人類の境界線
◇ ◇ ◇
異様な緊迫感が防衛線手前で繰り広げられていた。アルファ国内において軍の総本山たる本部には物々しいアルファ軍人の動きに対して、防衛ラインに陣を敷くように他国軍――イベリス軍がその警戒心を生存圏である内側に向けている。
その中央で腕を組み、かれこれ一時間以上もの間立っている長身の男が立ち塞がっていた。ヴァジェット・オラゴラム、現魔法師2位の彼が居る以上、アルファは強硬な手段を取ることができない。
両者の睨み合いにも似た均衡状態は随分と長くアルファ側に足踏みさせた。
無論、その原因はアルファ総督による決断でもあるからだ。
ベリックは一時的な指揮権の移譲を認め、アルファ軍は現在、イベリス総督ハオルグ・メゾン・ジェコフェレスの指揮下に入っている。
元首を外で待機させるのは忍ばれるが、アルファからしてみれば相手が元首であろうと気にかける余裕はない。
アルスに続き、レティまでもが現在国内の魔法師を結集して治癒に当たらせているのだ。なお、次いで重傷であるサジークも同様に担ぎ込まれている。
ムジェルは単純な魔力の枯渇が原因であるが、こちらはまだ意識が戻っていない。命に別状はないとのことだ。
そして現在、軍備を整える準備に帰還したヴィザイストが当っている。もちろん、しれっと戻ってきていることにベリックも内心安堵を溢していた。
二人は状況の摺り合わせをほぼアイコンタクトのみで行い。お互いに準備を終えたことを確認した。
急ごしらえの幕舎を設置しているが、アルファの動向に目を光らせるイベリス軍は、その中にハオルグもいることでこちらを牽制しているのだろう。
ベリックはやりづらさを感じつつもこの元首が軍事についても外界に精通していることを知っている。
だから……。
「安心しろ。目標地点はアルファよりルサールカのほうが近い。我らがここにいるのは言わずともわかるなベリック」
狭い幕舎の中で体面に座るハオルグは総督を前にしてもその気勢を削がれない。彼にはわかっているのだ。正しいこととすべきことが一致していないということを。
「ルサールカにはハルカプディア軍が合流しておる。で……こちらは……! 着いたか。遅いぞ」
幕舎の入り口に向けてハオルグは顰めっ面で愚痴を溢す。
「うわっ、ムサッ!!」
ハオルグよりも更に眉間に皺を寄せて顰める顔はどこか愛らしさすら覗かせる。しかし、その言葉は咄嗟に口を吐いたが故の本音なのだろう。
続いて背後から壮年の優男が柔和な笑みを張り付けて申し訳なさそうに入室する。
姿を見せたのはクレビディートが誇る4位ファノン・トルーパーであった。
自国の元首よりも先に入ってくることについては誰も言及しない。というのも背後にいるクローフの表情だけでもすでに疲労を隠し切れていない。
「失礼。遅れました」
「貴様まで来たのか」
慇懃なクローフに対してハオルグは役に立たないと言外に告げざるを得ない。自分が元首という立場から逸脱していることは承知している。元首とは間違っても前線に姿を現すものではないのだから。
何より、外界についての知識はもとより、魔法師に関しても現在の元首は知識が浅い。だからこそ、その分野において総督という役職をおいているのだ。
そんな無礼とも取れるハオルグの発言にクローフは、やはり柔らかい笑みを崩さない。
「えぇ、どうやら私がここにいる必要がありそうなので。ですよねベリック殿?」
その含むようなクローフの言葉にベリックはチラリと視線を向け、背後でレティの代わりに同席したヴィザイストが無反応を示す。
「どうやら遅れたのは原因がありそうだな」
急かすように核心を問うハオルグ。
しかし、自国の元首を差し置いてまたしてもファノンが子供っぽく「どうもこうもないわよ」と首を振った。
その姿だけを切り取るのならば事態はそう大したことではない気がしてくる。
しかし、クローフは呆れたように頬を掻いてみせた。それはファノンに対してなのかは判断がつかない。
「その前にこの状況はやはりアルファが動いたと見ていいのでしょうか?」
ハオルグは頷き返す。
「なるほど……」
「だからなんだというのだ!! 状況をわかっているのかクローフ殿!!」
「これは失敬。では単刀直入に……ルサールカの【星雲】がハイドランジに向けて進行しました」
「馬鹿なッ!!!!」
「えぇ、どうやら離反ということでもなさそうです。ですよねベリック殿?」
まるで見透かしているような表情は最初と何も変わらない微笑。
だが、その話はベリックにとってまさに吉報というべきものだった。つまりリンネがルサールカとの接触を図ったということだ。
想定よりも遥かに早い対応はルサールカの思惑がシセルニアの推察通りだったからだろう。
ハオルグは【星雲】という言葉にルサールカの覚悟を見た気がした。ヒスピダやジャンが率いる部隊はルサールカの最高戦力であるが、ルサールカにはそれとは別に元首を守護する精鋭部隊がいるとされていた。
いわばアルファのアルスが請け負うような仕事を中心に請け負う部隊、リチアの懐刀がジャンであればその露払いが【星雲】である。ヒスピダの死によってルサールカの国力が減退したというのはこの【星雲】という部隊の存在を知らない者の台詞だ
その戦闘力はルサールカ国内でも部隊随一とされている。シングル魔法師であるジャンやヒスピダの部隊における功績とは種類が違うため一概には言えないのだが。
