それだけが望み
小刻みに震えるロキを遠目に見下ろすハザンはいつものように言葉を重ねた。初めから戦いにすらならないだろうと見ていた。
それでも期待以上に楽しめたのは事実であり、最後の楽しみは残したままで、残したままなのだから。
「生存競争において人間だけが、そこから逸脱している。同族殺しほど健全な本能はないというのにな。気にくわなければ殺せばいい。従わせればいいだけの話だ」
ハザンはイカれた笑みを貼り付けて自分のこめかみをトントンと叩き。
「これがあるからいらない情が入り込む……おっ」
ゴシゴシと口元を拭い、か細い呼吸音を鳴らしてロキはゆっくりと震える足で立ち上がった。
霞む視界でなんとなく映る巨体を見る。
「ゴホッ……ハァハァハァ……その程度のオツムしかない、からお前は何も感じないんでしょう、ね」
「そうか、お前にはそう見えるのか。なら弱者として淘汰されろ。死んだ先に正しさがあるならだが」
フフッとロキは弱々しく頬を持ち上げた。死んでまで通さなければならない正しさなどあるのか、彼女には答えが出せない。それでもなんとなく以前にアルスも同じようなことを言っていた気がしたのだ。
無論、それは外界での心構えのようなもので主観でしかないのだが。
それが皮肉なことにハザンの口から出たことが、どこかおかしかったのだ。
「あのお方は……フゥ、ゲホッゲホッ……あの人は呆れるほど優しいんです。こんなことになったのなら外界でだって一人生き抜くことができるん、ですから……」
自分で言い出したロキはハザンに対して反論のつもりなどなかった。きっと勝手に動く口が再確認のために言葉を発しているのだから。霞む視界に更に靄が掛かったように涙が溢れる。
何故、不遇であらねばならないのか。
何故誰もが彼を敵視するのか。
何故……何故、誰も彼を理解できないのか。
「子供のように魔物が蔓延る、外の世界を美しいと思ってしまうのです……ハァハァ、くっ……だから……私は……私だけはアルの味方でいなければならない。私が……心からそう願うのだか、ら……」
アルスの居場所を願い。彼がロキにとっての居場所であるために寄り添う覚悟は決して揺るぐものではない。
血に混じった悲痛なまでの願い。
「おい……やめろ。そんな顔をするなよ」
ハザンが望んだ表情ではない。それは不純物を全て取り除いたような無垢な顔。
自分が助かることだけを考えた懇願とは遥かに遠い場所にあるものだった。大切な者のために自らを命を差し出す自己犠牲とも違う。
故に――巨体の歩が止まり、ぞわりと肌を嘗める感覚が襲う。
「そんな顔をするなよ…………今すぐにでも殺したくなるだろうが」
身体の芯から湧いてくる殺人衝動。ロキの顔はハザンが知る強い者のそれではない。かと言って弱いだけの無力なそれでもない。
だからこそ、絶対的な力の差で屈服させたいのだ。だからこそ、力こそが正しい世界で非情なまでの衝動が自然に全身を伝っていく。
「――!!」
しかし、ふいにハザンの身体から力が抜けていく。そこにはまだ勝てないとわかった今でも力強い輝きが双眸に灯っていからだ。
そうでなくては、そうでなくては面白くない。微かに繋ぎ止めている勝機を潰してこそ面白みがあるのだから。
もう事切れていてもおかしくないほどの重傷でありながら未だ戦意を向けるロキは己の願いと想いのために自らを奮い立たせているに過ぎない。
この期に及んで助けなど微塵も期待していなかった。目の前の障害を排除することだけがロキの胸中を満たしている。
もう憎しみすら抱かない。彼が告げたことは確かな真実なのだから。何よりアルスが人を殺めることを忌避しているのだから。
だから、アルスは心を殺すのだから。
――それがなんだって言うのですか。
ロキがアルスの傍にいるのはそんなつまらないことではない。最後に行き着くのは、どんな理屈も通用しないロキの本心で、想いなのだ。
「も、もう……カハッ……もう話すこと、なんてない」
