全の中の一を欲す
◇ ◇ ◇
自分の中の一部が漏れていく。
痛みは感じない一方でそんな喪失感が胸の奥で疼いた。メクフィスにとって血を失うとは自分が欠けるような喪失を伴う。
一撃で距離を離されたメクフィスは即座に追い縋るジャンとの交戦を開始していた。しかし、その戦闘は一方的にやり込められているのが現状だ。
追ってきている気配はするが、林立する木々の奥から休む間もなく長大な針が襲い掛かってくる。
それは完全遠隔操作されたAWR。
形状記憶合金というのが正しいのだろう。ともすればそれは液体のような滑らかさをその表面に映しているのだから金属であるかは甚だ疑わしいのだが。
現在は薄く伸ばした針が宙空を滑るように襲いかかっていた。剣やハルバードのような形状ですらない、ただ串刺しにすることのみを追求した形状が死角問わず走り抜ける。
串刺しどころではない、あんなものを食らえば容易く貫通し、すぐには気づくことすら出来ないだろう。それほどまでに薄く、細く、鋭い。
無理やり武器として例えるならば投槍でいうほぼ先端のみを尖らせた棒に近く、ソリフェレウムといったところだろうか。
メクフィスは走りながらも気を緩めることができなかった。あらぬ方向からの攻撃は魔法ならばまだ対処できたかもしれない。
木々の間を駆ける。跳躍しようと一瞬でも停滞しようものならば足に穴が空くことだろう。
「――!!」
即座に頭を低くし、幹の中から貫通してきた白銀の針が音も立てずに項の上を通過していく。擦過音すら聞こえない無音の攻撃。
コンマ数秒後には駆けていた進行方向上から真正面に剣山を横向きにしたような針が飛来する。
腹部に受けた傷は即座に修復したものの、現在はそんな余裕もなくなっている。メクフィスの身体には至るところから血が流れていた。最初こそ極細の針を捉えることができなかったが、この身体の身体能力を持ってすれば慣れるのは時間の問題だ。
無数の針を避けることすらせず、真正面から迎え撃つメクフィスは腕に力を込めた。嵌めていた手袋は身体に吸い込まれるようになくなり、繊手とも言える細い手が自らの傷口の上を擦っていく。
血が糸を引きながら指先に乗り移る。そのまま振り上げた。
「【混同拒絶】」
四指の先に付着した血液が空間を切り裂くが如く、目の前を鮮血が覆っていく。まるで透明というキャンバスに血という絵の具をぶち撒けたように赤一色に染まる。
速度を変えず貫かんとする針は血液の壁の前にピタリと制止した。これ以上は進むことができないといった具合に……。
その隙にメクフィスは射線から脱出。
そして再度一気に距離を離す。指示を受けたAWRは一定の距離から前進することができない。
その頃、当然ジャンもメクフィスを追っていた。いや、近すぎず、離れすぎず、確実に見つからない距離を取っていた。
【レイジボール】は全てにおいてジャンの魔力と密接な関係で結ばれている。元の体積以上に増えることはできないが、最大体積内ならば形状は自由自在。
許す限り、増減することができる。無論、全てにおいて詳細な情報を魔力を伝って逐次書き換えなければならないが。
その中で状況が読めない部分があった。相手を殺傷するために指示を出してからこちらの情報を読み込まないのだ。
ジャンは該当する場所を視界に収めた。
紅い何かが時間そのものを止めてしまったかのような光景に訝しむが。
「【混沌感染】」
刹那――鮮血に染められた壁が弾けるように爆発する。無数の血飛沫を撒き散らした。
距離を取ったと思わせたメクフィスが引き返し、潜伏していたのだ。彼女としてはさすがにこれ以上は分が悪くなる一方で、些か飽きた。
メクフィスは涼しげに血に染めた地面に視線を移して、少しの間物思いに耽る。
――確か、私は死ぬと予想されていましたが、ルンブルズとの戦闘ならば死ぬ可能性は低くなるのでは?
