巻き戻しの日常
◇ ◇ ◇
外界ルサールカより大凡50km地点。
二人が活動拠点として寝泊まりしていた洞穴周辺には、各国が手を尽くして新たな拠点が急遽建造されていた。ある意味では要塞の様相を呈している。幸いにもアルファにおける新たな領土の奪還地である【バナリス】からそれほど遠くはない。
そのため、角材などを現地調達し、広範囲に渡って遠隔起動できる強化鉄柵を張り巡らせている。
壕に至っては早々這い上がれないだろうほど深く掘られ、そこを越えれば未だ建造中の強固な壁が立ちはだかる。
それはアルスとロキが仮屋として使っていた洞穴を中心に作られつつあった。
これには数千人という規模の技術者が携わり、そのために動員された魔法師は更に多い。
直線距離で一番近いルサールカからは各所に転移門が設置され、周辺の警備も万全を期していた。物資や人の移動のために転移門が設置されたわけだが、それに至れたのは各国がアルファ、ルサールカ近辺の魔物を大規模に討伐したためだ。
そして一週間ほど前、本格的な拠点作りの要としてアルファが持ち出した巨大な鐘が建てられた。試験的な効果は確認済みだ。工業都市である【フォールン】から持ち出された疑似防護壁、通称【第二のバベル】。
これに携わった研究者然り、多くの専門家が外界を訪れるという異例の事態となった。
そしてネクソリスの二日に及ぶ治癒魔法から二ヶ月が過ぎようかという頃。
洞穴の真上に作られた豪邸の中で少年は未だ目を覚まさず、周囲への心配だけを日々与え続けていた。
それほど広くはない部屋は治癒のためのものだ。いや、もうこれほどの期間稼働し続けて効果が得られないのであれば今一度見直す必要があるのだろう。だが、これ以外に何かができるとは思えなかった。
内装としてはあまりに質素な部屋の壁面は屋内の中でもこの部屋だけ別の作りになっている。
幾何学的な文字の羅列が縦横無尽に走り、一秒足りとも淡い光を途絶えさせない。これは治癒のためというよりも他者の魔力の流れを整えるための非常に弱いものだった。
術後の経過を安静にするためにネクソリスが考案したものだ。
急ごしらえとして建てられた家は、調度品の類は一切なく、味気ない内装のみであるが、そこは外界ということで頑丈さを追及した結果だろう。
無論、この程度で防げるものならば、誰も怯えたように世界の隅っこに集まりはしないのだろうが。
そんな木目すら剥き出しの屋内の通路、若草色の髪を背中の上で跳ねさせ、サイドで一本に結った髪が落ち着かない調子でピョコピョコ揺れる。
白衣の裾を靡かせて少女は誰が用意したのか、外界ではお目にかかれないはずの高品質のタオルを数枚抱えて歩いていた。
ただし、その歩調は時間に追われているような気さえする落ち着かないものだ。
そろそろ昼頃手前になり、小走りになってしまうのもこの少女――フリンは患者の看病を任されているからだ。
日に二度、身体を拭き、寝たままでも筋肉が衰えないように外的作用によって働きかけなければならない。
後小一時間ほど余裕はあるが今日ばかりはそうも言っていられない理由がある。ノックもせず手動で扉を開けたフリンは剥れたように口を尖らせた。
「ロキさん!! 昨日も一昨日もいい加減私の仕事を取らないでいただけますか!!」
引き攣り気味の笑みを浮かべてフリンは言葉に怒気を乗せた。彼女としては迂闊だった。
あの激闘のような治癒術式後、早二ヶ月が経とうというのに……それ以降フリンは毎日二度アルスの身体を拭き、筋肉に作用させるための治療を行ってきた。
だが、ほんの数日前に気付いたのだ。ふと、彼の身体に汗をかいたような痕跡がないことに。毎日拭いているのだから、目立った汚れなどないため、気づくのがあまりにも遅すぎた。
要はフリンが回診のために部屋へと訪れる前に目の前の銀髪少女がアルスの身体を拭っていたのだ。
そして今も、ロキは日向を浴びながら日光浴させるようにアルスの上着を脱がし、絞ったタオルを胸の上に置いていた。
「これは私のお仕事ですので、フリンさんはその後に精を出していただくのが良いかと思います」
しれっとそんなことを言い出している最中も強く擦らないように身体を拭いていく。ただ、上半身を拭き終わったらしく、その手がお腹の辺りで停滞した。
それを見たフリンは鼻先を伸ばして「はは~ん」と勝ち誇ったように胸を張った。
「どうやら、それ以降は私の仕事のようですね。伊達に治癒魔法師は名乗っていませんから、それにロキさんは定期検診に行かなければなりませんよね。おばあちゃんが早く来いって言っていましたよ」
「それはそれです。ここから先は私以外認めません!!」
ほんのり頬を染めた顔で言い返すもロキの手は一向に動く気配を見せない。ともすればこれまでも上半身だけ拭いていたのだろうか。
勝ち誇ったようにフリンは大義名分を翳す。手慣れた動作でタオルを湯につけ、絞る。本当ならば蒸しタオルが良いのだが、今日はタオルを切らしていたこともあり準備出来ていなかったのだ。
「完治するまでは私が看護するように言いつけられてしますので、手際が悪いのならば全て私に任せてください」
