守り人
馬車から降りたったアルスは壮観な眺めの中に、複数人の人影を収めた。
待ちくたびれたと言いたげにロキもその参列の端に加わっている。ここには各国元首が身一つで集まっていた。視野を広げるまでもなく、彼らは何をするでもなくただ人類の前進たる瞬間を誰よりも近くで知る必要がある。そう感じたからこそ、護衛の一人もつけずに訪れたのだ。
だが、その中にはハイドランジだけおらず、殺害されたラフセナルの後任がまだ見つかっていないのだ。現在は代行を立てているが、その情勢はバルメスよりも酷い。国内での国に対する不信は必然的に軍にも影響している。
その中にはバルメスの若き元首もおり、そのお目付け役であるニルヒネ総督がいないためか、今はロキが何故か世話を焼いている。
というのも隣国であるイベリスが気にかけているのだが、イベリスの元首であるハオルグはさっそくというべきか、どちらにせよほとほと困り果てていたのだ。
まだ十二の子供をあやすにはハオルグは向いていないということなのだろう。元々元首は世襲が通例だ。
そのため幼い時から英才教育が始まるのだが、そうでもなければシセルニアやリチアのように若くして国を運営していくことは適わない。
ふと視線を向けるアルスに何故か怯えた顔でロキの後ろに隠れてしまう。彼女は特に気にした風もなく、ただ杭のように微動だにせず直立していた。
その隣では大柄な男――ハオルグがこめかみを押さえていた。
彼の性格からしてこのナヨナヨしたのがどうにも我慢ならないらしい。男なら、というのが古式ゆかしいハオルグが思うあるべき姿なのだ。
ましてや女の影に隠れるなど、と元首という対等な関係であるからこそ口に出せないもどかしさがある。
アルスは初対面のためロキに合図を送り仲介を頼む。軽く目を伏せて頷いたロキは幼すぎる元首の背中を押し、恐る恐る近づいてくる男を幼き元首は見上げた。
片膝を突いてアルスは自己紹介を済ませ、少年も震える声で――張りぼての見栄で応じた。年の割にはなんとも余所余所しく凄まじいまでの人見知り。
――子供には好かれていると思ったが。
と該当者を思い出すが、それは中身が子供ではなかったと改めた。実際問題、アルスの目つきは近寄り難いものがある。それを指摘する者は不思議といなかった。
「忙しくなると思いますが、よろしくお願いします」
これからアルスがすることはきっと軍関係者、まして元首といえどその仕事量は増すはずだ。
コクリと無言の頷きが返ってくる、が、その隣では無垢な笑みを浮かべるロキが口元を震わせていた。
「よし、じゃあ行くか」
「行きましょう、アル」
二人を先頭にバベルへと歩き進む。
硬く補強された外壁は鉄板のような艶と経年を感じさせる色落ちが見て取れた。ここに来るのは数カ月ぶり。
その時はイリイスを連れ立ってシセルニアとロキの四人で訪れた。シセルニア曰く、誰も入ることができないということだったが、まずは見てみないことには何も言えない。
だからあんな仕掛けがあれば誰も入ることは適わないだろうと思うのだ。
壁面に走る亀裂は入り口の隙間だ。これほど接近しても辛うじてわかるというほど。
そこの中央にアルスは手を触れる。
実に簡単なシステムだ。室内などでも用いられるロックと似た物である。無論、その最先端技術はアルスの研究室にも置かれているもので、個々の魔力情報を読み取り施錠・解錠を行うことができる。
ただし、この技術は魔法が飛躍的に進歩を遂げた際に開発された技術であり、このバベルはそれより遥かに古いものの、文明レベルでいえば今と遜色ない。
寧ろ、かなり精巧と言える。この塔だけでもまだまだ研究の糧になるのだ。
妙な電子音が鳴り、縦横無尽に走る魔力光。これが動力源であり、認証に用いられる魔力でもある。
その登録情報は実にシンプルであり、現代の技術でも絶対に解読できない理由があった。その魔力情報とは【無】だと予想を付けている。
