一人のための英雄Ⅰ
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世界の混迷。大陸から大陸を渡り、山を越えてひたすらに安全な地を求めた人々が最後に行き着いた場所。平和が突如として終わりを告げてから三十年余り。
ただ彷徨う記憶。溢れた人々が大国に身をやつし、それを受け入れざるを得ない街。急速に増えた人の数も徐々に散っていったが、それでもまだ様々な整備が行き届いていないのが現状だった。
絶対に離れまいと少年は妹の手を引き、街を渡り行き着いた大都市で更に彷徨った。頼る縁者もいなければ生きていく術を教えてくれる親切な大人もいない。
そういう子供たちをなんといったか……害虫だったか、ゴミだったか、物乞いすらその日を過ごすには難しい。
今日はまる一日道の端で誰かが投げてくれる硬貨や食料を求めるだけの日々だった。
誰が同情してくれるのか、大通りの影に隠れるようにして生きていくことしか許されない。少年は同情を引きたくなかった、そんな風にして生きたくはなかった。それでも、何もしなければ人の身体は活動を止めてしまう。意志の力だけでは生きていくことなどできないのだから。
そんな恥ももう感じない。少年は憐憫を引くことの抵抗を捨て、今日もお情けで誰かに生かしてもらう日々。
彼らは光に照らされた生活に身を浴した者たちだ。そんな彼らからしてみれば、少年のような子供は目の上のたんこぶでしかないのだろう。取れる手段は盗みしかないのだから。
賑わう市場から一歩奥へと踏み入れば別世界のように、境遇を同じくした少年らが表に出てきて食料を奪い去っていく。
小賢しく注意を惹き付けて、その隙に盗むという子供ながらの発想ではあるが、それがその日の成果として腹を満たしてくれるのならば褒める褒められないの問題ではないのだろう。
だが、少年には妹がいた。彼はいつも妹の手を引き、先を示す兄であるのだ。残飯を漁り、必死に物をせびる。それで得た食料などを彼はいつだって妹を優先して食べさせた。
きっと盗みをすればもう少しマシなものが空っぽの胃の中を多少なりとも満たしてくれるはずだが、少年が妹の手を放すことはなかった。
何故ならばこの手が妹の道を作っていくのだから。
「ラティファ、足元には気をつけて、廃材があるからね」
「うん! 大丈夫だよお兄ちゃん」
乾いた唇は所々罅が入ったように切れており、口を開く度にラティファの閉ざされた瞼の上が震える。ずっとだ、また新しい傷が足にもできている。
見れば道を示すため、誘導する兄に気を遣ったばかりに足を引っ掛けても何も言わない。
一度傷を作ってしまえば治りにくいというのに。
感染でもしてしまったら…………そう考えるが、少年には妹の笑顔の裏にある自棄の一端を見てしまったような気がした。
目の見えない妹は兄である少年がいなければ生きていけない。そして妹には兄が自分を優先させてここ数日は水のみで騙し騙しやり過ごしていることがわかっていた。目が見えないことをいいことにワザとらしく「半分」という薄っぺらい虚言を吐くのが当たり前になっている。
真っ暗な中で兄の声だけが視界に温かい色を与えてくれる。だからこそわかってしまうのだ。
ラティファが常に死を考えるようになったのは、誰かが死ぬまでの過程を知っているからだった。聴覚や嗅覚が目の代わりに発達したのか、嗅ぎ取れるようになっていた。人が死に近づく異臭を――だから痛くても口は開かなかった。
せめてもの抵抗、自分というお荷物を抱えたがために兄が日々弱っていくのがわかってしまう。何度も心の中で感謝を告げて兄がこの手を放すことを願う。
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魔法師であるならば澄み切った外界の空気に慣れ親しむもの。あるべき光景は感謝と悲願を思い起こさせるものだ。
だからこそ、魔法師ならば気付かないはずはない。この一帯にどれほどの高位魔法が放たれただろうことを想像することは容易かった。キラキラとした空虚な粒子を知覚する以前の問題だ。
魔力としての役割を終えたその残滓が宙空に舞い、さながらスターダストのようでもある。
物質としての概念に左右されない粒子だが、吸い込むことが躊躇われるほどに一帯を埋め尽くしている。魔力の残滓はいわば燃えカスのようなものだ。次第に空中に溶け込むそれは消えていく残滓より遥かに生み出す量が上回っていた。
まるで魔法戦争としか形容する他ないのだろう。無数に交わる魔法は息すら吐かせぬもので、それが途絶える気配を見せないのは、発している両者がほぼ無傷であることからわかろうというもの。
誰も止められないし、止めようとも思わない。
寧ろ、遥か遠くで眺めていようとも視認できる限り、身の危険を感じざるを得なかった。そんな戦い。
