最愛の悲妹
メクフィスは薄れていく意識の中で確かな自分を見る。
過去を思い出すように、脳裏へと鮮明に蘇る――すべてが変わってしまった日のことを。
生きているという実感は生きていた過去を見ることで達成されようとしていた。
◇ ◇ ◇
どこにでもあるような平凡な家庭であった。強いて平凡でない部分を挙げるとするならば赤い屋根の一軒家に住む家族は魔法師として近所では有名であったことぐらいだろうか。
何よりもそこに住む二人の姉妹は美人であることから町に暮らす者ならば知らないものがいないほどであった。いつも二人で行動しているような仲の良さに周囲は誰もが子供や孫のように接してくれる、そんな温かい地域に生まれた。
まるで双子のように似た容姿であり、町の中でも一目置かれるほどに美しかった。姉は紫紺の髪で一つだけ団子を作っている。活発で人当たりが良くサバサバした性格で、人懐っこい表情は町中でも評判である。打って変わって妹のほうは、そんな姉の後ろを一歩引いて歩いてきたからなのか、お淑やかで気立ての優しい娘という印象である。似ているのはその顔立ちや背丈であり、妹のほうは秋の陽溜まりを思わせる少し色素の薄いブラウンの柔らかい髪を伸ばしていた。
可憐である一方でそこには血管が薄く見えるほど陶器のような白い肌。身体の細さを隠すようにいつもロングスカートを着て、上着も手縫いのケープを羽織っているような娘であった。
二人で出かければいつも姉に声がかかり、男どもがよって集る。
しかし、その後ろについて回る妹がいるため姉は社交的な笑みを向けてそつなくあしらうのが常だ。
そんな姉を妹は生まれ落ちた時から今日までずっと憧れ、尊敬し、敬服し、目標にし、大好きだった。いつかは姉のようにと願って努力してきたつもりだ。
いつものように両親が外界での任務に出ている間、家を守るのは姉妹の役目であった。
だが、それも姉妹が二人共二十歳になり仮初の平和が容易く崩れ去ったのは妹にとって唐突なものであったが、その前触れはもう何年も前からあった。
それこそ姉妹が平等に親から与えられると思っていた魔法の才能を考えれば……。
「お父さんたち。今回は長いね」
夕飯の買い出しを終えての帰り道、茜色に染まった陽を背に二人は小高い丘の上にある自宅へと向かっていた。ポツリポツリと灯っていく屋内の温かい光を背景に二人は一本道を上っていく。
ふいに話しの話題を振られた姉は、妹に不安を与えないように気丈に振る舞って破顔した。
「メリアは心配性ね。きっと大丈夫だから、お父さんもお母さんも今回は少し遠出になるって言っていたじゃない」
「そうだけど……」
「お父さんもお母さんもきっと早く帰りたいはずよ。そうよ、きっと報告書がたくさん残っているんだわ。もう総督もわかっていると思うんだけど。一度お灸を据えないと駄目ね」
姉であるヨルは呆れた様子で柔らかい眼を向けた。喉の辺りまで出掛かった「ついていきたかったんだけど」と溢しそうになる言葉を呑み込む。最初から自分が向かえばよかったのかもしれない。
付いていくという選択は思っても当然行動には移さない。メリアを一人にすることなどヨルは一度として考えたことがなかったし、それはしてはいけないことだと決意していた。
姉妹でこれほど魔法の素質に差が生まれてしまったことをヨルはいつも引け目に感じていた。一方で妹を外界に出さなくて済む、自分が行けば済む、と親にも似た感情を抱くようになっていた。妹は自分が守らなければならないと。
だって、歳も一ヶ月ほどしか離れていないことを考えれば思ってしまう。妹の才能を全て自分が吸収してしまったのだと。
両親も避けていたようだが、元々ヨルとメリアは双子であった。しかし、ヨルが早産で早めに生まれてしまい、メリアは母体に残された。翌月に未熟児として生まれたのだ。非常に稀なケースであるが、双子であるとわかった段階で母体のリスクを考えればメリアは諦めるべき命だったのだ。
