掬い上げる手の皺
少女に手を沿えられながら老婆はゆっくりと先頭に出た。
ハオルグは万が一の事態に保険としてネクソリスを呼び寄せていたのだ。それもすでに手遅れとなってしまったが。
ネクソリスは目を細め静かに侮蔑の色を含ませて全員に向ける。
「いい歳こいて、婆婆におしめを取り替えさせようってんだから目も当てられないさね」
ハオルグは巨体をネクソリスに向けて腰を折った。「面目ない」と一国のトップが頭を下げたのだ。
それに加えて全員が鼻白むように言葉を返せずにいた。
盛大に溜息を吐いてネクソリスは少女の手を放し、一人でロキの元へと歩き出す。
その歩みは決して早くはない。だが、どこか緊迫した空気の時間を緩慢にさせたような気がした。
「一度助けてやった命がこうも早く散っちまうなんて、やりきれないものさね」
そんな優しげな言葉は遣る瀬無さを枯れた喉の奥から絞り出すように発せられた。
まるでこの距離は誰にも侵害することができない程、神聖なものに変える。
ネクソリスが近づいてくるのにロキは眦を釣り上げて睨んだ。これ以上、交わす言葉など何もないとでもいうように。
たった二人、その場所に入り込もうとする老婆を労る余裕などもうロキにはない。
そんな彼女を見てもネクソリスは怯みもしない。伊達に長く生きてきたわけではないのだ。しかし、それだけに彼女がどうしようもないほど悲しみの淵に足を掛けているのがわかる。
だからネクソリスは自然に溢れる柔和な顔で、全てを悟ったように告げた。
「誰も止めはしないさね。ただ最後に坊やをこのままにしておくのは忍びない。せめて腕だけでも……その後でも遅くはないさね」
柔らかく微笑んだ老婆はそうロキに断りを入れて、アルスを見下ろした。
「…………」
しかし、アルスを見たネクソリスは深刻そうに目を細める。治癒魔法師として経験を積んだ彼女だからこそ感じる不自然。
幾度と、救えずに目の前で看取ったからこそ、その些細な兆しを見逃さなかった。
――おかしいさね。見たところ、坊やが死んで一時間未満。ならばこの坊やほどの魔力総量ならば欠損箇所から魔力が漏れていそうなものだ。それに肉体のほうも妙さね。体温はおそらく低下しているはず、なのに何故こんなにも状態が良い……。
ネクソリスは思考するより早く、腕を持ち上げた。それは長年の直感に基づいた指示だ。
彼女が連れてきた治癒魔法師たちが背後で妙に騒がしくなる。
それを見て、ロキは今度こそ完全に敵意を老婆に向けた。
「……!!」
しかし、そんな視線は邪魔だというようにネクソリスは思考の底に意識を集中するために持ち上げた腕をそのまま突き出しロキの威勢を削ぐ。
――あまりに不自然さね。魔法的な何かが働いているとしか……。
果たして死んだものにそんなことができるのだろうか。誰かが施したにしては魔力情報で満たされる体内でそんなことができるはずもない。
そうだとしたならば拒絶反応なりもっとあからさまな死が見て取れるはずだ。
背後を振り返り、彼が通ったとされた場所を見てもやはり不自然さが際立つ。まだ残った血痕などからどれほどの血が流れたか。
もちろん、死んだ後も体内の血液は体外に流れるが、彼の場合は致死量と思われる血液を辛うじて越えていないだろうと思われた。
その原因まではわからない、ただ……。
突然ネクソリスはアルスの心臓の上に触れ。
「何か変さね……」
ロキは置いてけぼりを食らったようにただ老婆がしていることを見ることしかできなかった。というよりも何を言っているのか理解できなかった。
彼女は邪魔をするどころか……それどころか、アルスを……死を間近で見て、覆りようもない結果を覆そうしているようで。
冒涜しているようにも映った。もうこれ以上アルスを傷つけないで、と。
しかし、ロキが老婆の枯れ枝のような腕を振り払うより早く、ネクソリスは見つけることができた。正確には感じることができたのだ。
手は心臓から下ではなく、上へと向かい。アルスの頬を伝い、そして……。
「これさね……」
閉ざされた瞼を強引に開くネクソリスにロキの視線も吸い寄せられた。開ききった瞳孔など見たくもなかったが。
「…………!!」
そこには黒い靄が掛かった眼球が夜空のように浮かび上がっている。
何より……。
「ま、魔法式!!」
反射的にロキはそう口を吐いたが、その式は初めて見るものだ。無論、ネクソリスとて目を凝らして追っても、解読どころか既存の【失われた文字】に当てはまらないことしかわからなかった。
だが、確実に言えることは。
「仮死さね!! だが……」
そう仮死という一つの可能性を提示したが、果たしてこれで生きているのかは甚だ疑問だ。何せ彼女の膨大な経験と知識をもってなお、こんな事例は今までにないのだから。
だが、当然間近で聞いていたロキは聞き逃すはずもない。
「ど、どういうことですか!! アルは、アルは……」
「まだ可能性はあるさね」
言い終えるのと同時にネクソリスは歳に似合わない大声を張り上げた。
「ホラ、助けるよ。ボサッとするんじゃない。無菌室、治癒術式で覆うんだよ」
その声に即座に反応したのは治癒の経験を持つ者のみであり、それでも一拍後には全員が慌ただしく動き出した。
「ここは埃っぽくていけないさね」
そう言って今一度ネクソリスはロキを見て、その傷ついた手の上にしわくちゃの自分の手を乗せた。
今にも決壊してしまいそうな別種の涙が彼女の頬を伝い始めていた。
堪らえようにもロキの顔はすぐに大粒の涙を流し、必死に懇願した。
「助けてください、アルを助けてください、助けてください……お願いします」
何度も何度も頼み込む少女にネクソリスはこの確実性のない試練に挑み、救うという結果を無理矢理にでも手繰り寄せる決意をする。なんてことはない、治癒魔法師は人を救ってこそ、その本質が意味を持つ。
それは多くの命を救ったであろう、聖女とて例外ではない。数え切れないほどの命を救っても、目の前の命を見捨てては治癒魔法師として積み上げてきたものに唾を吐くに等しい。
磨き上げた腕と知識が、ただの自己満足ではない証は命を一つでも多く救った時にのみ輝きを放つ。
ロキの顔は一変して、ただ救いたいという想いのみで構成されていた。
ならばこそ。
「いいさね。一度救った命、二度救うも変わりないさね。だから安心しな……」
己の状態すら危ういというのに顧みない懇願は寿命を縮めるだけだ。銀髪の少女の頭に軽く手を乗っけた直後、ロキはその瞳の光を徐々に柔らかくしていった。
そして自然に閉じていく瞼。
「次に目が覚めた時には全てを最高の形で終わらせるさね……フリン、大仕事になるよ。ぶっつけ本番だ、できないじゃ済まないよ」
聖女にフリンと呼ばれた少女はいつの間にか傍まで来ており、支える力の失くなったロキを支える。
「わかってるよお婆ちゃん。すぐに始めよう」