開放と解放
人工的な白光は巨大な容器に沈む少女を余すことなく照らし出す――そう、異形の身体を。
恐らく人類史上最悪の禁忌。
命の冒涜。それがこの研究の末に辿りつく答えだ。
驚愕と深い罪をその顔に湛える元首らは目の前の少女に掛ける――いや、目の前の少女に関わる一切の言葉を口から出すことができなかった。
何を言えば良いのか、称賛、それとも同情か。そのどれも少女に対して失礼極まりないものだ。だから黙した、沈黙を以って彼らは感謝と代えたのだろう。
誰も知り得ない孤独の中で一人、人類を守ってきた少女に対してそれ以上の感情を内に見出だせなかったのだ。魔物の肉片によって生かされる少女に掛けるべき言葉は存在しない。
そんな鬱屈とした空気が満たす中でアルスは何一つ表情を変えなかった。無論、ロキも。
こんなものが必要だったのかと今でも思ってしまう自分がいた。考えることに意味はないのだろう。無限に枝分かれし、見ることのできなかった未来など。
ただ、一人の犠牲によって与えられた偽りの平和。これから築かれていく未来は今よりももっと良きものであらねばならない。そんな気がした。
この期に及んで誰も動き出すアルスを静止させることはできない。
まるでアルスが口を開くのがわかっていたようにロキはそっと瞼を閉じた。二人で決めたことだ。彼は決して後悔しないと、そう確信を込めて言った。
彼が思い描く世界の第一歩として重要なことなのだろう。それをロキは誰よりも望んでいるし、見守っていたいと思っている。
彼と同じ世界で生き、同じ風景を見たいと思ったから。
どこまで行ってもロキは自分が欲深いとしみじみ感じた。ただそれを自制すべき心がこれほど喜色を湛えていては仕方がない――委ねるしかないほどに仕方がないのだろう。
何より彼は最後まで見捨てなかった。このどうしようもなく救えない世界を諦めなかったのだ。以前ならばロキはきっと口を尖らせてしまっただろう。
しかし、今は、どこか胸の奥が温かみを宿していることが少しだけ嬉しくもあった。
「わかっていると思うが、バベルの防護壁はもう保たない。それがいつ終わるのか俺にもわからないことだ。もしかすると後数年は大丈夫かもしれない。それもこれ以上防護壁を拡大させればわからんが。だから
止めたければ力で……」
どこか挑発するようにアルスが発した言葉の裏を理解できない者はこの場にはいない。
だからなのだろう。
悟ったようにハオルグが先頭に立って漏らす。
「不器用な奴だ。全てを受け止めるために我らはここに足を運んだ。誰も責めはせんさ……知らぬことが罪であるとするならば、それは国民ではなく我らに帰結するものだ。誰も責められん、その役目は元首にこそ求められる。それぐらいは覚悟の上だ」
全てを知った上で……ハオルグにのみ話した内容は全元首に伝わっていたのだろうか。
賛同する沈黙が続いた。
アルスはそのために【第三のバベル】を作り出し、この世界に新たな仕組みを構築したのだ。
【7カ国魔法師協会】はある種、バベルのような存在意義を目標にしている。神のようなわけのわからない信仰対象ではなく、目に見え、身近に感じられる最大級の守り手としての代替物。
国という縛りを無くすことで、協会は平等な安全を提供する。
これによって誰に守られているのか、何に救われているのか、全人類が外に向けて認識を共有できる。
少なくともこの事態を引き起こした遠因がアールゼイト王家にあるのは明白だろう。シセルニアのみがバベルへのアクセスを許されているのが何よりの証しだ。
その罪を暴き、被せることに意味を今更なんの価値もない。ハオルグが伝えたように今日まで知らぬ存ぜぬで通してきた罪は等しく同じということなのだろう。
「ラティファ、待たせたな。君だけの英雄が成し遂げた成果だ。俺はただの代役でしかない、君のお兄さんではないが、それは許してもらうしかない」
そう言うと同時にアルスは片手を冷たい容器に触れた。程なくしてピシッと罅が走ると、液体が漏れ出し、次には覆う分厚いガラスが砕け散った。
ここに立って初めてアルスは妙な思惑に乗っかっている気がしてならなかった。クロケルは初めからどちらでもよかったのではないだろうか。アルスを代替としてバベルの生贄にするも、自分が敗北するも、結局アルス自身はバベルの有り様を見過ごせないと思ったのではないだろうか。微かにそう思えてきたのだ。