クロケルが告げた死ぬだろうという予感はアルスとの戦闘の末という解釈の結果だ。しかし、予想に反したイレギュラーはもしかするメクフィスを救うのではないだろうか。
そんな思考が一瞬でも過ぎった段階でメクフィスはつまならそうに溜息を吐く。
くだらない、それでは本末転倒もいいところだろう。
こうしてジャンに時間を割くことは結局クロケルにとっても思わしくない状況なのだ。いや、彼のことだ、それすら大した影響を与えないのかもしれない。
メクフィスは彼が予言したように死ぬのならば、それはそれでいい。寧ろ願ったりだ。クロケルに言ったように生きているという実感が死ぬことでしか味わえないのならばそれさえも一興。
新世界の創造は面白そうではあるが、メクフィスとしてはやはり自分という個人の在り処をずっと探し続けてきたのだ。それを知ることができるのならば……。
「あなたではそれも適わないでしょうね」
落胆の翳りを降ろし、狂気が消えていく。
久しぶりに使った身体も随分と感覚が戻ってきていた。
「これはこれは………………撃ち損ですか」
見据えた先では白銀の盾がジャンの全身を余すこと無く攻撃から防いでいる。この選択が最善であることを即座にジャンは見抜き実行に移した。
【混沌感染】はメクフィスの血液から採取した女性による魔法ではなく、メクフィスの異能によるものである。ただ魔法というよりは血液を扱い情報を読み取る異能であるため、少々異なる。
混在したメクフィスの血液は常人の数百倍もの情報量を保有している。それも混ざり合った情報はそのものを変質させていた。
身体の一部、または魔力をエネルギー体として使用している魔法で防いだ場合、確実に構成そのものに影響を及ぼす。何より人体に入ろうものならば拒絶反応を起こし、血中の情報を蝕む。そうなれば魔法という力そのものがスポイルされることは疑いない――永久的に魔法を使用できなくなる。
大きなリスクを伴うとしても使用に躊躇いはなかった。彼ではメクフィスの望みは敵いそうもないと思ったからだが。
基本的にメクフィスは血液を使用する魔法は使えるというだけで現実的には一度として使いたいものではなかった。というのも己の血を使うということはそこに含まれる記憶した素体も犠牲にしていることになるからだ。
もちろん選んではいるのだが。
――20人分は減りましたかね。
ある意味で整理するには適量なのかもしれない。メクフィスの場合、他国に潜入したりなどの用途がほとんどであり、実際の戦闘で役に立つ素体は各系統に一つあれば十分であり、魔法としての優劣を無視すれば一つ二つで事足りてしまう。
「参ったな、僕は女性を攻撃することに抵抗があるんだけど……」
白銀の盾が姿を球体へと戻した直後、それに意識を向けていたメクフィスは背後から鳴る、金属を擦り合わせたような擦過音に一瞬反応が遅れる。
身体を反らして振り向くと目の前を針が通過した。
周囲に散らばったAWRの欠片が次々に集まり、球体を肥大化させていく。
顔を戻したメクフィスは卑しい笑みを顔に浮かべた。そこから発せられた言葉は女性のそれであるが、少々芝居掛かっているようである。
「言った傍から……痛いじゃないの!」
頬に走った切り傷がじわりと血を浮かび上がらせるが、メクフィスは指の腹で傷口をなぞっていく。するとそこにはキメ細かな肌が元の状態を取り戻していた。
「抵抗があることと、できないことは等しくない。少しだけ心が痛むというだけだ。お前が誰かなどどうでもいいが、その姿……」
「少しもったいなかったかしら? 誰だか知りたいならば然るべき順序を踏んでくれなきゃいやよ…………その変わりにこっちでお相手してあげる」
最後に見せた下劣な口元の後、グニャリとメクフィスの顔が血の色に変色し、全身に行き渡る。身体が作り変わった。
それは少し背が高くなっており、女性としての特徴を見せ、手入れの行き届いていない灰色の髪。常にだるそうな表情、目の下にはくっきりと隈が見て取れた。
その新たな姿の女性はどこに隠していたのか、腰から魔法書型のAWRを見てジャンの視線が鋭いものへと変化する。
「ヒスピダさ……ん」
全てが繋がった。それが目の前で合致した。もう疑う余地も我慢する余裕もなく、ただ純粋な怒りがその目に乗せられる。
「始めましょう、ジャン・ルンブルズ。自国のシングル同士の殺し合いを」
純粋無垢な笑み、微かに湛える口元の微笑。
似ても似つかない言葉遣いである。ジャンの知るヒスピダとは中身が違う。そう思っても外見は寸分違わない記憶の彼女を模していた。