美女と野獣
圧倒的な強者の追随を背に汗を浮かべながらロキはひたすら準備したルートに沿って逃走する。
度重なる轟然たる音が巨木を薙ぎ倒していく。
ロキは一度も振り向かず真っ直ぐ見据えていた。距離は探知すれば精密に測ることができる。何よりも一瞬の隙も見せるわけにはいかなかった。
確実に仕留めるためには少しずつ削っていかなければならない。自分とは比較にならない魔力量。その暴力的なまでの奔流が彼女の息を乱していた。
木々の間を縫うように駆けるロキ。
ハザンはそんな障害物を避ける素振りすら見せず、腕に纏った濃密な風の研磨機で大木を薙ぎ倒していく。が、追っていた少女とは別方向から膨大な氷の矢が降り注いだ。絶妙に死角を突いた攻撃、追っているハザンからすればそれは意表以外の何ものでもない。
しかし、それすら一瞥し、乱暴に腕を振るう。
すると暴風が荒れ狂い矢の尽くを粉砕した。まるで気にも留めず、時間稼ぎにもならない。
これらは魔法によるトラップだが――。
駆け抜け様、設置しておいた縄にロキはナイフを滑らせる。紙でも切っているような切れ味は相手に意図を悟らせる暇を与えない。
すると頭上から何重にも編み込まれた縄に吊られた巨木の丸太が鈍い音を立てて落下していった。
魔法であればその関知は機敏に察せられるかもしれない。しかし、天然のトラップならば。
――たぶん、効かない。
そう、天然であればその速度は物理法則を超えない。ならばシングル魔法師に匹敵すると言われているクラマ相手に通用するはずはなかった。
ロキとハザンの間に割り込むように振り子の要領で落ちていく巨大な丸太がハザンの全身を覆い隠すが――予想通り、空気を振動する音がビリビリと肌を打つ。
それは衝突した音でないことをロキは聞き取る。丸太の悲鳴が聞こえたかのようだ。
これは単なる布石に過ぎない。ダメージに繋がらないことは百も承知。
丸太が動き出すのと同時に吊るされた縄が一定の重量を下回ることでトラップも発動するよう細工してあるのだ。
完全に粉砕された直後。一帯に配置したトラップが一斉に発動した。
連続する爆発音。地雷型トラップでも現状最大火力を誇る魔法【瞬炎地雷】。
衝撃波に背中を押されるようにロキは一気に距離を開けて背後を振り向いた。
「――!!」
その直後、爆煙を切り裂く一迅の風が横薙ぎに切り裂いてくるのを視界の端で捉える。それは空中を――いや、視界を真っ二つにするほど広範囲に渡っており、空間を歪める濃密な風の刃。
ロキの探知ソナーを駆使しても回避するのは至難の速度。察知は早くとも回避まで逡巡の間もない、跳躍中であるため、回避する術はなかった。
即座に腰から引き抜く短剣【月華】を抜きざまに振り払う。
鞘から迸る電界。雷系統である補助が最大限生かされるのは何も刀身部分に限らない。【月華】の鞘にも基軸となる魔法式が刻まれているのだ。それは引き抜く摩擦を利用しており、完全に振り抜いた直後、一気に電撃は増幅、構成の系統基盤を即座に完了させる。
雷の雄叫びが上がり、風の刃を真っ二つに斬り裂いた。
二手に分かたれた風の刃はそのまま上昇し、巨木を切断していく。腕に残る硬質な鋼を切ったような痺れ、それは込められた魔力量の多さ故の衝撃であった。
魔法としての最大火力を超え、構成さえもひたすら暴力的に歪める魔力量。たかだか中位級の魔法が尋常でない破壊力を有する。
ロキは痺れから取りこぼしそうになる【月華】を両手に持ち替えた。今の一撃もこのAWRがなければどうなっていたかは想像に難くない。
立ち昇る煙から不敵な笑みを浮かべた巨体が飛び出る。そしてまた始まる死に物狂いの追いかけっこ。
今のでほぼノーダメージであるのをその表情から悟ったロキは、以降も仕掛けておいたトラップを全て消費し、やっとのことで辿り着いたそこは、アルスと訓練のために使っていた平地であった。
後を追うハザンが木陰から飛び出し、二人は向かい合わせで対峙した。着地しただけで重苦しい音が響く。
ハザンはどこか純粋な高揚を顔に浮かべている。
「悪くねぇな」
それはロキに対する称賛なのか、はたまた死地として選んだ場所を気に入ったのか。これまでのトラップをまるで物ともしない言い草に一層ロキの表情が険しくなる。
二人はまるで体格が違う、それは大人と子供以上の開きがあった。ロキの細い腕などハザンのどこを探しても比較すらできない。
鋼のような肉体に走る無数の切り傷が彼をそこらの魔法師から逸脱させていた。
「アルス様の障害となりうる貴方はここで死んでもらいます」
「…………」
そう気勢を発した小柄な女の子を見てハザンは一瞬固まる。直後、何が彼の琴線に触れたのか、ガッハッハッハとひとしきり不気味な笑い声が続いた。
そして、自らの顔を手で覆い、固くなった皮膚を引くように手が顔を滑り落ちる。
一呼吸、分厚い胸板が更に膨れ上がり、ぐぐっと身体を屈めて勢い良く吐き出された息――両手は適度に広げられており、指の関節がなるほどに力の籠もった鉤爪の形を作る。
純粋な殺意が魔力として迸った。
それを受けて、ロキは動揺すらしない。最初からわかっていたことだから。何より、やっと彼のために自分にできる命の使い道。昔願ったあの日に近づいた気がしていた。
今は願いの形を変えているものの、根本にあるアルスのためにという一途な想いは何も変わっていない。
「いいじゃねぇか。少しは楽しませろよ。せめて俺の身体に傷として刻まれるぐらいには……!!!」
刹那――ハザンは両腕で顔を覆う。
それは視界の端に閃く物を見たからだった。
腕に直撃した電撃がプスプスと細い煙を昇らせる。
全身に纏った風の装甲が展開されるよりも僅かに早く、電撃はハザンの身体に到達した。よって魔法は完成に至らず微風が波紋のように広がって塵を舞い上がらせる。
見ればロキは鞘を片手に【月華】を振り抜いていた。白銀の刀身に纏わりつく電撃が踊るように迸っている。
「御託は結構」
その言葉にハザンのこめかみにくっきりと筋が浮かび上がる。血走った眼が不気味に口角を釣り上げ。
「合格だ……」