飾らない素顔
アルスは自分がしたいことをする。ただそれだけなのだが、これから成そうとすることは彼の罪として処罰されなければならない。彼女がそれを望まずとも人の中で生きるのであればアルスもまたルールには従わなければならないのだ。
「俺は構いませんよ。ただ、一つ訂正させていただければシセルニア様が望んだからこそ今のアルファがある。これでよかったのでしょうね。俺も【フォールン】は好きですし、世話にもなった。あなたは優秀過ぎる、俺はあなたに負けっぱなしですよ」
眩しそうに眼を細めたアルスは柔らかい空気を纏って敗北宣言をした。しかし、その口元は屈託のない微笑みを湛えている。
「でも、時代が移り変わるように民衆に求めるものも変わってくる。それは脅威をまざまざと知らしめる必要はないのでしょう。ですが、俺はこの空を最後まで好きにはなれませんでしたよ」
苦笑しながらアルスは空を仰ぎ見る。相も変わらず流れる映像が今も違和感を与えてくる。
本物であろうと、偽物であろうと何かが変わることなどないのかもしれない。それでもこの偽りの空は世界を覆い、本当の世界を隔絶してしまう。
だからこそ思うのだ。
「もう大丈夫ですよ。もう見ないふりをする必要はありません。きっと受け入れられる。きっと脅威に立ち向かえる……あなたはそういう国を作ったのでしょ?」
何気ない言葉だったが、それがシセルニアの胸に深く突き刺さった。まるで努力が報われたような、結実したような。
失望した自分を褒めてくれる彼にシセルニアはこれ以上ないほどの感謝と、これ以上ないほどの仕打ちをしてしまうことを酷く悔やんだ。気づくのが少し遅れた目尻の雫、それが落ち切る前に指で掬い取ると。
「と、当然よ。それにこれで色々固執しなくて済むと思うと清々するわ」
シセルニアが7カ国の中で最も影響力のある存在を目指したのは【バベル】があったからだ。
人類最大の罪は同時に彼女の罪でもある、何代も前からの呪いであり憎き枷、外すことを自ら拒んでしまうのは誰よりもバベルが必要だと理解していからだ。
「俺は俺が望むことをするだけです。それは結果的に7カ国を良い方向に導くと思っています。だから送ってきたのでしょう」
「…………何故わかったの」
隠そうともせずシセルニアは彼が自分に行き着いた理由を探った。元々隠そうとしたわけではない。切り出しづらくはあったが、アルスから話を振るとは思わなかったのだ。
そのため、問う形で返事をしてしまった。
「前にバベルに来た時、あなたは初めて入ったという顔をした。そこから当然内部の作りなどは予想していたようですが、さすがにあの研究の成れの果てまでは予想していても受け入れられるものじゃない。同時に確信も得ましたよ。クロケルが告げた内容は正しい……だとするならばバベルとはどうしてできたのか。これは単純に歴史を紐解けば見えてきます。このアーゼシル大陸は元々アールゼイト王家が住まう地だ。ならば必然的に歴史書にも改竄点がいくつか浮上してくる」
虚ろに空を眺めて大通りを抜け、転移門前でアルスは振り返り様、指を立てた。
その間、シセルニアは一切の反応を遮断して聞いているかのように沈黙を貫いた。
「バベルの建造は百年も前となっているが、これはおかしな話だ。元々建造されている物からバベルとして防壁が展開されているはずです。つまり7カ国ができたのは【バベルの塔】が建造される前と考えるとこれがいろいろと問題を解決してくれる。実用化に至ったのは歴史通りクロノスの襲来以降だろうがな。ならばそもそも存在してたはずの建物を何故バベルと言い換えたのか……」
どこかぼんやりと遠くに聳える塔を視界に入れ……いや、この生存圏内ではその全貌を視界に収めることはできない。
「勝手な憶測だが、魔物は南から発生したというのが最有力だ。だとするならばその逃走経路が何故ここアーゼシル大陸に迷いなく向かっているのか。もちろん、この説が正しいとは言わないがな。ただ、逃げ延びた果てに白亜の塔を見つけたら……それは神のお告げに等しく映っただろうな。地上に逃げられる場所がないのならば空に逃げる、天に登る崇高な塔、それをバベルと呼んだんじゃないのか」
