隠遁への歩み
「よかったのですか?」
「何がだ?」
「いろいろです……」
アルスとロキは二人で転移門を潜り、背に広大な湖を置いて歩き出した。その水面のは少々荒々しくはあるのだが、それは二人の間に生まれた繋がりを乱すものではない。
ただ、字面だけを脳内に浮かべたアルスは不穏な空気を感じた。端的に言えば、さっそくというアルスの予想は見事的中したのだろう。
シセルニアからの勲章が授与された時にロキは意思に反して冷めた目を突き刺していたのだから。
ただし、その内容についてはややベクトルが違うようだ。
曖昧な問いにアルスはしばし黙考していると。
「彼女……ラティファさんを預けてしまったことです。それに…………」
最後の言い淀みは名残惜しい後悔を孕ませていた。先まで続けずともアルスには何となく言わんとしていることがわかった。こういう時にロキが何を考えているのか、それが薄っすらと察せられてしまう程にはこの関係は深く繋がってしまったのだろう。そういう人になってしまったのだろう。
そう思うことにして、アルスは一つ目の疑問をスルスルと答えだした。
「良かったのか、というと良かったんじゃないか。どのみち彼女には体調だけでも良くなって貰わないと」
「ならば何故イベリスの元首に?」
「それはもちろん、聖女さんに期待してだが」
応急処置として治癒魔法師を集めたが、本格的な治癒はやはり聖女を差し置いて右に出る者はいない。無論、まったく考えなしということではないが、どうせ声を掛けるのなら二度手間にならないようにしただけだ。
恐らく今、ラティファに必要なのは【魔整図】だ。身体内部の魔力をどれだけ整えることができるか、それが唯一延命に繋がる。
その考案者である聖女、ネクソリスに預けるのが最も彼女のためになるのだろう。だからこそ、ハオルグに預けたのだ。あの豪快な男もラティファの貢献を誰よりも理解している。ならば最善を尽くすと踏んだのだ。
その間にアルスは体内循環の役割を果たせる【魔整図】の完成を目指さなければならない。畑違いとはいえ、救った彼の責任だ。
そして彼女を一人にしてしまった責任でもあるのだろう。罪の意識はないが、それでも知ってしまったからには、救ってしまったからにはアルスは持てる力を尽くす義務……のようなものを感じたのだ。
「たぶん後で、ドヤされるんじゃ……」
「…………それは言わんでくれ」
というのもさすがのアルスもあの聖女相手に強くでれなかったのだ。命を救われたのもあるが、それ以上に彼女は誰であろうと一人の患者としてみる。
そこに優劣は存在しない、等しく患者なのだ。
病み上がりのアルスが早朝訓練などしようものならばベッドに縛り付けられる勢いで説教を食らったものだ。何よりもその時ばかりはロキもネクソリス側に回ったことでアルスに取っては初めての経験を小一時間ほど味わった。
虚空に思い出したくない記憶をため息として吐き出すアルスはさらりと話題を代えた。それは彼自身が予想だにしなかったからだ。
もっと深く考えていれば気づくことはできたのかもしれない、それでも結果は変わらなかったのだろう。
だからこうして口に出し、直接問う。
「それよりもロキ、お前のほうこそよかったのか? ロキまでライセンスを返還しなくたってよかったんじゃないか?」
「いいえ、アルがいない場所に居続ける意味はありません」
予想していた答えにアルスはたった一言「そうか」と相槌を打った。
いろいろと軍規に照らし合わせてもロキまで退役というのは通りづらいものだ。しかし、この機に乗じてしまえばシセルニアさえも受け入れざるを得ない……いいや、彼女もベリックも大方予想していたのだろう。
傍から見た二人はすでにセット扱いされてしまっていたということだ。
「これで二人揃って一文無しか、さてどうしたものか……!!」
その明日をも不安視する声に即座に反応を示したのはロキだった。
ささっと懐から一枚のカードを指に挟んで、アルスの視線が向くように表向きで示す。
どこか誇らしげで、その表情は一本取ったとばかりに抜かりないと告げている。
「返還はしましたが、すでに預金はマネーカードに移動しております。こういう時のために貯蓄しておりましたので」
「……恐れ入った」
研究や協会のことだけで手一杯だったアルスにはそこまで気が回らなかった。または金にそこまで執着心がないとも言えるが。
ともあれ、元々桁違いの金を一人で持て余していては経済的に思わしくないというのもアルスに限っては的を射ている。どのみち残金は雀の涙ほどしかない――アルスからすれば、だが。
「仕方ないので、当面の生活費は私が、そのための貯金でもありましたし……」
尻すぼみに声が途切れそうになった。
しかし、これではまるで共有財産に等しいのではないかとさえ思えてくる。
当然、アルス同様にロキもお金の使い道などほとんどない。正直、生活に困らない程度で十分なのだ。
