一人のための英雄Ⅴ
すでに対処は遅く反応は一歩遅れる。だが、それでももうよかった。まるで剣は操られるように迫るクロケルの手の中に引き返していく。
強引に引き抜かれた剣が大量の血液を溢れ出させる。
――クロノス、か。そうだったな。
痛みの中でアルスはふいにそんなことを内心に染み入るように発した。
滑るように真っ直ぐ【暴食なる捕食者】を裂きながらこちらに向かってくるクロケルは無表情、勝ちを確信するでもない。何を狙っているのかすらわからないが、グラ・イーターが旋回して戻ってくる頃には全てに決着が付いているだろうことだけはわかった。
右目に掛かる靄と視界の右半分を痛みが襲う。彼の言うとおり、これが【イーゼフォルエの漆眼】で間違いないのだろう。
だからなんだというのか。
捻じ伏せるようにアルスは魔眼の化身たる【暴食なる捕食者】を解除する。瞬時に歪んだ闇が消え去り、また右目に激痛が走る。
【暴食なる捕食者】は消しても靄は消えない。クロケルの右半身は見えないが、それもまた関係のないことだ。
「死んで人柱となれ、アルス!!」
何かに駆り立てられるように叫ぶクロケルにアルスは静かに口を開く。
「幻想に散れ、英雄……」
振り被られた刃が一閃の内に交差する――かのように思われた。しかし、二人の時間は確かに停止していた。直前に発せられたアルスの口は確かに告げていた。やっと魔法名を決めることができた。まるで口がそれを発したいがためにスラスラと言葉を紡ぎ出す。
「【時の忘却】」
相手の五感に働きかける無系統の極致。
主に視覚から感覚器系に作用し、認識を錯覚させ定着させる。簡単にいえば誤認を強制する魔法。時間を認識できなくする魔法だ。故に相手の時間は完全に止まる。
それがたとえ一秒未満の些細な停滞であろうと勝負を決するこの一瞬では決定的な明暗を分ける。
振り被ったままクロケルは微動だにせず、アルスの血を吸った剣は腰に据えられたままだ。彼の焦点もアルスの動きに連動していない。
僅かとはいえこの刹那を噛みしめるようにアルスは短剣を高々と振りかぶる。
クロケルはその一瞬を時間の遅延と認識することができたが、脳がそれを正しく反映しない。身体は正確に時間を認識できていなかった。
それでも確かに【ヘクアトラの碧眼】はアルスの動きを瞬時に解析し、視覚に投射している。
残像を残し、自分より遥かに早く動く姿をクロケルは辛うじて追えた。もっと、もっと眼が正確に相手を認識し、捉えることができれば……。
その期待に応えるように碧眼は目まぐるしく演算を眼球内で繰り返す。焼き切れそうな稼働限界がツゥーと眼から赤い液体を滴らせる。
――まだだ。まだ、まだ……。
そう祈るような一瞬の思考が更に魔眼の演算を早くし、それは次第に脳へも影響をもたらした。
焼ける眼の膨大な計算に脳が追いつかない。見ている景色をリンクさせ、身体へと反映させるための脳が言うことを聞かない。
次第に脳は細部までをフル稼働させ……そして……。
何かをクロケルに見せた気がした。
§ § §――――――――――――――――――――――――――――――――――――
少年が思いついただけの、拙い英雄譚をラティファは毎夜聞きたがった。それがどれほど続いただろうか。すでに少年の中では反復できるほど記憶されてしまった物語となった時。
此処のところ、ラティファの目の治療の目処が立ったという知らせを受け、妹は三日ほど部屋を移して集中的に治療に専念することになった。
現代医学に加えて急速に進歩を遂げ始めた魔法技術。関心が高まる魔法の可能性。当初、そんなことを言っていたかと研究の目標を少年はふと思い出す。
その貢献者たる少年のおかげだとも肩を叩かれもした。たまにこの施設が大きく揺れることもあり、百人近い研究員は一時騒然となった日が続いたが、それはもういいのだろうかと思ったが、少年にとってやはり無駄な話以外何ものでもなかったため、特段切り出すことはない。いつも事務的な会話しかないのだから。
