一人のための英雄Ⅳ
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だから少年はそんな妹を励ますために英雄譚を創作し、ラティファを宥めるために聞かせた。
…………それは誰からも愛されない英雄の物語、それでも最後まで正しくあろうとする行いを全ての者は許さなかった。それでも疎まれ、憎まれ、蔑まれ、殺されかけても男は止まらず。
成し遂げた行いを多くの者は世紀に残る悪行だとか、悪魔だと叫ぶ。
しかし、英雄にはただ一つ……たった一人守りたい者がいた。愛する者のために奔走し、己の力だけで……王を討った。この世界を変えるためにはそれしかなかったのだ。
身体が朽ちても男は愛すべき人のために英雄であり続けた。それは皆のための英雄ではなく、たった一人の英雄の物語。
悲しくも戦い続ける勇敢さを聞かせるための話であった。
この話を作った少年は何故もっとハッピーエンドにしなかったのかと不思議に思ったが、意外にもラティファはこの話に聞き入った。そして話し終えた時、彼女はいつも薄っすらと涙を浮かべて寝息を立てていた。
最後まで聞いてくれたのかすらわからない。それでも彼女は毎日の実験に対して前向きに取り組むようになり、泣かずに我慢し……笑った。
その時に初めて少年は気づいた。何故こんな話を思いついたのか。
それは少年にとっての英雄がラティファであれば良いと心の底で願い、自分はラティファだけの英雄であろうと強く誓ったからだった。
なんてことはない至極単純で今までと何ら変わらないことだったのだ。少年が妹を守ってきたように、少年もこれまでラティファがいたから今日まで生きてこれた。それだけのことなのだ。
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◇ ◇ ◇
交わる剣戟が相手の肉を裂く、そのために己の身体が傷つけられたとしてもそれは覚悟の上で、やはり行き着く先の戦術に過ぎない。生きるために、自分の主張を覆さないために結果が求められる。
最後まで立っていた者が正しく、明日を語れる。
だが、アルスは短剣を振り、息をも吐かせぬ打ち合いの中で思考はまったく別のことを考えていた。それはどこか達観しているようで、ともあれば自分という個人を探ろうとする試みだったのかもしれない。
――こいつの言うことはきっと正しい。平和とは犠牲の上に成り立つからこそ、平和という担保された安全を認識できる。
それでも、口に出してしまう主張は結局夢物語で理想に過ぎない。理想だとしてもそれを無くして人は秩序を維持できない。人が乞い願う有り様は必ず普遍の希望へと姿を変える。
誰も死を意識しない世界こそが平和だとするのならばそれは間違いなく気楽な話だ。こんな世界でなければ気楽も楽観も許されたのだろう。だが、もうこの世界はそういうことを許されなく回っている。否、最初から変わっていなかった。
――魔物が現れようが、何も変わらない。何も変わらないままならば淘汰されるだけの話だ。
そうなっていない厳然たる事実を受け入れるべきなのだろう。平和だけを盲信していたのならば、とっくに人間など魔物に駆逐されていただろう。いや、もっと早く人間同士で殺し合っていた。
だからほんの少しずつ人は変わってきている。夢から現実を見るようになってきている。その願いとして力ある者が犠牲になろうとも。
――責任なんぞ俺の知ったことじゃない。世界がどうあれ俺は……。
頼り切った人々が望む泡沫の夢を魔法師はその身をもって叶えようとしている。きっとそこには明確な違いと確かな共通が存在している。何もかもが担保された平和など人が生きていく上でこれ以上ない不遇という他ないのだろう。それでも命を脅かされない世界は確かに甘美で実現させる目標として微かな光明を人は見ている。
