偽りの鳥籠
まさかこれほどドンちゃん騒ぎを繰り広げるとは思いもしなかった、というのがアルスの率直な感想だ。であるならば早めにロキを帰したのは正解だったに違いない。
少なくともアルスとロキ、イリイスは早朝にここを発つ予定になっているのだから、睡眠時間などすでになくなっている。
ロキが流石に何もないのは辛いだろうということで、ツマミを作り、アルスには紅茶を用意してくれていた。しかし、相当量が入っていたポットもほぼ空に近い。
濃いめの紅茶に口を付けて、呆れ混じりにアルスは気づかれない程度の配慮をしてから視線を窓に向けた。
いつの間にか外では寒さに震える歩哨や監視哨の足音が微かに聞こえる程度に夜に飲まれていた。
だからなのか、一新するかのようにふぅ~っと酒気を帯びた息が吐き出される。
ハオルグは酒瓶を抱えたままアルスのベッドを占領しているイリイスを見て、ずっと楽しげに持ち上がっていた頬を下げた。
「どうやら先に潰れたのはそっちのようだったな。まったく酒の力を借りんと何もできない自分が情けない、その力にも見放されてしまっては苦しいな」
「いや、酔っぱらいをまともに相手するほどこちらも暇ではないんで、日を改めて貰うのがよろしいかと……」
そうは言っても対面する元首の瞳は泥酔とは程遠く、開かれた瞼は拒むように開きっぱなしである。
「酔えんのだ。さすがにお前も知っているだろう。俺は軍人上がりの元首だ。だからこそ現場を知っている、つもりだ。しかし、培ったはずの誇りさえも形骸化してしまったのだろう。多くの部下を失い国家間が疑心暗鬼に陥り、自国を守るので精一杯だった頃、俺は何万という戦士を外に置いてきた」
「戦士とは言い得て妙ですね」
「紛うことなき戦士達だ。それ故に俺はあれからどれだけ酒を煽ろうとも酔えなくなってな。いずれは国を率いる者である俺を逃がすためだけに酒を酌み交わした者や、恋人を紹介してきた者まで……そんなことをさせるために俺は前線に出たわけではなかった。上に立つ者は現場で命を賭ける覚悟を持って何百、何千という命を一言に乗せる。そのはずだったが……」
俯きがちに吐露される胸中は、本当は酔っているからではないだろうかと思わせる。
しかし――。
直後、ハオルグは両手をテーブルの上に突き額をぶつける勢いで下げたのだ。
あくまで非公式、何より酒の入った親父が血迷っただけの話。いや、そうしたかったのだろう、最初から。
彼は一言も発さず長いことそうしていた。
――なるほど、これがイベリスの元首か。
聞いていた、というより評判通りの武人だ。君子は独りを慎むと言うが、彼は己の正義によって下した判断を曲げない。
ならば続く言葉は――。
「だが、俺は幾度でも同じ決断を下すと断言する。7カ国とはそうでなければならないと思っている」
――やはり、この人は生粋の君主だ。
痛みを知っている上で、言い切れる英断をアルスは素直に賛辞を贈りたいと思うほどだった。確かに元首や総督といった上に立つ人間は人格者であると同時に非情であらねばならない。だが、それは非情な人間ではなく、迫られた時、非情になれる人間をいう。
確かに内外政は最高責任者である元首、国防など軍のトップである総督という明確な分担は必要だ。しかし、命を張る魔法師にとって痛みを伴った指示ならば魔法師たちは信じ切ることができる。
そういう意味ではハオルグが元首の座にいることはイベリスにとって、少なくとも人の道を外れることはない。強固な一枚岩として国が纏まる求心力を彼は持っている。それはシセルニアやリチアにはない素質だ。
同時に7カ国という形態を取っている今の人類には必要な存在。
「俺が正しき道を見失ったのならば、他の6国がこれを制す。それが7カ国の最大の利点だと思っておる。ならばこそ、イベリスの代表としての選択を取ったまで」
「えぇ、それで良いと思います。俺ははなから誰に責任を負っていただくつもりはありませんよ。ただし……」
そうアルスは彼ら、元首が決断したことに異議を唱えてはいない。しかし、彼らは結果として過ちを認めたのだ。それに対しての罰則が存在しないはずはない。