その部隊が外界ではなく、内に進行したということは。
「どうやら一杯食わされたのは我々のようだな」
吐き捨てるようにハオルグは口を吐いた。アルファが握っている情報については、抵抗を見せたことでなんとなく察したハオルグだが、それは自国のシングル魔法師を守るためだと思っていた。しかし、ルサールカが動いたとなれば此度の進行に疑問を呈しざるを得ない。
元首の判断を反映させているのだ。と同時に疑問を湧いてくる。
「ならばルサールカには……」
「どうやら部隊は揃えているようですが、肝心のジャン殿も姿を見せず、それどころかハイドランジも遅れていますね。これは【星雲】の進行が原因でしょうが」
「クソッ、内でも外でも荒事を!!」
こうならないためにハオルグが今回の恨まれ役を買って出たというのに。
八方塞がりとはまさにこのことだろう。だからこそクローフがこの場に来たのだと合点がいくというものだ。
これは元首の判断が委ねられる局面であるのだから。
岩のような拳を握り、ハオルグはテーブルの上で静かに震わせる。この判断を誤れば何一つ解決せずに泡沫となって危機を迎えることになる。
彼がこれほどまでに悩むのはそもそもクラマの起用そのものに納得していないからだ。だからこそ最後までアルファの抵抗を見ないふりしてきたのだ。
無論、そのための保険も打っている。だからこそ、ここでその決断を迫られるというのはまったく想定していなかったことだ。
「好きなようにさせれば~」
まるで他人事のように軽い口が緊迫した空気を弛緩させる。それは呆気に取られるという表現に言い換えてもいいものだ。
ファノンが発した無関心の極致のような言葉にハオルグはドンッとテーブルを叩いた。
しかし――。
「出遅れてるのがわからないの? 私はどっちでも良いけど、無駄に働かされるのはご、め、ん、なの」
かなり言葉に棘があるため、その口を閉ざすようにクローフが一歩前に踏み出し、クレビディートとしての決定を告げた。
「クレビディートの投入できる魔法師は五千。二千弱をハイドランジに向かわせました。すでに戦力不足ですが、仕方ないでしょう」
クローフの言葉はベリックに向けられていた。
そしてもう隠す必要がなくなったベリックは。
「アルファは誰一人として参加しませんよ」
「ほぉ~」
唸るクローフは白状する気になったベリックの口に任せて聞きに徹する。
「アルスの討伐という任務では我が軍に一人一人が参加の意志を持たないでしょう」
「それをさせるのが軍のトップである貴様の役目だぞ!!」
ハオルグの怒声を受けてもベリックは物怖じすらせず、寧ろ淡々と告げてみせた。
「でははっきりと申しましょう。私がその命令を出すことはないでしょう。ハオルグ様とてアルファの魔法師を動かすことはできますまい」
「……!!」
「言ったじゃない。結局好きなようにさせるしかないのよ」
「そういうことです。手は打ちましたが、ベリック殿もそれ相応の覚悟で決断されたことのようです」
クローフの確認にベリックは無言で応える。
「ですが……」
不穏な言葉を続けようとするクローフにベリックは視線だけを向けた。
彼は黒いグローブで指を一本立て。
「ファノンさんなら長距離魔法を放つことができます。座標的にもアルファからならば問題なく届きます」
つまりアルスもろともクラマすら一掃してしまおうという手段。それはベリックからすれば苦肉の策ですらない。
しかし、それほど乗り気でないファノンだが、それはクローフに命令されたからであって、本人は存外乗り気であった。
「進軍直前に放つわ。射線上から外して斥候を放っているし、エクセレスもいるから座標は割り出せるわね」
満面の笑みを浮かべてそう告げるファノン。ベリックとヴィザイストは一言も発さなかった。やはり全ては時間次第ということだ。
吉報を待つほかないとはいえ、やはり現段階では作戦自体を中断させることは叶わない。
国やそこに暮らす人々を侵害させないために何を優先すべきかを考えれば当初の予定通り、アルスとクラマの殲滅しかないのだ。
ここまで話を聞いて判断に迷いが生じたハオルグだが、逆にクレビディートの元首であるクローフは顔に似合わず、無慈悲な決断を下す。
彼にとっての天秤は結局のところ平和と安全なのだ。
ギリギリまで判断を誤らないためにハオルグは頭を悩ませてきた。平和な世の中を、など空想に過ぎないが、元首とはそれを目指す者のことだと彼は思っている。
だから最後の最後までハオルグは鈍い頭を回転させるのだ。
各国が連携することは後々の役にも立つ。それは共通する脅威に対して一丸になれるということでもある。バルメスでの失態をハオルグは己の責任とも感じていたのだ。隣国にいながら密な関係を築いてきた。
だからこそ、その信用が互いの国境を越えて手を取り合えるものとばかり。
誰が救援のための派兵に対価を要求するものか。そう感じていた。しかし、現実はハオルグのほうが少数派なのだろう。だからこそ、今回の7カ国の共同戦線は遺産になるはずだった。だから多少のことには目を瞑り、スケープゴートであるかもしれないアルスのことを強引に頭の隅に追いやったのだ。
しかし、アルファだけでなく、ルサールカまでもが反する行為を取る。
この状況が果たして後の糧となるだろうか。
――否だ!!