――だから甘い。自分の手で変えられない、変えようとしないことは怠慢だ。そんなものは願いどころか夢ですらない。そんな世界でも俺は守るべきモノを見つけることができたのだろうか。
最後にしがみつける拠り所。独りよがりだとしてもアルスの内にある小さな繋がりはきっと手放すことができないものだ。それがなければきっとアルスでさえ何も変わらない。
言われるがままに外界で脅威を排除するだけに命をすり減らせるだけだ。今までのように。
内に問いかける声は目を逸らしていただけなのだろう。何ものにも代えがたい気持ちがいつの間にか膨れ上がっていたのだから。
きっと我儘だとしても内から溢れ出す願いを誰にも邪魔させない。
――まったく重たいものがいつの間にかこんなに多くなっていたなんてな。
だから武器を取り、抗う。
もう自分一人のためではない、誰かのために力を行使する。それが結果的に多くの命を救うことになったとしたらアルスはこう言うだろうか。
「ついでだ。ついでに助けてやる」
――あれもこれも救えるだけ救ってやる、何もしないならば黙って俺のすることを静観していればいい。それが自分たちに都合が悪くなるんだったらいくらでも排斥すればいい。俺は俺の好きなようにさせてもらうだけだ。俺は救いたい奴だけを救う。
魔物が現れ、多くの命が失われた。それを誇り高いと呼ぶのか蛮勇と呼ぶか、それは人それぞれでいいのだろう。少なくともそこに存在していたのだという事実さえあれば、その死は誰の記憶に残らなくとも価値を色褪せさせるものではない。
しかし、それでも誰かが手を下していいことなど何一つないのだ。
己の罪を実感して、相手を否定する自分。
虫の良い話だと自分でも自嘲してしまいたくなる。幾度と命を絶ってきたこの手に、幾度の死を外界に見捨ててきたこの目で――アルスは自分の願いを優先させるのだから。
だが、最後でアルスは踏みとどまれた。何を犠牲にしても助けたい者たちがいる。きっと彼女たちは不本意だと口を尖らせるだろうなと、思いながらもアルスは止めない。
それで救われた彼女たちが彼に感謝を告げることがなくてもいいのかもしれない。だって最も素直な感情は頭からではなく心から湧き上がるのだから。
――やり直そう、ここから世界は変わる。俺はここから俺の世界を広げる。だから……。
「お前には誰も殺させない」
「もう言葉はいらないよ。君に求めるのはいらない口ではなく、その力だけなんだから」
両者の全力の一撃が衝突し、身体もろとも弾く。
息を大きく吐き出し、無呼吸の剣戟は互いの身体に同じ数だけの切り傷と刺し傷を残した。
魔力量でいえばまだまだ余裕はあるが、すでに魔法を使う機会はない。だというのに、即座にアルスは魔法を発現させた。脳内構成を瞬時に終え、その際系統式の細部にバグを組み込む。
バッと持ち上げた手が勢いよく翳される。
「【蒼原は燐晶】」
空間に残る膨大な魔力残滓。その配列をアルスは一定のパターンに組み替えた。破棄されたはずの残滓が物質としての形を形成したのは一瞬のできごと。
刹那、クロケルの左右で巨大な尖爪が両側から挟み込まれるように合致する。
空間掌握魔法に物質としての定義を追加した魔法。その姿は魔法としての幻想に形を与えたような銀の水晶。
左右で五つずつの爪がどこからともなく出現し、隙間なく噛み合わさる。だが、耳が痛いほど甲高い高音を発して水晶はその威力に堪えられず破砕する。
即座にバク転して回避したクロケルに対してアルスの手は止まらない。
瞬時に破砕された水晶の破片が別の構成を辿る。水晶とはいえ、その本質は石英とは全く異なる。魔力残滓を復元し、新たなエネルギーとして再構築した物質である。
魔力としての構成を止め、無限に再構築を許された魔力の結晶。
空間を掌握し、一定の範囲に存在する魔力残滓の時間を遡及させる。そこにアルスは無数に組み合わせられる魔法へと構成を与えた。
一瞬足りともアルスは視線を外さず、脳内は遥か先を見越して構成を計算する。
