心証
第2部
いつの頃だっただろうか。
いや、物心付く前にはそうなっていたように今となっては思う。
【エレメント因子分離化計画】
幼いアリスの記憶では研究施設の中で育ったものが多かった。
両親は毎日のように会いに来てくれていた。温和な父に美しく穏やかそうな母、僅かな時間でも笑顔を絶やさない一時。
そして決まって別れの挨拶は「明日も必ず来るからね」と寂しげに手を振ってくれる。
アリスにはそれが当たり前だった。だから不満以上に会える日を楽しみにしていたのだ。
経済的に苦しい状況下で生まれたアリスは幸福をもたらす存在。
決して裕福ではなかったが、幸せな家庭がそこにはあった。
アリスが五歳になって間もなく。流行病から病院で精密検査を受けることになった。決して安くはない費用は経済的に余裕のなかったティレイク家に負債を与えた。無論後悔の介在しない選択である。後悔があるとすれば何故国お抱えの大病院ではなかったのかということだろう。
それを転機と呼ぶにはあまりにも残酷な申し出だった。
精密検査の結果、アリスは希少とされるエレメントの素質が確認された。
それは国が施策として着手し始めたばかりの計画には打って付けの被検体だったのだ。元々数が少ないエレメントはその当時強力な力の象徴と期待されていた。
すぐに被検体としての話が両親に舞い込んだ。幸いにも病は特効薬ができたばかりで完治までに時間は掛からなかったが、量産にはいたらず単価はティレイク家を苦しめるにたる多額。
誰を責めることもできない圧迫ある状況で。
「ご安心ください。魔力の波長など体の細部に至るまでを検査するだけですので」
体よく緩和された表現は説得の常套句だった。
そして研究の協力報酬として見たこともないような額が提示された。それは検査に掛かった費用を差し引いてもあまりある額だった。寧ろ働かなくてもやっていけるほどだ。
この提示にアリスの両親は絶句して机を叩いた。きっと迷いはなかったのだろう。少なくともアリスはそう聞いている。
「お金の問題ではない!!」
父の激怒を涼しい顔で見据えた国の官僚は続けた。
「お子さんの協力によって人類が救われる一助になるかもしれないのですよ」
それにはすぐに反発出来なかった。当時は魔物の侵攻を妨げてはいたものの、何時攻め込まれてもおかしくはなかったのだ。魔法師の数は少なく、未熟でも魔法の素質だけで前線に駆り出されるほどだった。
アリスもいずれは徴兵されるに違いないのだ。
「期間は三年です。面会時間は一日一時間になります」
そう言って細かいスケジュールが詰まった資料の束が机に置かれた。
両親はわからなくともその全ての文字を必死に追い繰り返す。
今にして思えば拒否権はなかったように思う。
決心を固めたのは期限の一週間をフルに使った後の事だった。最後の最後まで悩み抜いた苦渋の選択。
そうして契約の握手を交わした。遊んで暮らせるだけの金を受け取り……。
だが、両親は最低限のお金だけを引いて、それ以上手を付けることはなかった。
しかし、両親の考えは甘かったと言える。
施設での生活も二年目に入った年。
【エレメント因子分離化計画】はエレメント因子を複製することを目標にしていたが、その計画は行き詰まり、破綻しかけていたのだ。
研究施設で何が行われたのか…………それは数少ない被検体を禁忌として忌避されるべき所業、人体実験の供物とした。
倫理的な問題は一度の凶行で容易に瓦解する。
アリスの体にはその跡がありありと残っていた。実験は実検のためのものであったため、体に害のあるものではなかった。
口止めをされたアリスは両親の前で気丈に振る舞うしかないのだ。
両親への面会を引き合いに出されればアリスに頷くほかの選択肢はなかった。
「ママ、何時になったら一緒に暮らせるの?」
「もうすぐよ。後少しだけ我慢してね。ママもアリスと暮らせる日を楽しみにしてるんだから」
華のように微笑む母に。
「そうだぞぉ、きっと家にいったらびっくりする。こ~んなぬいぐるみがいっぱいあるんだからな」
父は両手で大きく円を描いてアリスを喜ばせた。
自分の家がどんな形をしていたのかすらアリスは覚えていなかったが、それは些細なことだ。三人で暮らせることが唯一の心の拠り所になっていたのだから。