そう、バラバラの現状を後に残すことをハオルグが恥であると断じた。二国がアルスの擁護に回ったと見ればそれはすでに決断を審議し直す必要がある。
ハオルグが幕舎から出ていこうとするクローフとファノンを引き止めた。
「待て、そちらはそちらで進めてもらって構わない。しかし、イベリスは最後まで判断を保留にするぞ」
「はい。それで構いません。ですが、出撃のタイミングだけは合わせてくださいね」
「では」と出ていこうとした直後、これまで一言も発さなかったヴィザイストのカード型携帯端末に着信がかかった。それは微かな振動音すら周囲に聞かせるものではなく、身体に触れてるように内ポケットにしまった彼にしか聞こえない。
だが、迷わず取り出そうとするヴィザイストにクローフの足が止まった。そしてベリックの「間に合ったか」という言葉に全員が鋭い視線を向けた。
その脇からチョコンと顔を出し、見上げるファノン。
これが、傍受されているということを抜きにしても、元首が集ったこの場で通話という意味を理解しない者はいない。
意図せず耳を澄ます一同を気に留めることなくヴィザイストは手短に報告だけを受け取り、端末を耳から離して内ポケットにしまった。
この期におよんで独自に部隊を動かしていたと勘ぐる視線も全ては彼の放った一言で無意味なものへとなる。
「ベリック、テレサは満足のいく仕事をした」
「そうか……」
無論、隠語の類ではない。それだけで二人に共通して事の結果が手に取るようにわかったのだ。
つまり、テレサは部隊員の骸の山を築いたのだ。そういう部隊で、彼女の性格や信条がどういう結果を導くかは決まっている。でなければヴィザイストは「完遂」したなどの語句を用いただろう。
だからこそ、これは彼女にとって満足する結果だったはずだ。
つまり任務は完遂したが、その被害はテレサが望む死者数を意味する。以前、彼女は「部隊を維持できなくなることが私の責務」だと告げたことがある。それは粗野な隊員がひたすらに望む願い、厄介払いされても彼らには人類の一助となることを誰よりも願っていたのだ。
だからこそ、彼らは軍内部で正しくあろうとした。故にテレサの元に放り込まれたのだが。
彼女はそんな哀れな隊員たちをベリックの代わりに救うことを誓った。人一倍危機感を抱き、個人ではなく国の忠臣。誰よりも誇り高くあろうとした者たちだ。
蔓延る悪を許すことのできない者たちなのだ。
プライドの高い高官たちからは目の上のたんこぶであったのだろう。だからこそテレサを部隊の長としたことが唯一ベリックにできることだった。今ならばと考えても彼らはもう戻りたがらないだろう。それほどに彼らはテレサに心酔している。彼らにとっては救世主だったはずだ。
お払い箱にされた身を引き受けたのだから。稀に現れる忠義の厚い者たち、歓迎すべき者たちであるはずだが、それを許せるほど軍の内情は清廉潔白とはいかなかった。
そんな者たちが散った知らせを受けてベリックは人目も憚らずゆっくりと目を伏せた。
「国内に潜んだクラマの残党は始末した」
「「…………」」
ヴィザイストの一報に驚きもなく、ただクローフとハオルグは視線を鋭くする。
しかし――。
更に付け加えられた報告にこの場の全員が硬直する。まさにアルファを除く6カ国が立てた計画、その筋書きそのものを引っ繰り返すに値するものだった。