右目がズキリと痛んだが、それを気にしている暇も余裕もなく、最初から死を覚悟しているアルスにとっては手を緩める理由になりえない。
水晶の破片はアルスの掌底に応え、破城槌のような形状に姿を代えた。突き出される手にリンクしクロケルの顔面目掛けて突き刺さる。
おそらくは無駄だろう。そんな予想を計算の元、アルスはAWRを引き、鎖を伸ばして駆けた。
怪しく光る碧眼が瞬時に構成を解析し、歪む空間の中に破城槌は消えていく。
これだ、魔法を書き換えるというのは再構築することも可能とするのだ。アルスの背後に破城槌の先端が空間を転移したように生み出される。
気付いていないのかアルスは速度を緩めることなくクロケルへと駆けた。低く地面のすぐ上を擦る短剣。
それが振り上げられることはないだろうとクロケルに思わせた。
しかし、死角をついた破城槌の転移はアルスが直接手を下さずに崩壊していく。
「――――!!」
そうクロケルの【ヘクアトラの碧眼】は魔法の構成を書き換える物。これまでの魔法戦でもクロケルはアルスの攻性魔法を書き換え、指向を自分ではなくアルスへと引き返す構成に書き換えることを行った。
無論、それは発現座標すら手を加えられるものだ。
だからアルスが如何に座標を強固な情報でコートしてもクロケルの目には全てが解き明かされてしまう。
魔法という魔法がクロケルへと迫っては座標もろともアルスを狙う独自の魔法に変換されてしまうのだ。
そういう意味では今回も繰り返された対処。魔眼の力と魔眼たる常識を覆す異質を披露するものだった。
だが、実際に繰り返された一方的な魔法戦においてアルスは回避するか【暴食なる捕食者】で応戦するしかなかったが、今回は違った。更にいえば、同じことをアルスは繰り返す必要がなかったのだ。絶対の自信を逆手に取ったというべきなのだろう。
アルスは口元でカウントを取っていた。全てが時間の中で正確に計算され尽くした戦術。【蒼原は燐晶】といえど空間掌握魔法に質量を与えたのだ、そこに魔力や魔法の構成があることは確かだ。
だからこそアルスは構成に爆弾を仕掛けた。それは一定時間後に構成を自立崩壊させるという自動崩壊型の構成だ。水晶がガラス片のように砕けホロホロと空中に溶け込む。
一瞬の隙にアルスはクロケルの懐まで潜り込むと、一切の躊躇いもなく短剣を振り上げる。体勢を崩したクロケルは剣で防ぐがその程度では防御しきれない。
弾かれた身体が宙に浮く中で、アルスは最高率化された体捌きでピタリと左手を相手の胸に沿える。そして流れるような重心移動が凄まじい衝撃を発し、そのままクロケルを吹き飛ばした。
木々を置き去りに景色が風のように通り過ぎていく。
吐血したクロケルは口元を拭う暇もなく、意識を頭上に向けた。
――魔力を乱されたか!!
認識と同時に一瞬で頭上から振り下ろされる短剣に向かって剣を振り上げる。瞬刻の間に目の前でアルスが無慈悲に短剣を振り下ろす。拮抗などできようはずもない、足場となるものもなければ身体を捻っただけの力では全体重を乗っけたアルスの一撃を堪えることはできない。
今度は地面に向かって弾き飛ばされる。それでも激突するような未熟ではない。的確に空中で体勢を整え地面につく足の衝撃を堪えた。筋肉の悲鳴すら思考の中で邪魔を許さない。状況がそれをさせないのだ。
更に頭上から振り下ろされる巨大な水晶の剣が陽の光を内部で乱反射させている。
しかし、魔力を乱されたクロケルにこの一瞬で魔法を構成している余裕などない。焼き切れんばかりに目まぐるしく碧眼の内部で無数の文字列が行き来し。
「無駄だぁぁ!!!」
アルスを見失ったためだろうか、水晶の剣は一先ず構成をバラバラに分解され、破片すら残さず霧散した、が。
その奥に黒髪の少年が一点を見下ろし、短剣を向けて落ちてくる。
「――ッ!!」
――【紡ぐ瞳】。
強引に魔法の構成を魔眼に代替させたクロケル。