毎日のように顔を出していた両親が来なくなったのはこの後のことだっただろうか。
施設の職員からは仕事が忙しいのだと聞かされていた。子供ながらに納得はできなくとも理解はしていた。いや、我慢していた。
それも後僅かな時間で一緒に暮らすことが出来るのだと己に言い聞かせて。
しかし、それは予想よりも早く訪れることになった。
起居を共にしていた被験者の一人が亡くなったのだ。
原因がなんであれ、少なくとも実験による要因が大きかった。国がそれを認知し、視察に訪れた際に人体実験が発覚、計画は三年を待たずに頓挫した。
アリスは軍に保護され、その後の顛末は結論だけで細かいことはほとんど覚えていない。
だというのに軍人が最初に発した言葉だけは鮮明に覚えている。
「君のご両親は亡くなっていた」
自分の中で死がよくわからなかったが、いなくなったということだけはわかる。
それはアリスの中で何かが切れてしまった瞬間だった。
眼の前が色を失い。軍人と思しき壮年の男の声は同じ人間が発しているものではないようにも聞こえる。
空ろな心はごっそりと抉られたような感覚、いや、空ろなのはこの世界なのだと思った。
落ち着いたわけではなかったが、それから長い月日をかけてアリスに聞かせる軍人。
その中でアリスが聞き取れたのは、強盗に押し入られて刺されたということだけだった。
すでに犯人は捕まっており、人体実験に遠因があるため内々に処理されたと機密を洩らした。
アリス、十二歳。
アリスには親が残した財産があった。一人暮らしには早いので国の管轄する保護施設に入ることにしたのだ。もしかすると残してくれたお金に手を付けたくなかったからかもしれない。
誰もいないことには慣れていた。確かに同じぐらいの年代の子はいたが、アリスの目には映っていなかったのだ。
魔法師を目指すようになったのは必然だったのかもしれない。選択肢はいくつもあったが、この疎ましく呪わしい素質は両親が与えてくれたものだから、アリスは迷わなかった。
国の施設だけあって近くには道場もあった。
そこで初めて教わったのが槍術だったのだ。最初は魔法の訓練をしたかったが、すぐにのめり込んだ。槍を振り回してさえいれば時間はあっという間に過ぎて行ってくれたのだから。
魔法師になって人類を守るという大層な思想は持ち合わせていない。ただこの力を使って生きていければそれでよかった。
テスフィアと出会ったのは十四歳の時、魔法師を目指す私営の訓練学校でだった。
♢ ♢ ♢ ♢ ♢
「本当にこんなのでわかるの?」
自分の経験からは想像も付かなかったアリスは信じ難いように問い掛けた。
「あぁ、動かなければな」
そう言って薄い布一枚の検査着に着替えたアリスは機器の上にある台座に横たわった。
手ははだけないように押さえられている……ある一点の上で。
「大丈夫よアリス、アルが何かやろうものならあたしが成敗してやるから」
椅子に腰かけて腕を組んだテスフィアがキラリと鋭く狙う。
謂れもない圧迫感を背中に浴びながらアルスは機器の前で液晶画面を凝視した。
課外授業を終えてから一週間後のことだ。 日付は6月7日、放課後の研究室。
今日は訓練とは別に新たなアルスの研究が始まる。
アリスの光系統に関するもので、特段目標はなく新魔法に役立つかもしれないという程度だ。
エレメントは希少だが、実際それほど他系統との差はない。少ないがために研究が疎かになっているだけで有用な課題の一つだ。
「測定は終わったから、もういいぞ」
ムクリと起き上がるとテスフィアを連れて覗き込んだ。
「これで何がわかるの?」
「というより本当にわかるの?」
この赤髪の少女は《ミストロテイン》の構成までを手解きした途端にこの態度だ。友人の心配を差し引いても中々に不遜だ。
アルスはテスフィアの問いを無視する。
「アリスの体が魔力との親和性というかシンクロ率といったほうがわかりやすいか」
すでに疑問符が浮かんでいるが聞いてきたのはこの二人なのでやっていることだけを掻い摘む。
「つまりはアリスの魔力が内包する情報体を解析しているんだ。魔力には経験や心性の他にも多くの情報が綯い交ぜになっているからまずはそれを正確に把握する」
「はぁ~」
右から左に受け流したテスフィア。
「なるほど!」