当たっているかなど、関係ない。ただの憶測だ。それを確かめる術など最初からないのだから。
これほど膨大な情報だというのに一度中身を知ってしまえば、立てる憶測は現実味を帯び始める。
「そもそもバベルの塔と呼ばれる建造物はなんだったかだが……元は研究施設と奴が言っていた通りだ……そうなると発端は間違いなくアールゼイト家の主導で動いていたと見るのが自然ですね。ただその研究が軌道に乗る前に魔物が現れた。どちらが先かはわかりませんがね」
「そうよ。私は魔物の発生はその研究施設が原因ではないかと思っているわ」
普通に考えれば、確かに妥当なところだ。だが、そうだったとしても最初期の魔物の発見は場所的に見てもアーゼシル大陸から離れている。いや、そういうふうに伝えられているというだけだが。
それにアルスが立てた憶測は可能性を示唆するだけで確証などどこにもないものだ。
仮にそうだとするならば人類は百年より遥か前から魔物の脅威に晒されていたのだろう。それを記すものも現存していない。いや、正しくは現在の7カ国には存在しないというべきだろう。
もしかすると、その手がかりは魔物が跳梁跋扈する外界に……かつての地にそれらは埋まっているのかもしれない。
一つ言えることは、彼女の懸念もアルスの憶測も裏付けるものが何一つないということだ。
シセルニアには手が付けられなかった問題をアルスならば解決に導くと踏んだからこそ、彼女は賭けた。
バベルに関する持っている情報を全て送ったのもそういう理由だった。それをシセルニアはバベルに踏み込んだ瞬間に察してしまったのだ。その決断は人の身に余るものだと……いいや、違う。それらの判断は血を流してきた者たちが決めなければならないのだと強く思ったのだ。
彼女は一人でずっと宮殿の自室に籠もって可能な限りバベルへのアクセスを試みた。
「真相は定かではありませんし、それを確かめる術を我々は持ち合わせていない。どちらにせよ、その研究が魔物を生み出すものであったのは疑いようがありません……それでも長きに渡って人々が救いを求めて今の7カ国に集まったのは自然に見ればアーゼシル大陸の真裏が発生地だと考えることもできる」
何か言いたげに口籠るシセルニア。
だが、アルスは待ってやるものかとばかりにに口を開いた。
「過去を振り返るのは止めましょう。有益じゃない。そんなことよりも今は……」
「わかっているわ。もう夢から覚める必要がある、そう言いたいんでしょ」
無言で頷くアルスにシセルニアは風が吹くようにか細いため息を漏らし、一呼吸分間を置いて微笑んだ。
湿っぽい話はここまでという合図だったのだろう。
転移門に乗り、切り替わる景色と気配。
まるで風が踊るように空気が沸き立つ、鼓膜を撫でるように擽り、跳ねる声。それらは二人に向けられたものではないが、そこには確かな平穏があった。
変わらないからこそあるべき姿が――街がそこにある。
小高い丘の上に蛇行する舗装路。中層、一般的には市民街と呼ばれる。アルファ内でも最も広大な面積を誇る【ベリーツァ】だ。
「行きましょうアルス」
そして再三の忠告も無視して、シセルニアはアルスの手を引き勢い良く走り出す。
幸いにも転ぶという二番煎じは起きなかったが【フォールン】で彼女は興味深げに視線を走らせるだけで、気が滅入る話に終始してしまった。
そのことへの反動のように気配が柔らかいものへと変わる。
端的にいえばそんな話をするためだけにシセルニアはお洒落をしてきたわけではない。
変わらないからこそ、自らの目で今のアルファを見に来たのだ――焼き付けにきたのだ。
「待て、さすがに時間が……」
「そんな野暮なことをいう口は閉じなさい」
振り返り、シセルニアは無垢な笑みでアルスの唇に指を置く。
「元首命令です――最後の」
目元に憂いを乗せて、彼女はこの国のシンボルとしてではなく一人の元首として滑らかな口に反して重いたい言葉を発した。