さすがのロキも眠っているアルスに看病といっても越えられない一線を弁えていた。命に関わる危機から脱した今となっては理性が辛うじて働く。
せめてもの強がりとして。
「そ、そこまでいうのでしたら……」
これを機に果たして彼女は普段どういう風にアルスの身体を拭いているのか、そこに羞恥はないのだろうか、などと思いながら明日のための勉強をさせてもらおうと思ったのだ。
「最初からそうしてればいいんです。下手なお世話は二度手間なんですから」
どこか治癒魔法師っぽいことを鼻高々に言い放ち、一歩ずれるロキの前に割り込む。
フリンの背中からロキが顔を覗かせていると。
「あの、見てるんですか?」
「愚問ですね、あなたが不埒な行いをしないという保証がどこにあるんですか」
つらつらともっともらしい言葉を告げるロキだったが、これにはフリンも機嫌を損ねざるを得ない。
「いいですか、これはあくまでも医療行為なんです。そういうあなたの発想こそ邪ですッ!!」
「で、やるんですか?」
「当然です!! いったい私を何だと……」
しかしこうして向き直って思案する。確かに今日までアルスの身体を拭いてきたのはフリンだ。
だが、男の身体を拭くという行為自体彼が初めてだ。いや、正確には年配の人ならば数え切れないほど拭ってきた自負はある。
だが、目慣れたはずの弛んだお腹は見当たらず、鍛え上げられた引き締まった身体という意味では別物だ。お腹を拭けばタオル越しに伝わる起伏。
何を隠そうフリンは今日の今日まで手探りで拭いていたのだ。
だが、ロキを相手に大見得を切ってしまった手前、隅々まで手を抜くことは許されないだろう。それはしっかりと目視して拭かなければならないということだ。
下腹部まで降ろされた掛け布団を見て、足が竦みそうになる。高鳴る鼓動が未知の領域に踏み出す心構えを挫いていくようだ。
こんなことは教本や知識として豊富に持っているはずだ。今更何を恐れろというのか。
図らずも鼓舞する言葉が口を吐く。
「治癒魔法師とは人体を知り尽くしているもの、私に恐るるものなど、ない!! …………でも、そこはホラ、プライバシーに関わること、うんうん、時に医療でも越えられない壁もあるんです」
一人納得したフリンは気まずそうに掛け布団を剥がさずに冷たくなったタオルを布団の中に忍ばせた。
その行動に落胆の色は濃い。ある意味では侮蔑に近い言葉をロキは容赦なく吐いた。彼女にはアルスの命を救って貰ったため、感謝してもしきれない恩がある。
だが、ひたすら述べた感謝の後、こうして打ち解けたものの、やはりこれとそれは話が違う。
「やはりフリンさんにも荷が重かったようですね。今回は引き分けということにしておきましょう」
「いえ、私は治癒魔法師なので、ロキさんと一緒にされては立場が……」
「ですが、フリンさんは最後のチャンスを逸しましたので、一先ず今後は私が請け負います」
「うぅぅ……ハッ!! ダ、ダメです」
騒然と病人の前で繰り広げられる言い争いを割るように年長者を感じさせる声が鳴った。まるで子供をあやすような言葉であるのに対して、その声音はこの場の誰よりも幼く響く。
「まったく五月蝿くておちおち昼寝もできん」
「…………」
「…………」
白い衝立の奥で、小柄な少女が椅子に座り片目を開く。
短い足を組み、大人ぶっているようにも見え、微笑ましい光景である。が、彼女の実年齢を鑑みれば至っておかしなところはない。ただシルエット的な愛らしさは拭えない姿ではあった。
「イリイスさん、なんでいるんですか。気付いてましたけどあえて触れずにいたのに……」
ロキは彼女の参入を快く思っていない節がある。というのもアルスの周りを見渡せば女の影が後を絶たないからだ。さすがに中身は年老いているとはいえ、その肌艶は赤子のような透明感がある。
一方で彼女ほどの自尊心――そこまで言わなくとも年長者を無い者扱いされ、さすがのイリイスも居た堪れなくなったのだ。
本来ならばイリイスは幽閉されて然るべき、しかし、今回の一件でアルス側に回ったことと、イリイスの身元を知っているアルファ側からしてみれば幽閉という処置はあまりにも酷だった。
綺麗事を並べればそういった体面はあるが、イリイスの掴んでいる情報など各国には手痛いものだったのだ。
無論、彼女に敵対の意思がないというのならば、各国はイリイスにかかずらっている暇はなかっただけの話ではある。というよりもアルスが起きないことには話を進めることができないということもあった。
そんなわけでイリイスはこの拠点の特定の場所でのみ自由に行動が許されている。なお、魔法に関する使用、その他諸々制限は課せられているのだが。
それでも一応各国の高官らとの事情聴取という名の話し合いの場が度々持たれている。
つまり、そんな限られた行動範囲においてアルスの病室は唯一静かな空間である。イリイスの行動範囲の条件にはロキが同行していれば良いというものも含まれていた。要は一人にさせなければ大丈夫だろうという厚遇である。
そんなわけで彼女からしてみれば毎日ロキが訪れるこの場所は絶好の憩いの場なのだ。