人の身の心
胸を押さえ流れ出る生暖かい血を見、イリイスは呆然と手に乗り移ったあるはずもない赤い液体に寒気を感じた。
そして荒々しい呼吸の合間に、いくら呪っても解決の糸口すら見つけられなかった。人でなくなった自分の身体を拒み、そして人間でないことを受け入れてきたのだ。それが今、幾万という栄華を謳歌した人としての証がその身に戻ってきたのだ。
だが、現状ではいつまでも懐かしさすら味わう時間はないのであろう。人とは違う何か、という恐怖はイリイスを孤独にしただけではないのだ。自分が一番拒絶したいこの力を欲する人間がいるという悍ましさ。そんな時を思い出す度にイリイスは自分以外の全てを人間と呼ぶようになり、決して自分が人の中に紛れることを良しとしなかった。いや、誰もそうさせてはくれなかったのだ。
わかっていたはずだ。人とは人を構成する物があり、外見が必要だということ。彼女の身体が液体状であるなどということは例え公言しなくとも、その他大勢の中で平然と息をしているのだから……自嘲した。
居るべき場所を求めてはどこにもそんなところがないのだと自分が気づかせてくれる。
だからこそ、往時を思い起こさせる原因を作ったハザンを睨みつけた。
「私に何をした!!」
向かい側では唸るように感心するハザンがニヤリと口端を持ち上げた。
「クロケルが指示してメクフィスに作らせたものだ。俺も詳しくは聞かされていなかったが、上手くいくとはな。これで公平、仕切り直しだ、死の淵に足を掛けた殺し合いを始めようぜ!」
「クッ……クッハッハッハアアァァ」
白い顔で弱々しくも狂気じみた笑い声がイリイスの喉を鳴らした。
「あぁ~……ハハッ、そうかそうか……」
「あん?」
明らかな重傷であるのに対して、何が可笑しいというのか。ハザンは眉を寄せて静観する。
しかし、イリイスの引き攣ったような口が無垢な笑みを形作る。その顔は一言で表すとすればまさに「安堵」。
「なるほど。私はまだ人だったのか。温かいぞハザン! 何より痛いしな」
彼女の心の内など知る由もないハザンはネジが飛んだのかと思ったが。
「これは思わぬ収穫だ。お前らには感謝しなければな。代わりといっては何だが安心しろ。殺してやる」
ゾクリとハザンの背中――否、心臓が締め付けられるような狭窄が筋肉を強張らせた。無意識下の警戒心。故にこの緊張感がたまらないのだが。
表情という感情の代弁を放棄してしまったようなイリイスの無機質な顔。
その表情から何かを見出すとすれば、黒、負の類しか読み取れない。微笑んでいるようにも見える視線は一時だけ咲かせる散りゆく花を憐憫を込めて見ているようでもあった。また、その僅かな残り火のような命を消すも生かすも己の手の中にあるという弱者に向けるような儚い目。
命に制限や限界があるようにハザンの命が僅かな間に縮まる。それがわかっているような哀憫の瞳だった。
だが、現実的な視点で戦況を見るとすれば、確実にイリイスの身体には経験したことのない危機が迫っていた。いや、自分の身体なだけに薄々感じる。命の砂時計が今凄い速度で落ちていくのを――止まっていた砂が溢れていくのを。
ロキに施した治癒は解けてしまった。いや、自らの身体に戻さなければならなかったのだが、幸いなことに彼女は一命を取り留めただろう。確実なことは言えないが、傷口は閉じているはずだ。内蔵までは手の施しようもないが、延命することはできただろう。
後は一歩も動けない状況でどうするか。
こうしてみると人も中々不便な身体だと思ってしまう。それが嬉しくもあるのだが。
――あいつが何をしたのかは後回しだ。魔眼は辛うじて生きているが、身体のほうは……。
やはり、この痛みはイリイスが開眼前にあった遠い記憶で忘れていたものだ。これほどまでに自分の身体が言うことを利かないものなのかと。
そう思ったが、この小さな身体だ。あの体力馬鹿のように平気な顔はしていられないだろう。呼吸をするだけでも胸が上下し、その度に傷口が開いているのかと思える。
それが心地よくすらあるのだから不思議なものだ。死ぬかもしれないというのに、自分が死ねることがわかっただけでどこか救われた気持ちになってくる。
だからこそ、尽きる前に果たさなければならない。
「【黒楼芒波の四尾】」
薄く霧のような四尾がその輪郭を徐々に濃くしていく。薄い闇が四つ、イリイスの背後から生え、宙空で感覚を確かめるように鎌首をもたげるように独立した動きを見せた。
しかし、その構成は確実に不足していた。神経との伝達に誤差が生じている、アルス戦で見せたような漆黒の水尾ではなく、どこはかとなく褪せた黒は辛うじて無色との区別をしているに過ぎないものだった。