空間の配置を移動させる。さながらパズルのように組み換えられた空間には隙間ができていた。世界は空間の修復を行うがそれをクロケルは魔眼によって抗う。無論、抗える類のものではない。しかし、結果として空間の修復やそこに干渉するものは膨大なエネルギーが生み出される。
力技とも言えるその力は魔法とは形容し難い。だが、その力を転用し、抽出したクロケルは圧縮したような黒球を生み出した。周囲を取り巻く歪な魔力の波動。明らかに過剰な魔力を圧縮させていた。制御するだけでほとんど魔眼の演算に割いているようなもの。
事実、クロケルが黒球の下に生み出した障壁。瞳を投射したような放射状に展開される多重障壁はその魔法を維持するためと己の身を守るためのものだ。
空間の修復を一転集約させる魔法。膨大なエネルギーを圧縮し、その衝撃を受けないために障壁を展開しているのだ。魔法を書き換えるという意味において、魔力を押さえ込む力はまさに逐次情報を書き換えることができる【ヘクアトラの碧眼】の真価であろう。
アルスは瞬時に脳内で思考する。だが、それはクロケルもまたアルスと同じように魔物の体組織を混入されていたという言葉を思い出すだけだった。
彼も同じように空間を掌握できるという意味ではこの力はアルスの想定内でもあった。
一瞬の狼狽すら見せず、アルスは全身から漆黒の魔力を放出した。地獄の番犬のようなシルエットを形作る先端が空間の歪みを丸ごと飲み込む。
僅かだろうと空間に干渉した影響は魔力として膨大なエネルギーを生み出す。それを留めていた黒球を喰らうことで世界は自動的に修復された。
ドクンと脈打つように体内に吸収された膨大な魔力量がアルスの意識を擦り減らしていく。歯を食いしばり眼下を睨みつける。そこには想定していたが、やむを得なかったクロケルの失策が表情を強張らせていた。
景色のずれが瞬時に直ると【暴食なる捕食者】はいくつも首を伸ばし、真下にいるクロケルへと迷うことなく走る。
展開された多重障壁は円が瞳のような模様を描き、その周囲を見たこともない魔法式が周回していた。まるで何かに遮られているように【暴食なる捕食者】が防がれる。衝撃に口はバネのように障壁の表面をドス黒く染めるが。
しかし、それも一瞬だ、不可侵の壁は【ヘクアトラの碧眼】が生み出したもので展開された障壁は規模も大したことはなく、後から降ってきたアルスの【次元断層】を纏った刃を障壁に突き刺すと中心から罅を走らせる。
その間も漆黒の魔力は障壁を周り込み、眼下のクロケルへと迂回していた。
だが、一瞬の時間とはいえ、時間は時間だ。クロケルは更に大きく後退しており、目標を追った【暴食なる捕食者】はまるで飢えた獣のように意志を持ち、大口を開けて木々の隙間を駆け抜ける。飛沫でも上げるように口の中から口だけのシルエットが吐き出され、地面を駆けてはまた口の中から口が吐き出される。
その都度速度が増し、瞬く間にクロケルへと追いつくが、彼は最後に太い幹に足の裏を付けて着地した。それは【暴食なる捕食者】の捕食を受け入れたように思える行いだ。
六つに分かれたグラ・イーターの口が一つになり肥大化し、一飲にしようとかという刹那。
自我を持つグラ・イーターが真っ二つに裂かれた。その裂かれた場所でクロケルは目まぐるしく魔法式を書き換える碧眼の激痛に堪え、両腕を広げていた。その手には魔力とは違う異質な光芒が宿り、ヘクアトラが発す輝きを映しているようにも見えた。それがグラ・イーターを弾いているのだ。
苦悶の顔を追いやり、小刻みに呼吸を繰り返すと、幹を足場に一気にアルスへと跳躍して迫る。
裂かれる魔力を感覚で感じ取り、分析するより早くアルスは迎え撃つ体勢に移行した――直後、クロケルの剣がグラ・イーターの体内をすり抜けて投擲され、アルスの腹部を鍔まで深々と貫く。
「グッ……」
漏れる苦鳴を堪え、それでも相手を見失うようなヘマはしない。