しかし、身体の丈夫さだけが売りのような母は当時としてはそれこそ細胞の活性程度であった治癒魔法の恩恵でメリアを授かったという話だった。
だからこそメリアを、妹を守るのは自分の役目だと思っていた。自分を羨む妹を知ってはいたが、それが彼女には気が気でない。
だというのに周囲の評価はヨルの気持ちとは裏腹に正当な評価だけを下す。二桁魔法師を親に持つからなのか、二十歳にしてヨルはシングル魔法師目前となった。
魔物の侵攻は依然として苛烈であり、魔法師が外界へと駆り出される頻度は多い。防備もままならない現状では唯一対抗できる魔法師が頼みの綱なのだ。
何よりも次の侵攻に備えて強力な魔法師を国は――人類は欲していたのだ。
口では言わないがここに住む人々も明るく振る舞って震える毎日を送っている。
「ヨルは、お父さんたちを手伝えるんだよね……」
そんな無力を嘆く声音にヨルは胸が締め付けられる。必死に堪えるがこの頃メリアは家の中で唯一期待に応えられない自分を恥じ、責めるようになっていた。
幼少の頃、二人して父から魔法を習う機会が与えられたことがある。
家の方針としては魔法師になることは否定的であったが、魔法は身を助けるため……自分の命を守る力として父は葛藤の末教えようとしたのだろう。
しかし、それが全ての始まりだった。必然的始まりだった。
誰しも魔法を構成するためのエネルギー体である魔力は備わっているものだ。だが、メリアには魔力という物自体がそっくり失われたように何もできなかった。
魔力とは循環器系である心臓から血中に含まれる魔力球が根源としてある。だが、未熟児として生まれたメリアはその器官内で魔力球の生成不全を起こしていた。無論、命に関わるほどのことでもないが。
少なくとも周囲から囁かれる魔法師一家の中にメリアはいなかった。
それでもメリアは始まってすらいない訓練を前に挫折し、その日は一晩中泣き続けた。それからも両親やヨルが家から少しでも離れれば僅かな時間でもメリアは縋る思いで一人念じ続けた。
決まってその後は部屋から出てこない。
妹が何をしているのかなど、ヨルはあの妹を挫折させた日から知っていた。帰りの時間を遅らせるために外で黙って見ていたことも一度や二度ではない。
そして窓の隙間から聞こえる啜るような泣き声にヨルは膝を抱えて時間が過ぎるのをひたすら奥歯を噛んで待った。
おそらく両親が外界に出ていくたびにメリアは今も苛まれているのだろう。それは姉であるヨルであっても解消できるものではなかった。
だから無責任とは知りつつも「手伝えるんだよね」という言葉にこう嘘を吐く。
「メリアは私よりいっぱい才能を持っているんだし、きっと寝ていた魔力も眼を覚ます日も遠くないよ」
悲壮が言葉に乗らないように浮く歯を堪えてヨルは紡ぐ。
そんな励ましの言葉にメリアは無理やり飲み下したような笑みを作った。メリアが向ける真っ直ぐな視線をヨルは真正面から受け止めてくれない。
ヨルの視線はメリアの首元を見るので精一杯である。だからこそ笑顔を作って誤魔化すのだ。
事実、メリアは誰よりも頑張り屋であった。魔法という一つのジャンルだけならばヨルに軍配が上がるのだろう。それでも家事や裁縫、知識に関しては魔法師であるヨルさえも凌いだ。影でどれほどの努力をしてきたのか。傍で見ているから……ヨルは余計に自分が恨めしい。
あれほど守ると決めたのに努力だけで言えばヨルはメリアの足元にも及ばない。なのにヨルの才能は目覚ましく開花し、周囲は諸手を上げて称える。軽々と口にされる天才という言葉。
才能と一言で片付けられるのがどれほどメリアを傷つけたかなどヨルは怖くて想像すらできなかった。
だから魔法に加えて稀有な力を発現させたと同時に名誉あるシングル魔法師の栄誉を授かったことはヨルを一層苦しめた。