彼女の性格上、自分のためのご褒美とは全てアルスを経由して与えられるものだから、それ以外については興味がないとさえ言える。
それでも学院にいたときは身なりに気を遣ったり、お洒落にお金を掛けたりもしていた。だが、それも朴念仁相手では大した効果はないと一度目で悟った。だから結局お金などあって困るものではない程度の価値観しかないのだ。
するとロキの歩みが乱れ、ぎこちない小幅に変わる。徐々にアルスと距離が開き始めた時、ロキは両手を合わせて口元と鼻を覆い、意を決したようにその組み合わさった手を真下に視線とともにゆっくり降ろす。
「し、仕方ないので、私が……私が……その、養ってあげますッ!!」
口に出してしまってから鼻の奥がツンとした。きっと熱くなった身体に新鮮な風が入ってきたためだろう。きっとそれだけだ。
しかし、他にも伝えたいことは山ほどあるのに、今はそれが精一杯だったのかもしれない。それでもロキにとっては遠回しに告げた言葉が欲望丸出しだったとしても彼を放さないための、最上の言葉だった。
もっと意識せず、会話の流れのまま言えればどれほど楽だったことか。ようはその先を想像してしまったためと、慣れない本心の発露が彼女に羞恥と心もとない勇気を自覚させてしまったのだ。
恐る恐る顔を上げるロキはアルスの腰までしか視界に収められない。そこが限界だった。
変わらぬ歩幅、追いかけるロキの歩みは彼を追い越すことができない。
即座に返事がないことが不安を募らせる。
しかし、アクションを待つロキの感覚は些細な変化も見逃さない。ふいに吐かれた息遣い。
「それは勘弁してもらいたいな……情けなさ過ぎる、かな」
「あっ……ハハッ、そ、そうですよね」
ロキとしてはそれぐらいなんてことはない。彼のために惜しむべくもないものだ。
だが、アルスの不服の申し立ては意を決した言葉をロキに撤回させてしまうニュアンスを含んでいた。ロキ自身が不用意な発言だったと撤回しようもない後悔を抱かせる。
声が出ないほどの落胆を内に感じてしまった。先程まで楽しかったはずで、いつもと変わらない雰囲気だったのに。
そんな暗い物を抱えたロキはいつの間にかアルスが隣に来ていることにも気づかなかった。頭に手が乗せられてやっと気づくに至った。更にいえば二人は意図せず足を止めている。
軽く乗せられた手はいつもとは違い撫でるでもなく、頭の輪郭に沿ってスルスルと落ちてくる。
どこかこそばゆい手つきで髪を掌に乗せたアルスは、彼にしては珍しいほど柔和で穏やかな表情を浮かべていた。
髪が掌から滑るように落ちていくと。
「一人ぐらいなら俺が養ってやるさ」
青空の下で放たれたその声に、ロキの瞳が大きく見開かれていく。空耳ではない。確かに彼の口はそう告げていた。誤作動を起こしたように心臓が跳ねている。決して苦しいものではない、それどころか歓喜に打ち震えているかのようだった。
その後の数秒間、ロキの意識は泡沫の夢の中にいたことは間違いない。風が舞い上げるように髪を躍らせる。暖かいはずの陽を遮る影はさらなる幸福という温かみをロキの内側に満たしていった。
ほんの、一秒前のことだというのに、何があったか思い出せない。けれどそれは彼女がずっと内に秘めていた想いの成就を知らせていたのだろう。離れていく影がそう告げていた。
全てがどうでもよくなってしまう程、混ざりあった感情の渦が目頭を熱くする。
まるで目の表面にレンズを一枚張ったように彼女の見る景色が揺れた。上下の長い睫毛がそっと閉じた時、大粒の雫が目の端から流れ落ちていく。
拭うのが躊躇われるその湿った瞳は一言では言い表せない想いが散りばめられているのだ。楽しかったことも、辛かったことも何もかもが合わさって溢れ出している。
それをロキが自覚する前にアルスは無言で歩き出してしまった。
彼を追いかけるために反射的に目元を拭ったロキは逃すまいと追いかけ、隣で摘んだ袖を引く。
「も、ももももう一度いいですか!?」
「嫌だ」
落ち着きを失ったロキの額を軽く小突いて、アルスは視線を遠くに飛ばした。
ロキもそれに習って彼が見る遥か遠くを視界に映す。この蒼穹がどこまで続いているのか、それは最も彼が知りたいのだろう、と思いながら。
「さて、まだやることは多いぞ。ついてきてくれるか?」
「愚問です」
やはりそう返してくれるのだと、アルスは歩みを再開する。ずっと遥か遠くに指針を向け、どこまでも先を……未知なる世界をその瞳に焼き付けるために、彼の足は止まることはないのだ。
もう誰も阻めるものではない。
・「最強魔法師の隠遁計画」書籍化のお知らせ
・タイトルは「最強魔法師の隠遁計画 1」
・出版社はホビージャパン、HJ文庫より、2017年3月1日(水)発売予定
・HJ文庫様の公式サイト「読める!HJ文庫」で外伝を掲載させてもらっております。
(http://yomeru-hj.net/novel/saikyomahoushi/)