これが現状の最大。それはイリイスの傷よりも遥かに魔眼に影響をもたらしていることは確かだ。ハザンが浴びせた溶液が身体を人の身に戻し……それは魔眼による力を弱まらせていた。
「準備は整ったぞ? わざわざ待ってるなんてお前らしくないな」
「そういうな。俺は俺で準備させもらったからよ」
「なら構わないか」
止まらない血がカウントダウンへと誘うが、イリイスは表情に出さずただ敵を視界に収め、動き出す。
AWRを構えたハザン目掛けて四つの尾が伸びる。
速度も威力もまた半減しているとはいえ、極致足る魔法の真髄はその操作性にある。四角からの刺突であったが、目前で左右の二本が地面を叩き、砂埃を巻き上げた。
反応速度で現状の【黒楼芒波の四尾】ではハザンに対抗できるかは不明である。だからこそ工夫を凝らさなければならなかった。
随分と惨めな顕現であるが、全てを注ぎ込んだ力だ。できることを全力で挑み、遂げる。
しかし、砂埃の中を貫いた二本の尾は戻ることもこれ以上伸ばすこともできなかった。
「オラァ!!」
気張った発声の直後、イリイスの全身が引き寄せられながら空中に浮く。湾曲した尾が天を向き、その本体であるイリイスは軽々と空に舞い上げられた。
できるだけ体勢を変えずに、身を任せてイリイスは真下を見た。そこには両腕で尾を抱え込まれ、締め付けられるようにホールドされている。
ふぅ~と一呼吸吐くと、イリイスは空中で痛みに堪えるように息を止め、器用に身体を回転させた。鮮血が飛び散るが構いやしない。
掴まれた尾に捻りが加わり、付け根から螺旋にツイストする捻転がその力を先端に伝える。それに抗うハザンはこめかみに青筋を立て、両腕に血管が浮き上がる。じりじりと爪先が地面を擦り拮抗が崩れようとした。
そしてハザンのAWRの柄にある魔法式が微かな光を発し――。
「クッ!!」
魔法が発現するより早く、ハザンの巨腕が弾かれる。その反動にバランスを崩した。
脇から抜け出た尾は凄まじい勢いで脇下を裂いていき、代わりにもう二本の尾が前後から振り子のように狙いを定めた挟撃。
ハザンは瞬時に弾かれた反動からまだ立ち直れていない。これらの攻撃はほぼ同時に行われている。
野獣の感ともいえる判断はハザンの巨体を強引に弾くように片足で地面を蹴り、身体を回転させて滞空時間を稼ぎ、二歩分ほど横にずれて回避する。
驚くべきことに回転しながらハザンはAWRを引き抜き、神がかったタイミングで尾の側面を弾いたのだ。
しかし、ちょうど頭上を越えたイリイスは真下を俯瞰しながら攻撃の手を緩めない。すぐさま尾による連打が雨のごとく注がれた。
地面を穴だらけに穿つ尾は徐々に砂埃を巻き上げた。
が、イリイスの神経にちくりとした痛みが掠めた。
尾が切断されたことを直接脳に刻み込むように別種の激痛が頭の中に居座る。
半円を描くように空中の攻撃に対してイリイスはそろそろ地面が近づいていることに尾を引き戻そうとした。
が、巻き上がった砂煙が渦のように中心に集約されていき、消失した。消失していたと思った渦は、今度はイリイスの目の前に出現し。
「――!!」
着地のことなど考える暇すらなく、イリイスは四尾を自分の眼前に盾として引き戻す。
だが、その魔法は直接的な攻撃を発揮しなかった。この魔法を既知としてたが、今の彼女には防ぐための手立てとして四尾を盾とするしかなかったのだ。
吸い貯めた砂埃を吐き出し、その暴風に晒されたイリイスは抗うことができずに更に着地点を後退させられる。
すぐに四尾を解き、激突してしまう前に地面に突き立て減速を図る。その際に見たハザンの身体は至る所を四尾に貫かれ、致命傷は免れているようだが、左腕は丸々赤く染めている。
側面を抉られたように逞しかった腕は骨すら覗かせるであろう有様。
イリイスは視線を地面に戻し、残りの尾で着地の衝撃を緩和させてゆっくりと降り立つ。それでも身体にかかった負荷によって傷口は更に開く。
すでに胸から下の衣服は吸い尽くせない程の血を含み、異様な重さになっていた。
ハザンが発した魔法の意図をイリイスは訝しんでいた。いや、そう感じたという程度なのだが。
それでも攻撃のためでなく……そう。
「――――!!」
イリイスはここまで吹き飛ばされたことが意図的であることに気がついた。振り返り、視界の端で捉える。うつ伏せで横たわる銀髪の少女の傍まで来ていることに。
数mという距離は彼女が戦う上で確実に巻き込まれるほどだ。
そしてその予感を裏付けるようにハザンは微動だにせず、自分の腕から流れる膨大な血を止めるわけでもない。ただ不気味に立ち尽くし……そして、不敵な笑みと擦れるような声が鳴った。
「【反転の幻岩峰】」