これが一介の魔法師だというのならば丸め込めるだろうが、今回に限っては最高位足る1位のアルスなのだからそれで済むはずもない。
ハオルグはアルスの言葉を遮り、口を開いた。
「わかっておる。正しき判断は結果が決めることだ。俺が信ずる判断を下そうと、結果として不利益を被ったのならばそれに対する処罰はなければならん。ではこの度の一件、俺の退陣を持って贖わせていただく」
「――!!」
――そう来たか。
本当は酔っているのではないかと思わせる一言。誰かに聞かれでもしたら一大事だ。しかし、真っ直ぐこちらに向けてくる視線は愚直なまでに芯を通さんとする頑なささえ窺える。
やはりこの男は生真面目と言い表せる。心算も打算も魂胆さえもこの場では不適当な言葉だ。それは彼がたった一つの芯を通しているからに違いない。
国を回すには不器用過ぎるきらいもあるのだろう。
そんな彼だからこそアルスは口を割って話すことができたのかもしれない。
「それは俺にとって不利益以外の何ものでもありませんね。今後アルファに対して交易関連でもいろいろな譲歩をしなければならないのは何もイベリスに限った話ではない。でもってそんなこと俺はどうでも良いんです」
もちろん、現状では元首を一人欠いた上にルサールカの復興などそれどころではないため、さすがのシセルニアも自国の利益のみを追及することはしないはずだ。
彼女の性格からしてただで済むとは思えないが。
「さすがに結果良ければ全て良し、とは言いません。しかし、今回の一件も含めてあなた方には理解してもらわなければならない」
「…………」
言外に告げられた意味はハオルグのみではなく、7カ国を代表する元首に対しての警鐘。
理解しろ、という傲慢な物言いでさえハオルグは機嫌を損ねるではなく、続く言葉を待った。
「あなた方はいつから世界に内と外を作ってしまったのです」
「何が言いたい」
皆まで言わせようとするハオルグはアルスの意向を正確に汲み取っていた。だが、それは言われずともわかるものだ。元首や総督は念頭にかつての地を取り戻すことを前提としているのだから。
しかし、魔法師の頂点たるアルスが発することに彼は引き寄せられるようにテーブルの上に逞しく太い腕を乗せて身を乗り出した。
「今の子供らは……いや、その親ですら外界を知らない者が多くいる。偽りの鳥籠に満足してしまっている」
「それは我々が多くの血を対価として勝ち取った戦果だ!」
「えぇ、そうでしょう。だが、脅威から目を背けさせるのは人のためにならない。今はまだいい、今はまだ大丈夫でしょう。ですが、生きる場所を違えれば徐々に首は締まっていく。いくら技術が進歩しようと、いくら魔法が進歩しようと、そこに前提となるはずの悲願は希薄になる一方ですよ……」
続く言葉をアルスは飲み込んだ。それは相対するハオルグがもっとも知っているからだ。軍人として魔法師を率い、外界を駆けた戦歴が導く答え。
険しく眉間に皺を寄せた男が口を開く前にアルスはボソリと補足する。
「何も外界は脅威ばかりでないことを知らなさ過ぎる」
「…………」
「明日、俺はロキとイリイスを連れてバベルへ向かいます」
「聞いておる。何をするつもりかは知らんがな」
スゥッと猛禽類のように細められる視線をアルスは真正面から受け止める。
「あそこには誰も入れんはずだ。それが可能ならばここの疑似防護壁ももう少しまともになっただろうからな」
「入れないでは済まない事情ができました」
「バベルの効力か……」
今度はアルスが哀れみの視線を虚空に飛ばす。それはハオルグに限ったものではなく、仮に罪があるとすれば人類が共通する大罪だ。
それを確認するためにもバベルへと赴かなければならない。
「その力が何によって生み出されているかを確認しなければならない。実際に見なければならないのですが、クロケルの目的が事実の上に組み上げられたものだとするならば……」
「やはり知っていたか」
アルスはクロケルの目的についてすぐさま聞かれたが、全ての質問に対して首を横に振ったのだ。事実確認もそうだが、仮に事実だとするならば、アルスがこれからしようとする行いを元首らは看過することができないと思ったからだ。