クロノスの体組織を混入されたクロケルはどこか二つの人格が混同している節があった。それはクロノスによって失った記憶の断片ではなかったのではないか。
彼がクロノスを取り込んだ際の情報の書き換えによって生じた副作用、もしかすると容姿が年齢と一致しないことからもアルスとは違った形で彼はクロノスを制御したと考えるべきだ。
それでもなお、二つの人格、混ざり合う記憶が全てにおいて妹を助けるため、英雄足らんとした行動であると考えたならば。
――それは都合が良すぎるな。多くの命を恣意的に奪った奴は悪だ。悪なのだが……彼女にとっては……。
続く言葉は胸の内ですら発することを躊躇う。それを考えるには全てに決着がついてしまっていた。
足元を濡らす液体を意に介さず、アルスは内側に踏み入る。
厳重に拘束された枷が魔物へと変容した少女をきつく固定していた。腰から取り出した注射の中身を一度指で弾く。
「アルス、それは……?」
目の前で全てを見ていたシセルニアは髪が浸されながらも何か恐ろしいものでも見るように蒼白となった顔で問う。全員の意識は完全にアルスの手元に向かっている。
だが、それは受け入れることしかない選択なのだろう。少女は魔物に生かされているだけの存在なのだから。
唯一救いを見出すとすれば打てる手はそれしかない。
だが――。
「勘違いするな。あんたらの常識で図れる俺じゃない」
まぁ見てろ、そう言いながらアルスは少女だと判別すら付かない巨体を見上げた。軽快なステップで跳躍すると少女の身体が埋まっているであろう魔物の皮膚に直接注射針を差し込む。
そして内部の薄紅色の液体が注入されていった。
アルス自身の血液から採取した情報がクロノスによるものであるならば、それを克服したのもまたアルス自身だ。己の解明がこんな形で役に立つというのは不思議なものだ。
おそらくはクロケル自身に魔物を受け入れるだけのキャパシティが最初から備わっていた。その血縁者であるラティファも例外ではないということだ。
つまり、魔物へと変貌したとしてもすぐに絶命しなかったのはそのためだろう。唯一の成功例であるのはそういった魔力の配列が存在していたからだとアルスは仮定している。二人の間、兄妹だからこそ強固な何かがあったのだろう。魔物の侵食すらも遅延させるだけのものが。
だから、アルスがこの場に入った時、ラティファは辛うじて人の部分を残していたことに最も驚いたのだ。ならばと、イリイスにも協力してもらい血液を採取したのだ――彼女の場合は意思に反して血がでないため、正確には身体を構成している水、ということになるのだが。
その結果としてアルスは一つの薬を作ることができた。これは一種の毒と呼ぶべきなのだろう。
しかし、肥大化した魔物の腕が徐々に塵へと還り始めたのだ。ゆっくりと、ハラハラと黒い灰が舞っては消えていく。
そして少女の身体が剥がれるように落ちてきた。もう魔物の外皮は全てが消えていった。
まるで羽のように降ってきた少女をアルスは両手で受け止めると、その裸体を隠すべく、自らの上着を被せた。
骨ばった身体は血管を克明に透かしている。何より、彼女は魔物に侵されながら緩慢な成長を遂げていた。シセルニアから送られた資料の中にはクロケルとラティファがいたのだが、当時の彼らの年齢は十二、三だった。
単純に計算してもすでに六十を越えているはずだ。それでも栄養失調程度の症状しかないのはやはりクロノスによる影響だろうか。何よりもそれに抗い続けた証拠でもある。
こんな不安定な存在が命を保てるはずもない、それでも微かに脈動する身体が辛うじて命を繋いだ。
きっと長くはない。それがわかったアルスは自分の責任を自覚した。
……そして7カ国、半世紀もの間人々を守り続けた壁が解かれた瞬間でもあった。
・「最強魔法師の隠遁計画」書籍化のお知らせ
・タイトルは「最強魔法師の隠遁計画 1」
・出版社はホビージャパン、HJ文庫より、2017年3月1日(水)発売予定
・HJ文庫様の公式サイト「読める!HJ文庫」で外伝を掲載させてもらっております。
(http://yomeru-hj.net/novel/saikyomahoushi/)