さすがのアルスも元首の命令である以前に、彼女に面と向かってそう言われてしまえば断る言葉を見つけることができない。今の彼女にどれほどの正論が役に立つというのか、如何に弁が立とうと全ての言葉を飲み込ませる表情がそこにある。
アルスでさえも発した言葉は呆れ混じりの「お心のままに」だった。
「では、アルス――」
再現するようにアルスの手から離れていくシセルニア。握られた手が解け、重なる指先が名残惜しそうに離れるとクルリと風を舞い上げて彼女は優雅に回った。
艶やかに翻す裾が先程よりも上手く回れている証拠なのだろうか。
スタンッと満足げに一回転して「どうかしら」と裾の端をぎこちなく摘む。失敗に終わろうと成功に終わろうと、彼女に掛ける言葉に差異はない気がした。
「良くお似合いですよ」
今度は淀みない言葉をアルスに吐かせた。それどころか、それ以外に言い表す言葉が見つからないほど彼女は美しい――ぞっとするほど美しかったのだ。
どれほど雄大で幻想的な景色でさえ、彼女の超越した精巧美の前では存在を改めさせられる。
まるで魂が抜けるような感覚をアルスが味わったのはこれで二度目。一度目は初めて叙勲式で彼女を見た時――そして、これが二度目…………。
あまりにも人間離れした容姿、何よりも彼女の存在自体が女神じみている。否、すでに偶像化している節さえあった。
だが、ふいに発した彼女の何気ない疑問は辛うじて人であることを垣間見せる。
「それにしてもこれでは少し暑くないかしら……私、外の風や気候に触れるのは初めてなのよ。まさかとは思うけど身体に害とかはないわよね」
真面目な顔で問うのだからアルスは呆れるのを通り越して、皮肉の一つでも言ってやろうかとさえ思った。
「それはありませんよ。そんなところに軍は魔法師を向かわせているのですか? ならばもっと労って貰いたいものですね」
「あっ! それもそうね……でもってどの口が言うのかしら、あなた何回式典をすっぽかしたと思っているの?」
「はて、二回目以降は記憶がありませんね」
「十三回よ。叙勲式以外を合わせればざっと三十はくだらないわね。国家元首が直々に下賜するのが習わしだというのに……」
そんな会話を挟みながら二人はベリーツァの街を抜けていく。
それこそどこにでもいる女性のように跳ねる足音はあちらこちらと往来を分け入って行き来していた。ショールームを見ては食い入るように覗き込み、屋台では気がつけばアルスの分まで注文している有様だ。
無論、彼女が一歩動く度に遠巻きに眺める見物人が後を追い、色めいた吐息が充満した。
この時ばかりは映し出された偽物の空も、風も気温さえも全てが彼女を中心に回っているかのようだ。
時間の経過をどこかに置き忘れてきたようにシセルニアは元首であることをかなぐり捨てて楽しむことに没頭した。
時間を掛けて転移門まで到着した頃にはアルスが立てた予定時刻を大幅に過ぎていた。
そして元首のみがアクセスできるバベルまでの転移。
一気に視界を埋め尽くす白亜の塔が壮麗と聳え立つ。
迎えの馬車に乗り込み、揺られる間、シセルニアは目を閉じて一言も発さなかった。心構え、己の覚悟、そういった諸々の整理をしているのだろうか。どこか精神統一しているようでもあるが、その表情は硬く、いつもの彼女が発する近寄りがたいものを感じた。
緩やかな停車後、御者が恭しく到着の合図を出すとシセルニアは薄っすらと目を開ける。
「行きましょうアルス」、一言だけ告げて彼女は勇ましく降り、二つに結った髪留めの紐を滑らすように抜き取った。
髪が舞い上げられるのを物ともせず、一歩一歩踏みしめるようにバベルへ向かって歩き出す。
・「最強魔法師の隠遁計画」書籍化のお知らせ
・タイトルは「最強魔法師の隠遁計画 1」
・出版社はホビージャパン、HJ文庫より、2017年3月1日(水)発売予定
・HJ文庫様の公式サイト「読める!HJ文庫」で外伝を掲載させてもらっております。
(http://yomeru-hj.net/novel/saikyomahoushi/)