いつものように少年は研究室に向かう道中、すれ違うカートに乗せられた大袋の山をいつものように脇に逸れて歩く。今日は少しばかり頭の中が忙しかったのだ。山の数になど目が行くはずもない。
ラティファの心配もあるが、彼女に約束してしまったのだ。悲しい英雄譚の続きが聞きたいと。
――う~ん。やっぱりハッピーエンドしかない。
頑張り続けた英雄のその後を考えるのは少年に取って心を高鳴らせるような気配を抱かせるものだった。何故ならば、兄妹が頑張るための物語で、妹は今その英雄と同じように頑張り続けているのだから。
ならばこそ、最後に待つのは二人でゆっくりと、のんびり、楽しく暮らすほかにない。しかし、いざ考えてみると、それ以外の幸せの形を少年は知らなかった。
世界がどれほど広いのかなど、少年では知らないことがありすぎたのだ。
――ならば旅に出よう。うん、ゆっくり暮らすのはその後でもいいはずだ。目が治ったらきっと世界を見たがるからね。
外が危険であることなど頭からすっぽりと抜け落ち、今はただ幸福が想像を膨らませる。
フフッと自然に綻ぶ頬が妹に語って聞かせるのが待ち遠しくウズウズしてくる。決まりだ、これしかない、そう少年は今日も研究室の扉を開けた。
そして見た。
巨大な容器の中を満たす気味の悪い液体。
その中で小さな異形の化物が蹲っているのを、見てしまった。身体の半分は黒く炭化したような異様な肌。
そしてもう半身を見た時、少年は目を限界まで見開き膝を折った。
ゆっくりと弱々しく開かれていく化物の赤黒い眼。顔の半分……身体の半分もが異形のそれに変わり果てたモノが激痛に堪えるように堅い唇を動かし、潰れた喉は異音が混じり、液体の中で確かな音を……優しい音を発した。
「オ、ニ、ィ、チャ、ン……」
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「うああああああぁぁぁぁ!!!!」
「……!!」
湧き上がった絶望と恐怖。それが脳の支配から解き放たれたようにクロケルの腕を動かした。
確かに残る斬った感触。
錯乱した目は己の内側を映すだけで、現状の理解を拒んだ。
彼が斬ったものが今、宙を舞ってただのパーツとして落ちていく。そう、アルスは右腕の付け根から血を吹き出していた。
それでもアルスは予期した痛みを感じることなく、目の前の敵に向かって動きを止めない。
「腕の一本ぐらいくれてやる」
右腕が切り落とされる寸前にアルスは握り込んだAWRを放していた。斬られる予感、いや……【時の忘却】を持ってしても破られる、そんな気がしたのだ。彼はその期待に、予感、予想に応えてくれた。
だからこそ、アルスは腕を落とされても、その動きには何も影響を与えなかった。左腕を丸め込むように反対側に回す。
腕の止血をするためではない、その手は確かに鎖を握り、魔力を伝わせていた。
魔法としての複雑な構成は必要はない。空中に放り出されただけの鎖が魔力に反応して棒のように一直線になる。それはまるで槍のような武器へとなった。
そして、クロケルの心臓目掛けて、全力で突き刺す。
「ガハッ!!!」
そのまま柄を持ち、抗おうとするクロケルだったが、地面へと叩きつけられるのと同時に短剣は更に心臓へと深くめり込む。
衝突の衝撃はクロケルから抵抗という力を根こそぎ奪い去っていった。あれほど輝き、演算を繰り返していた【ヘクアトラの碧眼】も今は大人しく微かな明滅を命の灯火と連動させているかのようだった。
鎖から伝わる鼓動の余韻が振動としてアルスの手へ伝ってくる。
鎖から手を放すと固定させるだけの魔力は役目を終えて、ジャラジャラとクロケルの胸の上で塒を巻く。
見下ろすクロケルの表情は切望して止まなかった願いが潰えたことへの後悔を一欠片も探すことができない。それどころか、安堵したような安らかな物を映していた。
