瓦解するわ。私達程度では抗えないのでしょうね。愚かしくもそれが定めであるというのなら……道を違えたまま、滅ぶのでしょうね。それでも最後まで望む自分でありたいと、そうは思わない? 悲しいことも、辛いこともたくさん背負い込んで、見つけた務めを果たした時に私達、魔法師はその本懐を真っ当できるのかもしれないわね。だから何も無駄なことなんてないの、意味は必ずあるわ、そう信じればきっと少しは楽になれるのかもしれないわね……と、ちょっと難しかったかしら』
黒い髪を物憂げに見下ろすシスティは自分に言い聞かせるようにして告げた。瓦解してしまうだろう理由、また自分が魔法師として到達した結論。魔法師の意義、そんな益体もないことを語っていたのだ。きっと何かが彼の役に立つと何とはなしに思ったのだろう。
いろいろと慰めはしたものの幼き少年のためになったとは思えないものだったのかもしれない。
つい独り言が長くなってしまったとシスティは二人きりの部屋で脱線した話を終わらせたのであった。
それからは長いこと静寂の中でアルスの頭を撫で、時には抱きしめていた。言葉は交わさずとも時間が過ぎるのは不思議と早かったのだろう。少年のことは名前と魔法師育成プログラム出身であるということ以外何も知らなかった。
それでも、この殺伐とした軍の中で唯一少年に似たものを感じたのだろう。おそらく少年は最初に述べた力のある者に入るのだから。
一時間以上もそうしていたことにシスティ自身気付きもしなかったことだ。そして彼女が切り上げるきっかけになったのは、なんとも遠慮がちなノックが室内に響いたからだった。
さすがにこれ以上は待てない、とでも言いたげに見慣れた厳しい雰囲気を纏った後ろ姿が、扉の隙間から見えた。
・「最強魔法師の隠遁計画」書籍化のお知らせ
・タイトルは「最強魔法師の隠遁計画 1」
・出版社はホビージャパン、HJ文庫より、2017年3月1日(水)発売予定
・HJ文庫様の公式サイト「読める!HJ文庫」で外伝を掲載させてもらっております。
(http://yomeru-hj.net/novel/saikyomahoushi/)
 