いつまでも続くものだと思われた魔法の攻防は互いに致命傷にはなりえないと確証した段階で両者はともに手を止めた。
まるで唾でも吐きたい気分でアルスは肩を揉み、断言する。
「クソ鬱陶しい眼だな」
そんな暴言を意に介さず、クロケルは泰然と「さて、付き合ったんだ。答えを聞かせてもらってもいいかな」と飄々と言い放つ。その質問自体に彼はどこか浮足立ってしまう感情とは別に値踏みでもするような物言いだった。
溜息混じりにアルスは一度息を整えて語りだす。クロケルの碧眼を見据え、忌々しく口を吐く。聞いてくれるというのならばこの硬直した戦闘を打開するのに良い機会である。
それに相手が何をしたのかという分析をご丁寧にクロケルが解答してくれるのならば有益な情報となるだろう。
それが淡いものであるのはアルス自身わかっていた。見たまま、感じたままの現象を口にするだけで分析できてしまうのだから。
「構成した魔法を書き換える、だろ?」
まるで子供がなぞなぞを解いたように柔和な顔は晴れやかな感情を押し出す。関心を通り越して感銘を受けているような気さえする顔だ。
しかし、これが正しいことはアルスにとってやはり思わしくない。
魔法は魔力を源として構成される。つまり個人の情報によっても構成されているようなもの。端的にいえば魔法の構成を阻害することはできるが、書き換えるということは不可能だと断言できる。
魔法の構成に干渉できるのはそれに属する魔力であり、魔法でしかできない。
だから、これは別質の力。
「【ヘクアトラの碧眼】」
「本当に君は凄いね。あんな実在しないような話に辿りつけるんだから。ヘクアトラの碧眼とは誰かが勝手に思いついただけのものかもしれない……」
「馬鹿か、プロビレベンスの眼にセーラムの隻眼が実在しているんだ。眉唾では済まされない」
「そうか、君はイリイスの眼を見たんだね。へ~、何かあるとは思ってたけどそこまで知ってたなんて……うん、正解。正解だよ。最もヘクアトラの碧眼については発現者が僕しかいないからね」
「ならばどうして魔法を書き換える魔眼と呼ばれている」
なるほどと、クロケルは少し茶化すような笑みを頬に浮かべ。
「あれは僕が流したんだよ。ちょっと資料を撒いたら瞬く間に魔眼の噂は広まったよね。魔眼は太古より存在していたよ。悪魔の遣いや、はたまた使徒と呼ばれることもあったほどだ。結局は発現して死と引き換えに御業を見せると言われていたらしい。その代表が生命を司る【セーラムの隻眼】だね。プロビレベンスなんかもあった、でもあくまでも、そうらしいというだけなんだ」
「…………」
広めるという意味をアルスは即座に見いだせない。魔眼とは被検対象としてある種強制的に保護された。以降は自分から名乗り出るほど馬鹿な奴はいないはずだ。
ましてや、基本的に魔眼は発現時に相当な苦痛を発現者にもたらし死に至らしめる。それもまた稀有な例がいるため、どこまで信用すべきかの判断がつかない。
「同胞を探すためもあったね。もちろん、魔眼なんて発現するまで当人でさえわからないんだからあまり意味のないことだったよ。すぐに死んじゃうんだもん」
「ならばお前は……」
アルスの疑問を遮り、クロケルは唐突に話題を変えた。
「じゃあ【イーゼフォルエの漆眼】はどうだろうね。僕の【ヘクアトラの碧眼】は魔法を色と記号で見ることができる。手を触れずとも構築された情報が手に取るようにわかるんだ」
ピクッとアルスの目尻が反応を示す。これほど魔眼についての知識を有しているということ自体が不可思議であり、それをアルスは聞かなければならないことのように思えた。
明滅しているようにも見えるクロケルの瞳は眼球の奥で文字列が浮かび上がっている。
「死の霧、死へと誘う獣。そんなふうに言われていたよ。眼球に靄がかかる、身に覚えがあるじゃないかな? 【イーゼフォルエの漆眼】を君は眼に宿しているのだからね」
「――!! どうだろうな」
クククッと不気味な笑みは全てを見透かしているような瞳でアルスを見ていた。
何より最も驚いていたのはアルス自身。まったく疑ったことがないといえば嘘になるだろう。元々異能として研究を進めていた力だ。
真っ当な方法でなど解明できるはずがないもの、少なくとも現代の魔法学や異能関連の研究において解明できないことだけは明らかだったのだ。ただ魔力の情報全損、もしくは適合する【失われた文字】が存在しないことだけがわかっている。
そこでリンネの魔眼を研究する機会を得た時に脳裏を過ぎったのだ。彼女の眼球に浮かび上がる【失われた文字】が現存するものとは一致せず、読み取れないものということ。
「僕以外なら確かめようもないね。でも僕は君より君のこと知っているんだ。君が魔眼保有者であることは君が生きていることが証明しているんだから」