人類を救う過ぎた力なんていらない。その代わりに誰よりも頑張り、願っている妹に何故少しでも力を与えなかったのか。
細やかではあったが、その日、ヨルは家族に祝ってもらった。
そこでメリアは家族の誰よりもヨルを祝った。
誰よりもヨルを褒め称えた。
誰よりもヨルの昇格に喜んだ。
誰よりもヨルの才能を羨んだ。
誰よりもヨルを妬んだ。
誰よりもヨルの力を――欲した。
そんなメリアを他所にこの時ばかりは両親もヨルしか見ていなかった。そしてヨルにはメリアしか見えていなかった。
自分にだけわかる。自分だからこそわかる。妹が向ける歪んだ微笑を……。
だからこそ、ヨルは何があってもメリアを一人にできなかった。それがこの力を有効に活用する使命なのだと。
愛する妹を守れるのならば憎まれてもいい。現状を受け入れた末にヨルが心を必死に隠して決断したことだった。
そんな時――人類が一箇所に集結し、やっとのことで生活ができるようになったという時に……あれが現れた。黒くて巨大で、禍々しい魔物が……。
それは人間を喰らい即座に己の糧とする。
全人類に最大レベルの避難勧告がされたのは両親が外界に出てから一週間後のことで……ヨルへの緊急招集が掛けられた二日後のことだった。
ヨルは後ろ髪を引かれる思いでメリアを置いて去っていった。「すぐに帰るから」と言って出ていった。
一人取り残されたメリアは事前にヨルから聞いていた避難場所へは行かず家で帰りを待つことにした。
魔物が出現したのはアルファという話だ。かなり遠く、万が一ここまで侵攻されればどこに避難したとて変わりないのだろう。
それこそ一時間生き長らえるかの違いしかないのだろう。
いや、メリアにとってこの家に留まり帰る場所を守ることこそ力のない自分にできる唯一の務めなのだと思ったのだ。
どうして自分だけが安全な場所で死地に向かう家族の帰りを待たなければならないのかと長年続けてきた自責を繰り返しながら家で待つ。
灯りすら点けず、沈む夕日を無感情に眺めてメリアは揺り椅子の軋む音だけを聞く。
血が滲む思いで、どれだけ堪えてきたのか。もう家の中で抱える不安は限界にきていた。帰りを待つという恐怖が比例するように己の無力を嘲笑っていくのだから。
家事ができるからなんなのだ。服を縫えるからなんだというのか。
なんで皆と同じように魔法が使えないのか……それだけが苦しい。今でこそ町の人々も温かく接してくれるが、それは優秀な両親がいて、そこから生まれたヨルがいるからだ。
皆の期待に応え、その期待すら容易く越えたヨルと比べるまでもない。メリアは期待を完膚なきまでに裏切ったのだから。今も耳に残る心無い言葉が一人でいることを責め立ててくる「あぁ~一人でも才能を受け継いでよかった」と、そんなことを近所のおじさんか、誰かが言っていた。
メリアは何一つ認められていない。そう感じて止まない。
日常の一部の筈なのに一人空虚な孤独。
いつからこんなことを思うようになったのか「あぁ、お父さんが……」後に続く言葉は喉を支えメリアは膝を見るように俯く。
そう、ふいに吐いた、ヨルに向けた父の言葉「さすが俺達の娘だ」という言葉――ヨルへと向けた言葉。
二人に差を付けるような両親でないことはメリアでも良くわかっていた。だからこそ思ったのだ。結局、それが本心なのだと。
メリアにとって両親は愛しているし、姉であるヨルも愛している。皆がメリアを愛してくれた。毎日が楽しく温かい。
それでも過る親の期待。
「フフッ…………」
無意識に漏れ出る自嘲と理由のわからない顔。そんな思考が途切れたのは玄関で物々しい音が鳴ったからだ。
この町に残っている人間などいるはずがない。そう思った直後、掠れた声が確かにメリアの鼓膜を震えさせた。聞き間違えるはずがない。
だってそれは――。
やっと帰ってきた。そう思って部屋から慌てて飛び出したメリアは絶句した。
そこには全身を血だらけにしたヨルが倒れていたのだ。