情報が一切含まれていない魔力こそが認証コードとして登録されている。正しくは現段階では解明できていない【失われた文字】がキーとなっているはずだ。
クロケルとアルスに共通しているものは大災厄と呼ばれるクロノスの体液が混入していることだ。それによって魔力の情報劣化、いや欠損自体を登録情報としているのだろう。
だからこそクロケルはバベルに向かえという遺言を残した。あの引っ掛かりのある言葉はずっとアルスの胸の中で支えている。
確かに権利があるかと言えばあるのだろう。だが、あの時にクロケルが発した言葉を文字ではなく声音として聞き取るのならば、それは何かをアルスに期待してのことだと思わせた。
彼がバベルで研究をしていたとするならば、それを邪魔する存在は排除しなければならない。そもそもアルスが入れる可能性をあるにも関わらずクロケルは何故魔力情報という施錠手段を用いたのか。
何か重大な矛盾がそこにはあるのかもしれない。
今となってはそれを確かめられる手段があるとは思えないが。
音もなく巨大な扉が開く。内部はバベルの外壁を模したように壁面そのものが光を発しているのだろう。どこか人工的な明るい白に埃っぽく内部から風が吹き出す。
一歩踏み出すアルスの足音に続いて、様々な音が奥まで響き渡る。
さすがに前回来た時はバベルと呼ばれる研究施設の内部を全て調べることはできなかった。それでも構造自体はシセルニアが送ってきた資料に載っていたため迷うということはない。
横幅だけでも十人が並列して歩けるだろうか。無駄に広く、古ぼけた施設内の案内図ですら読み取れるのは大まかな部屋の配置だけだ。
奥に進めば進むほど、この生存圏内では体験することのできない冷気が足元から昇ってくる。
気がつけばアルスの背後で人肌の体温を求めてかシセルニアが引っ付くように歩いていた。訓練を積んだ魔法師でもない限り、魔力による体温の低下を防ぐ術はない。
ただし、それが可能であるからといって、するかしないかは個人の自由なのだろう。それを見たロキは何も言わずにピトッと肩をアルスに触れさせるのだから。
歩き辛いのはこの際致し方ない。堪えきれないハオルグの笑い声が足音さえも消してしまう妙な反響の仕方をしたせいでもある。どこか不釣り合いな――否、野卑を孕んだ空気が蔓延していた。
そんなこともあり、振りほどけずに歩くアルスは甘んじて受け入れる代わりに足元に気を配らなければならなかった。
しっかりと腰のポーチの存在を確認しながら。
一行は程なくして突き当りにぶつかった。実際は突き当たりの大部屋であるのだが。
胴体ほどもある巨大なケーブルが至る所で乱雑に絡み合い、放置されていた。その内部から微かに聞こえる電子音が未だにこの施設が稼働していることの証左である。
そしてケーブルを辿り、視線を持ち上げれば。
「これがそうか……」
「今日まで守ってきた。人類の守り手……そう形容するのは失礼なのでしょうね」
最年長であるフウロンが畏怖を込めて発した一言は事前に知り得ていた内容をもってしても避けられないことだった。
続くクローフも吐いて出た言葉を自重するように訂正する。
「ここにあるのは崇高な志しではなく、ただの悲哀しかないのだろうな」
ハオルグはそう表するだけで精一杯だった。これ以上の言葉は誰のためにもならない――彼女のためにも。
囚われたように頑丈な容器に入れられた少女――容器の中で浮く、金色の髪と片目だけが少女を人間だと判断できる唯一残された要素だ。
人の形を象るような赤黒く硬質な皮膚は全体の九割以上を占めている。両腕はすでに魔物の外殻ですらなく肥大化し人外としての変容が著しかった。
憑かれたように歩き出すシセルニアはやはり最後まで歩き切ることができなかった。見上げた視線は固定されたように外せず、手前で膝から崩れる。
彼女の眼からスゥーッと一筋の涙が零れ落ち、溶液の色を映して落ちていった。