慚愧の容れ物
ナイフを構えた状態でロキは微かな振動を足元に感じて、手を止め、振動の方角に顔を向けた。
ぞろぞろと姿を現した魔法師たちは各国の部隊が混在しており、様々な風体だ。
だが、それで何かが変わるわけではない。今更彼らが何をしに現れたかなどどうでも良いことだった。
死を邪魔されただけで、僅かな間アルスの元へと行くのが延びただけだ。
それでも彼らを見るだけで、自分や彼とは別の生き物に見えてしまう。
あの中の一人でも道連れにすれば少しは気が晴れるだろうか。そのための力ぐらいは……いや、そのためだったら力を絞り出してみせる。
だが、そんな気も結局は決断するまでには至らない。
数人をあの世に送ったとてあと僅かな命の溜飲を下げる程度だ。そんなことよりも、今はただ邪魔されたくなかった。
これ以上の苦痛を彼らではロキに与えられないのだから。
ガヤガヤと騒がしくなったとしても彼女のどこに投影されようというのか。すでにロキの視線や誰にも割くことを許されない思考の隅々まで腕の中で眠る彼に注がれている。
外野など一瞥するだけで十分だ。
こちらに向けて放たれようとしている魔法すらどうでもいい。
結果は同じであるのならばそれでいい、とロキは優しく彼を見下ろす。早くそちらに逝かせて欲しい。自分で逝くのと違いを見出だせないのならば早いか遅いかの差なのだろう。
◇ ◇ ◇
馬を駆り、各国元首は比較的先頭に近い位置で大規模に進軍していた。それは大国アルファとルサールカから出立された軍隊だ。
かつてないほどの規模で開始された進軍は当初と比べて、その目的を180度変えていた。
ハイドランジ元首、ラフセナル殺害に加え、それに加担したと思われるクロケル・イフェルタス。
しかし、その確証度でいえばベリックのみ確信を得ていることになる。シセルニアに見せられたバベルの資料データの中に彼がいたのだから。
直にわかるとはいえ、初老の総督は気が気でなかった。この一報を受けて真っ先に進軍の合図を出したのだからそれもわかろうというものだ。
たとえ、相手が他国元首だろうと、彼を止めるだけの論理を構築することはできなかった。
だが、それもすでに遅かった。そうベリックは目の前の惨状にきつく拳を握りしめた。奥歯が砕けそうなほど力のない自分が悔しい。この歳になっても失敗を繰り返してしまうことが、どうしようもなく許しがたい愚物だと自嘲が湧き上がる。
組織として上に立ち、考え、命令を下す者が自分の不甲斐なさを感じたのはこれで何度目だろうか。
また、また……。
「また、俺は失敗をしたのか……」
目の前の光景はこの場に集った全魔法師を踏み込めない聖域のように感じられた。
赤く染まり、事切れてしまったアルスを優しく支え、抱きしめるロキに誰も立ち入れない。それは彼女が一度だけこちらに向けた瞳を直視できたものはいないからだろう。
ベリックよりも先に到着したはずの病み上がりのレティでさえ、掛ける言葉すら見つけられずに立ち尽くしていた。彼女の傍にはヴァジェット、ファノンが、そしてそれを覆うように駆り立てられたレティの部隊員。
アルファ魔法師の後悔は色濃かった。親の敵を目の前に堪えるしかないような、そんな怒りだけを静寂の中で静かに滾らせている。
誰もが動きを止めざるを得ない状況で、唯一少女が動き出す。
傘の形をしたAWRに膨大な魔力が注がれた。その総量は決して低位の魔法ではないことだけを示す。
そんな物をこの密集したところで、放つのが非常識であるのならば、その照準が瀕死の二人に向かっていることを見過ごすことなどできない人物がこの場には多くいた。
そのモノたちの筆頭にレティは腹の底に募った憤怒が堪えうる限界を越えた。
目の前で攻撃態勢に入ったファノンの頭をがしりと鷲掴みにして。
「一つでも構成を突破してみろ、その手は戦争を引き起こす覚悟を持っているのか。ガキの足りないオツムを絞れ」
淡々と抑揚のない声音はレティにして誰も聞いたこともない類の怒りだった。一つ間違えばこのシングルは容易く国や秩序を足蹴にして行動に移すだろう。
それほどまでにレティは我慢ならなかった――この期に及んで敵意を露わにするその行動が、醜い人間の部分であるかのようだった。
怖くて、おっかなくて、ビクビクして。
レティの背後では彼女の部隊員全員がアルファ以外の魔法師に対して無差別に揺るがぬ決断を魔力に乗せた。バキバキと関節を鳴らす音がただならぬ雰囲気を醸し出す。
頭を鷲掴みにされたファノンは首を回して、レティへと見上げる。その口元は嘲りにも、対抗心にも見えるような不敵な笑みが浮かんでいた。
「マジになるなよ~、オバさん」
おちょくるような声音だが、少しでも冗談だと思う者はいないだろう。容姿だけ見れば子供の小憎たらしい児戯で済むのだろうか。
「凄むな、ガキ」
明らかに負傷していた者が発するものではない。レティの腕には今も痛々しいほど包帯が巻きついている。完治するには時間が足らなかったのだ。
それでも彼女にはファノンが一線を越えるのと同時に戦闘を開始する覚悟があった。口調さえも普段のそれではない。
実際にこんな場所でシングルが戦闘に入れば元首さえも巻き添えになるため、可能性としては皆無だ。
そんな緊迫した空気を軽く往なすように。
「もう結構ですよファノンさん」
人垣を割ってクレビディートの元首クローフが姿を現す。
それ見て、事の成り行きを静観していたハオルグが予期していたとばかりに悪態を吐いた。
「貴様の慎重過ぎる性格は好かん」
「まぁ、そう言わず。誰かがしなければ事態は動きません、でしょ? 手負いの獣が本当に手負いであるかを調べるにはこれしかないのですから」
「悪役を頼んだ覚えはない。さすがの俺もこれ以上は我慢できんぞ」
「そのようですね。でも、すでに悪役では済まないのが我々です」
さすがにクローフといえど今回の一件は手痛い。ハオルグは彼が当初のシナリオ通り進めようとしているのではないかとさえ邪推してしまう。
「もう……」
まるで異に介さないようにベリックは歩み出す。息子もいないベリックがアルスを重ねるように面倒を見てきたのは私情も多分に含まれていたはずだ。
今だからこそ実感するに至ったが。
これまで総督として仕事を任せる一方で、アルスならばという甘い考えがあったのだろうか。
それでもベリックはアルスの変化を快く思っていた。学院に入れたのは正解だったと思えた矢先だったのだ。
彼の周りには軍ではなかった新たな交友が築かれている。
だから、せめて丁重に扱い、ロキだけは助けなくてはならない。
だが、彼女の顔を見てしまったベリックはそれすらも酷く間違っているように思えてしまった。あんな絶望と慈愛を共存させたような顔を見て、何も思わずにいられない。いや、彼女に掛ける言葉すらも見つからない。
それでもアルスを思えばロキは助けなければならない。彼は絶対にそれを望んでいないとわかっているから。
数歩歩き出したベリックをロキは気にも留めない。
それでも最後の務めと責任を負うため、歩き出さなければならない。
しかし、そん決意を挫くように老人の独特のしゃがれた声がすぐ後ろでなった。
「みっともない、大の大人が揃いも揃って……」