「ヨルッ!!!! ヨルヨルヨル……」
駆け寄り混乱する頭で全身を隈なく見る。
そこは固まった血が黒い肌の上に瘡蓋のようにくっついていた。抱き起こすように細い腕を差し込んで自分に寄りかからせた。
だが、生ぬるい感触を腕に感じてメリアは気が動転する。必死に呼びかける声にヨルは辛うじて瞼を開けた。
「や、っぱ、り…………避難して、なかったのね……」
「ま、待っててすぐ…………すぐ……どこかに包帯が、血を止めなきゃ……」
首を振るメリアの肩をヨルが弱々しく引いた。腕の重さだけでそこに力というものは一切感じない。
「よく、聞いて。お父さんもお母さんも…………」
「嫌だ!! 聞きたくない!! ヨルはヨルは私を一人にしないよね。一人は嫌……」
「私も……ごめんねメリア」
正しさのみを乗せた言葉はいつものように逸してはくれず。逃がさないようにメリアの瞳を見つめていた。重傷を負ってもなおここまできたのだろう。もう長くないというのにここまで走ってきたのだろう。汗の代わりに全身を赤黒い血が染めていた。
すでに事切れてしまっているような冷たさ。体温というものがここまで低下するのかというほどに冷たい……鉄のようにただただ冷たかった。
なんでいつものように視線を逸してくれないのか。この時ばかりはメリアも願わずにはいられなかった。信じたくなかったのだ。
「ヨル? ヨル、ヨルってば……」
微かに開いた瞳の中でいつも活気づいている光を見つけることはできない。最後に絞り出したような雫が薄らと膜を作っている。
しかし、ヨルの身体を揺さぶる力は弱々しいものだった。誰か医者を呼ばなければと思っても、今この町にはメリアを残して誰もいない。
訪れた静寂はメリアが為す術を無くしたがために降りたものではなかった。静まり返る家の中でメリアはじっとヨルの顔を薄情とも取れる無味乾燥とした眼差しで見下ろしていた。
「一人は嫌だよヨル……」
そして見下ろす視線がふいに溢れたAWRへと向かった。二対の短刀。彼女が魔法師になったその日に両親が買い与えたものだ。
彼女が示した才能の成果だ。
それを見た直後――メリアは琴線に触れたように口角が持ち上がった。
「あ、あぁ、ハハッ……ハハハハハハハハハハハハァァアアア……あ~あぁ」
可笑しく可笑しくて可笑しくてオカシイ。
誰よりも大好きな姉が死んでも慟哭を上げることができない。そう思った時、気付いてしまったのだ。自分の奥に眠っていた、檻に閉じ込めた感情を。
一本だけ短刀を引き抜く。なんて重いと思った。ずしりとした金属の重みが一つの凶器として狂気を宿す。
「死んだ、死んだ、死んだぁぁ……シン、ダアアアアァァ…………ヨル、ヨルゥゥ……ヒクッ」
いつも妬ましく思っていた。憧れと憎しみは同居できる感情だ。大好きであると同時に疎ましく思っていた。彼女がいなければ、と。それでも彼女はメリアの姉である。何ものにも代えられない姉である。
いつも傍で守ってくれた強い姉である。
短刀を握る手は血が滲まんばかりに力が入ると、スゥッと手の中から滑り落ち、床にカランと虚しい乾いた音を静かに立てる。抱きしめるように鳴ることを止めてしまった胸に顔を埋める。顔に血が付こうとも彼女のものならば……しかし、メリアの口元に付着したそれを彼女は乾いた舌が無意識に舐め取った。
「…………甘い」
ドッと遅れて溢れ出す涙。それはヨルという一人の存在を構成していた源。喉を伝って流れる血液に強くヨルを感じた。姉が入ってくるように、自分に力を与えてくれる気がした。
ヨルが自分の中に感じられた。彼女の全てが自分を満たしてくれる、安心させてくれるのだ。
全身に行き渡るヨルを感じて、メリアは怒涛の如く嗚咽を吐き出す。
「一人にしないでよぉぉ……ヨルゥゥゥ」
ヒクヒクッと泣き続けてメリアは彼女と一緒にいたくて、常に一緒にいたくて、流れ出る甘く感じる血を舐め続けた。
◇ ◇ ◇