「どのみち、バベルはいつ寿命を終えてもおかしくはない。あなたの退陣などいらない。全元首が退いたとて俺のすべきことに関わらせるつもりはありません!!」
ダンッと立ち上がったハオルグは怒るでもなく、己の正義を貫くでもなく、純粋な眼を向ける。
「それを貴様は正しいと思っているのか」
「無論です。そうでなくてはならない。これ以上踏み外すのは嫌でしょう?」
アルスはテーブルの上で揺れたカップを手に取るが、いつの飲み干してしまったのか中身は入っていない。
「ハオルグ元首、あなたの手を貸していただきたい。いや、黙認するだけでも構いません。俺が望むのはそれだけです」
「わかっているのか。その行為は反逆だぞ」
「くどいですね。俺は最悪バベルは破壊したほうが賢明だと思っていますよ」
「――!! 待て、今防護壁がなくなれば……」
さすがにこの辺りはアルスに信用がない、ということなのだろう。何せアルスは他国の元首と顔を合わせるのですら数度目でしかない。
「さすがに人間を減らそうなんて思っていませんよ。すぐにどうこうなるような話でもありません。俺が明日バベルに向かうのは確認と……【第三のバベル】を作るためですよ」
不敵な笑みを向けると、ハオルグは苦い笑みを口元に張った。微かに頬が痙攣しているように上手く動かせておらず、崩折れるようにドンッと椅子に腰を落とす。
「確かに自分のしたいことをするつもりではありますが、そこまで狂ってはいませんからね。だからあなたにも理解できるはずだ。ここで手を打たなければ俺は今後、手を貸すことはないでしょう。たぶんですけど【第三のバベル】製作に俺は必要になってくるはずです」
脅迫とも取れる言葉――事実、アルスは脅迫していた。いや、事は単純にして明快だ。損得勘定ができればそれだけでいい。
「ガハハハハハハハアッ……!!!」
夜の静寂に真っ向から喧嘩を売る笑い声が室内を轟かせた。頭がおかしくなったかのような笑い声。しかし、それはどこか自分を納得させる笑いのようにも見える。
豪快にして意図的な笑声。
ひとしきり笑い、ハオルグはこじんまりとキッチンから水差しを掴み、そのままグビグビと飲み干した。
「この場はあくまで非公式だ」
「それも酷い酔っぱらいがいるだけですね」
「ハッハッハ……話以上の男よアルス・レーギン。貴様が酒を飲めん歳でなければ無理やり飲ませもしたが。ククッ…………よかろう。吐いた唾は飲めぬぞ」
「それはこちらの台詞ですよ。言質は取りましたから」
「忘れるな、事実確認。これが優先だ。貴様がこれから何をするか、その時に洗いざらい吐いてもらう」
「心得ました」
まさかこれほどまで順調に話が進むとは予想だにしていなかったことだ。しかし、それだけにこれは大きな前進となる。
これで切り上げるとばかりにハオルグは愉快な顔で一度膝を叩いて立ち上がった。
「うし、では俺も帰るとするか。これから忙しくなるやも知れぬ」
「お送りしましょう」
「構わん。お前が寝坊ではかっこが付かんだろ。俺のせいにされても困るしな」
少なくとも九割方、この男のせいではあるのだが。
「外界で俺が寝坊するとでも?」
「それもそうだが……」
爛々と輝きを放つハオルグの瞳は見送られることの気恥ずかしさが宿っている。良い歳こいてとか思っているのだろうか。
しかし――。
「酔っぱらいを一人で帰らせるのは気が引けます」
「フンッ……お前という人間が少しは見えてきたぞ」
皮肉な笑みを向ける男にアルスは軽く目を伏せるに留めた。
さすがに非公式であり、酔っぱらいという体面をとったのはハオルグ自身だ。返す言葉が見つからず渋々了承せざるを得なかったようだ。
二人して部屋から出る際、アルスは一度振り返り。
「散らかした分は片せよ」
ベッドの上で酒瓶を抱える少女は片目を薄っすらと開けて、弱々しく片手を持ち上げ、ヒラヒラと見送るのであった。
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・タイトルは「最強魔法師の隠遁計画 1」
・出版社はホビージャパン、HJ文庫より、2017年3月1日(水)発売予定