「ハハハハハッ……撤回する。お前もこちら側、だ!! 十分イカれているぜ。そこまで心酔できりゃーもう……」
血を吐き出しながらロキは穏やかな失笑を漏らした。単純だと言ったのは相手だというのに、こんな簡単でシンプルなことすら考えられないなんて。
「心酔? 捻くれ過ぎ……」
ありったけの魔力がロキから迸る。どこにそれだけの気力があるのか、捻り出せるだけの精神力があるのか。
結局のところその行動はハザンに一つの行動を取らせた。
周囲に漂い魔力が雷系統に属するものであるかのように網目のような細い電撃が走り抜ける。
まだ勝てると思っている。その思い上がりを圧し折るためにずっと気づかないふりをしたのだから。
「ば~か。気づかないと思ったのかよ!!!」
高々と頭上で組まれた両腕が鉄球のような拳を作ると濃密な風が覆う。直後、それを地面に振り下ろす。
一瞬にして地面の中を爆風が駆け巡った。
地面に走る無数の罅はこの平地にクモの巣を作る。そして罅が広がり地面から風が吹き上がった。
何をするつもりなのか、ハザンには知る由もなかったが、地中に埋まっている魔力を察知していたのだ。序盤で地面に腕を差し込み魔法を発動直前まで持っていった段階で明らかな異分子が地中に埋まっているのを見透かしていた。
おそらくトラップだろう。ここまでがそうであったように。
ハザンの知識としては最大火力である【瞬炎地雷】を超えるトラップは今のところないはずだ。いや、それすら戦闘には不要の憶測に過ぎないのだろう。
それでも自分を殺しうるものではないと思っていた。仮にそれほどの魔法が内包されていれば地中に腕を差し込んだ段階で明確に危機感知できていたはずだ。
今、それを破壊するのは使われては面倒だからということではない。単純に切り札を潰された顔を見たいがため。
このためだけにこんな子供を相手に長々と付き合ったのだから。
吹き上がる風の中に銀色のナイフがいくつも舞い上げられる。ほぼ全て、地中に埋まっていたものを破壊したと感触で判断する。
一瞬だけハザンの脳裏を過ぎったのはトラップではないということだった。
――ナイフ……AWR?
それも即座に否定される。既存の設置型遅延魔法。トラップと称されるものは性能上の限界がある。
だからこそAWRを使用し、魔法の経路とする選択はできる。これだけの本数ならば遠隔で発動もできるのだろう。
やはりハザンは少々、目の前の少女を甘く見ていたのかもしれない。素直にそう思わせる。
だが、これ以上は……思考は欲に勝てなかった。
早く見たい。最後の切り札が潰された今、彼女はどんな顔をしているのか。
期待するものであろうと、即座に殺すことに変わりないが、このためだけに待ったのだから。
ゆっくりと顔を上げるハザンが見たものは。
「んあ?」
満身創痍のひ弱な彼女の顔は何一つ変わらなかった。瞳に覗かせた戦意は衰えるどころか……口元が弱々しい笑みを作り。
「ガキィ!!!! ハッ……!?」
「……伏な、る…………漠々と…………朧を…………顕現させたま、え……」
息苦しくなったことをハザンはやっと自覚することができた。この肌を押すような圧迫感。周囲を見渡し気づく。
「魔力だと――!!」
地中から吹き上げるのは膨大な魔力。純粋な雷を構成するために必要なエネルギー体であった。まんまと一杯食わされたのだ。
トラップだと思い込んでいたものは単純に魔力を内包していただけだったのだ。その媒体がAWRだったのは彼女の属性に合わせるためだろう。
あのままでは到底魔法までを構築することはできない。もちろん、長時間魔力を留めておくこともできるはずがない。ハザンが到着するまでの時間だけでも相当劣化していたはずだ。
それでも周囲に散布された魔力は異常なほど広範囲にわたっている。
濃密というほど質は高くない。それでもこの一瞬を相手が狙っていたのだと直感した時、ハザンの顔が初めて恐怖を湛えた。