と嘯き、知ったかぶりを隠しもしないアリス。いや、無理にわかろうとしているのかもしれない。
「紅茶をお持ちしました」
「ありがとう」
ロキが手ずから仕入れて来た茶葉を使った紅茶はアルスのお気に入りとなっている。
リフレッシュするにはナイスタイミングだった。
「ありがと」
「ロキちゃんありがとうね」
しっかりと二人の分も用意するあたりだいぶ二人に対する確執も減ったように思う。
口を付けたテスフィアの眉間に皺が寄った。
「苦い!」
「そうかな」
満足気に目を伏せるロキ。
一人だけ濃い目にするとは手が込んでいる。この程度で済むなら……まだいいのかもしれないが。
アルスはティーカップを口に付けたまま目を閉じた。
「一息吐いた所で訓練に移れ」
さすがに訓練をしないで検査だけで終わっては本末転倒だ。
まして検査さえ終われば後はアルスにしかできない。
「じゃ、着替えるね」
アリスは寝室に入っていき、戸を閉めた。
魔力の抑え込みの訓練では最初の段階ほど上手くはいっていない。指向性への命令が弱いのだが、こればかりは時間を掛けていくほかに無いだろう。
これは一対三で同時に別々の会話を成立させるようなものだ。
思考の回転ではないが、難易度で言うとである。体全ての魔力を集中させるのは同時にいくつもの動作を指示しなければならない。
「そろそろ訓練場でやってみるか」
簡単な手助けだ。このままでは一年生の間に終わりそうにないと判断した結果。
二人が喜悦の笑みを浮かべたのは魔物との実戦を得て思うところがあったのだろう。
ましてや地味な訓練続きでウズウズしている様子が見て取れたからフラストレーションは相当溜まっているに違いない。
そう言えばふと気になっていたことがある。
一通りの訓練を終えた二人は暗くなったのを確認すると帰り支度を始めた。これもいつもどおりなのだが。
「おい、なんで置いてく」
「へっ――!」
「ん?」
毎日使う訓練棒ならまだしもバッグをそっくり置いてくとはどういう了見だと告げた。
確かに校内にはロッカーなど置勉と呼ばれる姑息な真似ができるのだが、優秀と評される二人がやるとは思わなかったのだ。
それも三日前に指摘すべきことだったのだが。
「明日は……ほら座学が多いじゃない!?」
「そうそう」
だから置かせろというのは勝手が過ぎないかと思うが、咎めるつもりは最初からなかった。
その原因はアルスの訓練にもあるのだ。二人はしっかりと棒を持ち帰る辺り、アルスも非を感じずにはいられない。
「構わないが、そろそろテストだぞ」
無論、最初の学期試験だ。
「「…………!!」」
二人揃って呆けたように唖然とした。
テスフィアに限っては棒を落とす始末だ。
「貴重品だと……」
「どうしよう。お母様に怒られる」
テスフィアは明らかに愕然とした顔を浮かべた。すでに悪い結果なのは確定なのな。
と突っ込むのはナンセンスだと口には出さなかったが代わりに情報を提供する。
「とはいってもまだ二週間はあるぞ」
それをどう捉えたのかはわからないが、おそらく「しかない」と思ったのだろう。
「悪い結果だったら……悪い……評価が……点が~」
呪詛のように呟いたが、すぐに救済を願い出る機転の早さは持ち合わせているようだ。
「お願いアリス教えて」
捨てられた犬のように潤んだ瞳がアリスへと向けられた。それはまるで助けなければ人としてどうなの? と言われそうなほどだった。
「え、え~私も自信ないよぉ」
二人揃った泣き言に何をとアルスが口を挟む。
「お前達優秀じゃなかったのか」
文武両道だと思い込んでいたアルスは心配するほど悪い結果にはならないのではと思ったのだ。
二人は他の生徒同様にちゃんと授業も聞いているしアルスと違って出席もしている。
そもそも単位の取得だけならば二人はすでに確定しているようなものだ。
さらに高評価を目指すのであればテストでも点を取ることが要求されると言うことなのだろう。
「ははっ意欲は高いけど頭が追いつかないのか」
しょうもなと嘲笑う。
「あんただって良い点取れても単位貰えるかわからないじゃない」
「…………」
実際の出席日数に照らし合わせれば正直きわどい。
が――――。
「俺が落ちるとでも思ってるのか、学院にこれだけ貢献した奴なんて歴代でも俺だけだぞ。理事長の力を嘗めるな」