ゆっくりとアルスへ向けられる碧眼。
「バベルへ行くといい。君にも知る権利はある……それで僕の……」
最後まで告げずにクロケルは碧眼に宿る光を消失させた。どこか満足そうで、委ねるような言葉にアルスは何も発することができなかった。
彼がなそうとしたことは多くの命を助けるものだ。そこに正義や悪など建前でしかない。正しい行いであろうと、悪い行いであろうと、それが結果として多くの命を救うのであれば人は口を閉ざして今日を生きていくのだろう。
ならば彼の大望は潰えたことになる。そしてそれを阻んだのはアルスだ。
だというのに。
「……勝手なことを………………ッ……」
後ずさるようにして、アルスは数歩ずれる。が、そこから一歩も動けず、アルスの意思に反して膝が折れる。
見る意味すらないほど、右腕は付け根からあるべき肉体を失い、止める手段も見つけられない血が体内から溢れ出る。いくら外界で実戦を豊富に積んだアルスであろうとも、応急処置用の医療器具では何もできない。
あるのは靴の底に仕込んだ針と糸のみ。
傷口を押さえる手は余すことなく鮮血が乗り移る。痛みとはまるで刹那的な悪夢であるかのように意識を泥濘の底へと導く。生きるための生命力を自身は自覚することができない。それでも唯一その方法があるとしたら、今がその生きていくための生命力が漏れ出ている状況なのだろう。
果たして押さえることに意味があるのかすらわからない。手は痛みを緩和させたいが故の行動で、死ぬことの抵抗なのだろう。
「これは……参ったな」
いつの間にか右目の靄は綺麗さっぱりなくなり、代わりに視界が霞み始める。まったく勝手な眼だ、そんな悪態も弱々しく思う程度。
ただ、腕を失ったことを少しも惜しいとは思わない。
失くなった腕の断面を押さえる手は力が入っているのかすら、もうわからなくなっていた。腹部を貫かれた傷はアルスの首の力が失われたと同時にやっと気づくに至る。
ここにも穴が空いていた。蛇口を開いた状態のように、絶え間なく流れている真っ赤な血を見て、もう何も思えなくなっていた。
掠れる視線は自分の膝を見ているだけだ。なんとか倒れないようにしているので精一杯だった。いや、倒れないようにするにはどこに力を入れればいいのか、それすらも遠い無意識で刻み込まれたものなのだろう。
だから、何故倒れないのかすら理解できないことだ。
それでも、心のどこかに帰らなきゃ、という想いだけが形を保っている。
もう血は出尽くしただろうか、まだ生きているということは今も出続けているのだろうか。
ならば自分は動けるはずだ。
化物である自分を彼女たちは受け入れてくれるだろうか。今まで通りの日常が送れるのだろうか。「そうだといいな」そんなありふれた望みは、果たしてピクリとも動かない口で発せられたのだろうか。
混濁する意識の中で、本心を吐露するためだけに頭は機能していた。
――そうだ。ロキに伝えたいこともできた。
誰かに聞いてほしい気分なのだ。やっと自分を見つけられたような気分なのだ。しかし、それが叶う気が全くしない。
様々なことがこの眠気のような倦怠感の前では些細なことのように思えてきた。
誰かの声が聞こえた気がする。
それでももう瞼を開けているのは限界だった。地面が近づいてくる。黒い闇が視界の上から降りてくる。
何故か、それが凄く怖かった。
全てを終わらせてしまうその闇が寒々しく身体を冷やしていく。
また、また……ままならない世界に翻弄される、もうご免だと思いながらも身体は動かない。心は折れてないのに身体が先に折れてしまった。
自分の選択を後悔しないためだったはずなのに、虚ろな瞳は結果を拒み続ける。
動かない身体と回らない思考に抗い続けた鼓動がゆっくりとその心音を弱らせていく――それも瞼という暗幕の奥で静かな灯火を潰えさせるしかないのだろう。