他力本願なのは言っていて情けないとは思うが、本来アルスが欲しいのは時間だけだ。
理事長には課外授業で貸しを作ってるのでこれぐらいはしてもらわないと困る。
「ずるっ!」
「ふんっ……低俗な勉強をする奴の気がしれん」
憤慨するテスフィアに代わってアリスが話題の転換を図った。
「そういえばロキちゃんはどうなるの?」
「たぶん今期は免除じゃないのか」
「いえ、編入前にテストの結果が採点の基準になると言われました」
ロキの顔にはテスフィアのような焦りは見られない。寧ろ涼しい顔をしている。
「よ、余裕じゃない」
余裕のないテスフィアが弱々しく反発。勝手に枠組みに入れられた仲間意識の共同戦線離脱者第一号はロキだった。
「私はすでに三年までの学問は修めておりますので」
「なっ!」
「頭も良いんだねロキちゃんは」
小馬鹿にされたロキが僅かに眉目を上げたが、その矛先をテスフィアに向けることで解消を図る。
見下した後、鼻で一笑した。
「ですので一年程度で躓く人の気がしれません」
「ぐっ……!!」
アルスの言葉に被せてテスフィアを黙らせる。
「『ぐっ』じゃない。わかったらさっさと勉強するんだな。その間は訓練の日数を減らす」
「無くならないんだ……」
「無くしてもいいが、今までの訓練が無駄になってもいいならな」
「「……!!」」
「うそうそ……嘘です」
猛反発にはテストに向けて今から不安が混じっていた。
少々オーバーだとは思ったが、魔力操作は習慣として身につける必要があるため、二週間もあけば最初からということはないにしろ感覚を取り戻すのに時間が掛かるだろう。
「だったらって言うのも変かもしれないけど……教えてアル」
「ナイスアリス」
ナイスじゃないし、間違いなく変だった。おそらく訓練を減らさないならという提案なのだろうが、訓練に時間を割いているアルスとしては図々しすぎるというのが率直な感想だ。
「二人ともいい加減に……」
ロキが耐えきれずに声を上げたが、
「断る! 俺は忙しいんだ。魔物の倒し方に関しては手を貸してやる約束だからそうしてるだけであって、何度も言うがそれ以外で時間を割く気はないぞ」
事実を事実として口に出したつもりだが、アリスは目に見えて落ち込んでしまった。
「それにいくら魔法を教えても頭が悪けりゃ使えるものも使えんしな。自分で勉強するんだな」
アルスなりの励ましだったが、不器用な言葉は往々として誤解を招きやすい。
「そうだよね」
「アリス……」
鼻白むアリスから重たい空気に悲壮が混じった。
「少しだけだから、ね? 満点を取りたいってお願いしているわけじゃないんだから……」
顔の前で拝み倒すように合掌したテスフィア。彼女がアルスにここまでするほどに切羽詰まっているということなのだろう。
「それに魔物を倒すようになんて言ってもアルスの論理で考えるなら知識も必要ってことじゃない?」
確かにその辺りはあやふやのまま引き受けてしまっている。技術的なことばかりでは魔物を屠ることは難しい。ただその知識が学院で教わるものばかりとは限らない。
そもそも魔法の習得に関してもそれなりの知識が必要なのだ。魔法の構成段階を紐解く必要だってあるし、魔法式を理解することも重要になる。もちろんアルスが求める習得と学院の生徒がいう習得は差異があるのだが。
「だから、ね?」とテスフィアが正論の剣を翳してあざとく頼み込む姿は癪に障るが、外見だけならばコロッと騙されても責められるものではない。内面を知っているアルスからすれば小賢しい。
ロキはピクッと反応したが、それを眼で制す。いつものことだ。
額に指を当てて(親指と人差し指で額を挟むように)、呆れ混じりに折れた。
「少なくとも魔力や魔物に関するところだけなら教えてやる」
言外に訓練に多少なりとも益になるところならという提案だった。本音を言えばそれぐらいは既知として欲しかったのだが。
ロキは驚いたが、声に出してアルスの言葉を遮ることはしなかった。
「ありがとう!!」
華が咲いたような笑みを浮かべるアリス。
「お願いします、せ、ん、せ、い」
テスフィアはしてやったりといった具合にはにかんで軽く頭を下げた。
後ろを向いた二人は堅く握手を交わている。
アルスは目を閉じて紅茶を口に含んだ。吐かれた芳醇な香りに溜息が混じったのは仕方のないことだった。